靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十七回
「いや、それがですね。昨夜の電話の後、もう少し調べてみたんですがね…」
「何か分かりましたか」
「実は…私も気が狂いそうなんです。今朝も出勤はしたんですが、このまま働いているのも怖いくらいなんですよ」
受話器の声が少し震えているように直助には感じられた。十時を少し、回っている。
「どうされたんですか?」
「いや、ちょっと周りに人がいるもので…、よかったら、昼休みにお会いできれば…」
「わたしは構いませんが…」
「それじゃそういうことで…。昼前に会社のロビーでお待ち下さい」
「分かりました…」
怪訝に思いながらも、直助は受話器を下ろした。よほどのことがあったのだろう…と推察できる。直助は、とりあえず、勢一つぁんの戻るのを待つことにした。
小一時間の時が流れた。畑仕事から帰ってきた勢一つぁんの一輪車には、温室栽培の野菜類が山盛りされている。新鮮さはこの上ないが、これから敏江さんが店頭に並べても、客足がない以上、恐らく七割程度がそのまま萎(しな)びるのは目に見えて明らかだった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十六回
機械文明がどんどん進んでいく時代の中で、この商店会だけが閉鎖されたゾーンのように時が停止していた。二十年前と、ほとんど変化の兆しがなかった。それは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかは直助には分からない。
勢一つぁんが畑へ野菜の収穫に行っている間、直助は手持無沙汰のまま時の流れるのを待った。
「昨日も、たった四人なんよ」
突然、敏江さんがそう呟いた。
「お客さんが?」
「そうなんよ。ほんま、やってられへんわ」
溜息混じりにそう言われると、直助には慰めの言葉が出ない。話題から逃れるように受話器を取ってダイヤルを押した。勢一つぁんの家は直助の家と違って真新しい電話機だ。受話器を置いたままモニターを押し、ダイヤルを押せばいいのだが、直助はそれを知らない。彼の頭には、電話は黒く、ダイヤル
を円運動で回転させるもの…というイメージが出来上がっていて固定化されている。
「あっ、山本さんですか。昨日の今日では早過ぎるとは思いましたが、一応、かけさせて戴いたんですが…」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十五回
「もうちょい、後からかけるわ…」
電話の前まで行って急に思い止(とど)まった直助を見て、怪訝に思う勢一つぁんである。
「すぐ戻るで、出るなら言うてや…」
直助の横顔に声をかけ、「お母(かあ)、ちょっと畑へ行ってくるわ」と敏江さんにも振り向きざまに呼びかけて、勢一つぁんは店を出ていった。八百勢は半分ほどを自前の畑で収穫する。採れたてのものが直ぐ店頭に並ぶ訳だから、その点では鮮度が極端にいい。しかも中間マージンを取られないから値段が格安となる。こんな店が都会にあれば大いに繁盛するに違いない…と直助には思える。だが、この幹線道路から外れてしまった今の商店街で客足を増やすのは至難の業に近かった。会長の小山の返事が梨の礫(つぶて)で、いっこうに前進する気配がないというのも頷ける話だった。月日は刻々と移ろうが、コレといった解決策はまだ見出せない状況だった。長閑さの裏には、商売の繁盛が見えないというジレンマが存在するが、今のところ商店会連中は互いに助け合い、なんとか生計を維持している。ある意味、━ 貧しいながらも楽しい我が家 ━ 的で平和なのかも知れない…と、直助には思えた。小さな幸せ感があるから、幽霊話にも皆が現(うつつ)を抜かしてくれる訳である。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十四回
正直、内心で直助はビクついていた。
賑やかに朝飯を食べるというのもいいもんだ…と直助は思う。だいいち、寂しさからは、とにかく解放される。
