「今帰ったよ…」と、私は云いました。
しかし、誰がいる訳でもありません。闇の空間が広がるばかりの私の部屋。というのも、あの猛暑の夏も去り、季節は木枯らしが吹き荒(すさ)ぶ夕暮れ時でしたし、日は既に夏の同時刻より、その傾きを早くしていました。
私は、とり敢えず靴を脱ぎ、電灯のスイッチを弄(まさぐ)りました。やはり、部屋の立体は存在するものの、家族は消えていたのです。消えていた、という表現は、皆さんに不可解な印象を与えるでしょう。そこで、今に至るまでの経緯を述べることにします。
私には、妻、そして二人の子供がいました。皆さんは信じないでしょうが、家族は殺害された訳でもなく、事故で死んだ訳でもありません。ただ、…消えたのです。云っておきますが、失踪したのでは増してなく、忽然と消えたのです。
こういうふうに云うと、皆さんは信じられないでしょうし、何故だろうという興味と疑問をもたれることでしょう。そこで次に、その成り行きを語りたいと存じます。
私の家は、通勤に便利な、と或る山村にあり、茅葺屋根の古い家屋であったものを、今風に建て替え新築したのですが、そのことが起こったのも、そう…忘れもしない、あの日でした。
帰宅した私を迎えたのは、妻と二人の子供でした。
「パパ、お帰りなさい」
この妻のひと言で、仕事の憂鬱感も薄れ、疲れもとれました。まあ、こう書きますと、いいマイホーム・パパをやっていたことになりますが…。
その日もいつもの日課のように着替えをして風呂に入り、その後、ビールを飲みつつ食事となりました。二人の子供は戯れながら食事をしています。まだ四才と二才のやんちゃ盛りです。団欒の会話の中、ふと妻が思い出したように云いました。
「パパ、私もかなり辛いから、この前云った簡易水道のこと、真剣に考えてね」
「ああ…」とだけ、新聞に目を泳がせながら暈して、何げなく私は答えました。
そう、私の家には茅葺屋根の頃から井戸があり、寒露な味を捨てがたいものがあって、今も昔ながらに飲食用に供されていたのです。江戸時代にあった長屋の共同風ではないものの、やはり滑車を利用して汲み上げる仕組みでした。洋風の佇(たたず)まいの中では、その場所だけが、やはり違和感がある存在でした。
「本当に危ないのよ。今日も二人で覗き込んでるから、『ここで遊んじゃ駄目よっ!』って、叱ったんだけど…」
私はまた、「ああ…」とだけ相も変わらず暈して、聴いているような、いないような曖昧な返事を返しました。妻は続けました。
「それにね、可笑しいこと云うのよ」
「ふ~ん…」と、私は濁しました。
「地球は思ったより雲が多いんだね、とか…」
その時、「だって、見えたんだもん…」と、四才の長男が呟いたのです。
その呟きで、ふと我に帰った私は、新聞を隣の椅子に置き、やっと会話に加わろうとしました。
「家の屋根か何かが見えたんだろ?」と、長男を窺(うかが)うように見ました。
「だって、地球だったよ…」
私は笑って聞き流しました。
実は、このときの会話が、全てを狂わせる前兆だったのです。
この後に起こった事柄については改めて述べますが、話の都合上、もう少し皆さんに解説しますと、実は井戸が太陽であり、子供がその下に見た地球は、天国と地上を結ぶ空間次元の扉だったのです。そして、その見えた地球の中には、違う次元に生きる別の自分が存在し、この自分とは見えない空間で繋がっていたのです。ということは、下の地球から見た太陽は、実は我が家の井戸の穴だったことになり、現時点では私も理解できますが、その時、通常の理性的判断では、非科学、非論理な馬鹿な話の何物でもないと感じました。
その数日後、いつものように仕事を終えて帰った私は、家のドアを開け、茫然と立ち尽くす妻の姿を見たのです。
「おいっ! いったい、どうしたんだ?」
やや興奮気味に私は靴を脱ぎ、慌てて妻のところへ駆け寄りました。
妻は暫(しばら)く、放心状態で立っているばかりでした。そして数十分が経過していきました。
やがて、妻が解き放たれたように、突然、口走りだしました。
「消えちゃった! 消えちゃったのよ、貴方!」と、取り乱した声でした。
「いったい、何が消えたんだ?」
冷静さを装って、私は静かに云いました。
「二人が…、井戸の中へ…」
「なにっ! 井戸へ落ちたのか? 病院だ、いや、すぐに救急に電話だ!」
私の声も、上擦っていたようです。
「違う、違うのよ。フワッと消えたのよ、覗き込んだまま…」
「そんな馬鹿な話があるか! お前どうかしてるぞ、SFじゃ、あるまいし…」
畳み掛けるように云いながら、私は井戸の方へ向かいました。