食べ終えて淹れられた茶を啜ると、心がいつもの冷静さを取り戻していた。
「ちょっと会社へ電話入れとくわ」
開口一番、直助はそう切り出した。先だって電話をかけた山本の言葉が甦ったのだ。その後、何らかの進展があったかも知れない。だが、よく考えてみれば、昨晩の今朝である。いくらなんでも、そんな早くいい情報が入っているとは思えないのも事実である。それでもまあ、口にした以上は勢一つぁんがいる手前、一応はかけてみるか…と直助は意を決した。腕を見ると、八時を少し回っている。和田倉商事は九時からだと直助は聞いていた。一応、というのは最近になって会社がフレックス・タイム制を採用したと聞いたからだが、実働八時間を自分の好きな時間帯で働けばいいらしい。好きな時間に出勤してタイムレコーダーを押して八時間後にまた押す。もちろん、途中で抜けてもいい。要は八時間のノルマを熟(こな)せばOKなのだ。という訳で、直助の判断では山本はまだ出勤していないと思われた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十三回
「会社の人も分からんよって、調べとる最中なんやが…」
「何かの手違いかも知れんわなあ…」
「そういうこともあり得るけど、どっちにしても二十年以上前の話を調べとんにゃさかい、難儀なこっちゃ」
「…そら、そうやわなあ。わいが手伝う言うても、余(あんま)り役に立たんか?」
「んっ? いや、そんなこともないぃ思うけどな…。要はその女性が今、どうしてんのかを確認できたら済むことなんや」
「なるほどなあ~」
つまらないところで勢一つぁんは感心した。
「そんなことより、怖うて毎晩、家(うち)で寝られんのが困るしなあ」
「なんやったら、わし今晩から泊まりにいったるでえ。幽霊も二人なら、ちょっとは遠慮しよるやろ」
そう言って勢一つぁんは陽気にハッハハ…と笑い飛ばした。いつの間にか彼の箸と口は見事に連動して活躍している。この素晴らしい両刀遣いに直助は恐れ入った。
「いや、ほんまにな…。できたら頼むわ」
笑って返したが、実のところ直助は真剣なのだ。なんだか一人になると、また出そうな気がした。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十二回
「勢一つぁんが手伝(てっと)うてくれんなら、鬼に金棒やけどな」
「よし、きまった! で、心当たりはあったんかいな? 昨日の麻雀のときは、そこまで言(ゆ)うてえへんわな?」
「それなんやけど…。あれから幽霊に出た女性が勤めてた会社へ行ったんや」
「んっ! で?」
箸を止めた二人は直助の話に耳を欹(そばだ)てた。
「実は、そっから話はややこしいなってなあ…」
「なんでやの? 直さん」
それまで黙っていた敏江さんも話に加わった。
「言(ゆ)うと長(なご)うなるんやけど、掻い摘んで話すと、その女性は働いてえへんのや」
「やめたんかいな?」
「いや、やめてえへん。やめてはいんけど働いてない…」
「なんや、それは。昨日、テレビでやっとったマジックみたいな話やないか…」
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十一回
で、久々の朝食らしい朝食にありつけることになり、内心ワクワクしている自分が小者に見え、情けなく直助は思えた。
「直さん、大した物(もん)はないけど…、さあ」
促されて直助が食卓へ座ったところへ勢一つぁんが洗顔タオルを手に戻ってきた。
「おはようさん、直さん。よう寝られたかいな?」
鼾(いびき)が五月蝿くて眠れなかった…などとは言えない。事実、昨夜は熟睡したのだし、勢一つぁんの鼾の凄さに驚いたのは朝方だったのだ。
三人で話しながら和気藹藹(あいあい)と食べていると、いつも以上に食が進む。
「直さん、昨日の怪談話やけどなあ…。わいも暇(ひま)やし、一緒に調べてみいへんか? お母(かあ)、ええやろ?」
「そらなあ…。直さんがいつまでも家で寝られんのも気の毒やし…。わてが店やるし、ええで」
敏江さんも反対しないし、むしろ好意的だ。よ~く考えれば、毎晩ここで泊まられるのも困りものだ…という逆の意味を含んでいる。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第八十回
そうなのだ。コケ子は卵も生むから、ペットというより敏江さんには家畜だという意識があるようだった。犬の権太(ゴンタ)は散歩の手間がかかるだけだったから、鶏は貧しい家に実益がある…と勢一つぁんは踏んだのだろう。それで、権太が死んでからというもの、犬を飼わなくなった…と直助には思えた。今と違い、この頃である。コケ子の卵は八百勢夫婦にとって、貴重な食材そのものだった。
「直さん、もうできるよって…」
台所へ戻る擦れ違いざまに敏江さんは直助にボッソリ、そう言った。
「えっ? ああ…おおきに」
霜が降るにはまだ少し早い、朝の冷気がなぜか心地よく、直助の心を潤していた。今日はよく晴れそうである。
しばらくして勢一つぁんが起きたのか、家の中でざわつきが起こった。直助もコケ子の観察をやめ、中へ入ることにした。
食卓には焼き魚にオロシ大根、味噌汁、味付け海苔、卵焼き、きゅうりの漬物と、なんと豪華なことか…。ここ数ヶ月、とくに丸八食堂の朝定が食べられなくなってから、直助はこんなキッチリとした豪勢な食事を食べたことがなかった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第七十九回
敏江さんが台所へ立ったことで、直助も動きやすくなった。のっそりと起きて毛布を畳み、台所に顔を出す。
「おはようさんです。ほんまに、昨日は偉いすんませんでしたな…」
気づいた敏江さんは手を止めて振り返った。
「ああ、直さん、おはようさんです。大したもんは出せんけど、まあ朝のご膳ぐらい食べてって」
にっこりと笑い、敏江さんはまた手を動かし始めた。実のところ直助は、このひと言を待っていたのだ。渡りに船・・とは、よく言うが、まさに、それだった。
「いやあ、すまんこって…。かまわんといてや」
一応、遠慮を吐いた直助だが、内心は、してやったりの気分なのだ。食卓が並ぶには少し時間がありそうなので、裏庭の鶏、コケ子でも見ようと直助は思った。この瞬間は昨夜の幽霊への恐怖心が、まったく消えている。
鶏小屋に近づくと異臭が激しさを増す。中では、コケ子が、ただ右往左往しているだけで、別にどうということはない。そこへ敏江さんが台所から出てきて馴れた仕草で小屋へ入った。すぐ出てきた敏江さんの手には卵が握られていた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第七十八回
八田夫婦はそんなに人は悪くない。しか直助より、ひと回り歳格好も上だから、体力的な衰えは隠せなかった。そんなことで、最近になって朝は九時開店となったらしい。多かれ少なかれ客足はほとんどなく、余り変わらないから大勢に影響ないのが実情だったが…。
六時を少し回った頃、敏江さんが動き出した。直助は眠ったふりを続けている。熟睡したから、一度目覚めると、もう眠れなかった。勢一つぁんの鼾(いびき)は相変わらず、けたたましい。これに耐えてきた敏江さんは流石だが、直助自身も熟睡していた自分自身を思うと、よほど疲れていたんだな…と思える。勢一つぁんが裏庭で飼っている鶏のコケ子は、ようやく卵を産むようになり彼を喜ばせている。飼い犬の権太(ゴンタ)が老いて死んだあと、どういう訳か彼は次の犬を求めず、鶏を飼った。直助は、この経緯(いきさつ)を知らないが、世話するのが結構、大変だろう…とは思えた。餌のドッグフードだけで済む犬とは違うからだ。しかし、散歩の要はなくなるから、まあ世話の頻度は痛し痒しか…とも思えた。雄鶏ではないから早朝の鶏鳴は期待出来ないが、その分、安眠を妨害されることもない。ただ、難点は独特の異臭である。直助が毛布を覆って寝ているところへも、土間伝いにその臭いが伝わった。馴れてしまえば、そうでもないのだろうが、直助の鼻は、ある種、敏感になっていた。