井戸は不気味な静けさを映すだけで、覗き込んだ彼方には、闇の空間と鏡のような水面が存在するだけでした。しかしこの時点で、動転していた私は、水面に映る地球を見逃していたのです。というより、その光を電灯の輝きだと錯覚していたのでした。
暫(しばら)くしますと、私も冷静さを少し取り戻しましたので、日常の動作を無意識にしておりました。しかし、その動きはどこか、ぎこちなく、心は空虚で真っ白に凍結しておりました。その凍結の延長線には、今後の対応をどうしたものかと考える心もあったようです。
妻も、自分の意識を落ち着かそうとしているようでした。いつもなら、テーブルの椅子に座って飲むお茶を、立った状態で、ぎこちなく飲んでいました。二人の会話は閉ざされ、互いに無言で対応を模索しておりました。
その後、私は妻に事に至った詳細を訊ねました。その内容からは、警察へ届けるといった手段も憚(はばか)られ、ましてや、救急を呼ぶというのも奇妙だという事実に、只々(ただただ)、空白の時間を費やさざるを得ませんでした。
これは後になって少しづつ思い知らされたことなのですが、私達が知識として持つ宇宙は、全てが科学の名のもとに作り出された夢だったのです。スペースシャトル、人工衛星、宇宙ステーション等も、全てがこの井戸から少し昇ったところで、恰(あたか)も孫悟空が観世音菩薩の手のひらで飛び回っていたのと同じなのです。星雲、大星雲さえも、私の井戸にある石垣の石ひとつひとつ、だったとは、誰が想像できるでしょうか。
さて、話を戻すことにしましょう。
常識では理解できない事態に直面して、二人は思いつく解決法を模索していました。
小一時間ほどが経過していたでしょうか。どちらからともなくテーブルを立ち、気づけば井戸の前に二人はいました。
「パパ、煙が流れているわ…」と、妻が口にしました。そのとき私は、無造作に煙草に火をつけていたのに気づきました。
妻にそう云われて、視線を手の煙草に移すと、確かに紫煙の流れは井戸の方へと吸い込まれていました。やはり、井戸の中へ落ちたのか…と、私は思いました。しかし、これも後になって分かったことなのですが、井戸へ吸い込まれて落ちたのではなく、井戸の中の次元へ次元を移動した、つまりるところ、消えたというのが真実だったのです。
それからの日々は、私達二人にとって辛いものになりましたが、或るきっかけが、解決への糸口となったのです。
「おいっ! お前、この頃どうかしているぞ」
同僚の不意の声に、ギクッと我に帰った私は、虚(うつ)ろな眼(まな)差しを彼に向けました。
「…、そうか?」
「この書類、先月の見積もりだ。もう、発注済みだぜ。今月のが欲しいんだよ…」
「ああ…、悪い」
「何かあったのか?」
「いや、別に大したことじゃないんだが…」
私はボールペンを訳もなくカチカチと押しながら、暈しながら云いました。
「その話は昼休みしよう。課長が、こっちを見てるぞ」と、同僚は慌てて机上の書類へ目を落としました。
会社から少し離れたビルの地下には、行きつけのカフェレストランがありました。
カウンタ-で食べるB定食も何となく味気なく、食欲自体も余りありませんでしたが、それでも無言で喉に通していました。同僚は既に食べ終わっていて、ウエイターに、セットに付いている食後のコーヒーを注文しました。そして、注文を終えると私の方を向き、呟くような小声で話しだしました。
「なっ、相談相手にはならんだろうが、心配事があるんだったら云ってくれよ」
「いや、云ってもいいが、信じないだろ?」
「まあまあ、ともかく云ってみな」
「……、実は、子供のことでな…」
「病気か?」
「いいや、それだったら、いいんだが…」
「事故か?」
「でもない…」
「勿体ぶらないで、云えよ」
「…、消えたんだ」
「何が消えたんだ」
「だから、俺の子がさ」
「誘拐か?」と、同僚の顔が、先程とは、うって変わりました。私は、「いや…」とだけ否定しました。
「どういうことだ?」
理解できないというような、怪訝(けげん)な表情で、同僚は私を窺いました。
「やっぱりね信じてくれんだろうな…」
「と、いうと?」
「だから俺も、最初は、『そんな馬鹿な話しがあるか!』って、家内に云ったんだが…」
「ん…」
「うちに井戸があるのは知ってるだろ? そこに落ちたのなら、別に妙でもなんでもないんだ。家内が消えたというから、話がややこしくなってきた」
「消えたというと?」
「だから消えたんだよ、スゥーっと。これは飽くまでも家内の話なんだが…。信じられんだろ?」
「ふーむ、信じられん。奥さんさぁ、精神的に疲れてんじゃないだろうな?」
「いいや、そういう風にも見えんのさ」と、私も食後のコーヒーをオーダーしながら小声で云いました。
その時、同僚が腕を見ながら、「もうこんな時間か…、一度休みにお前ん家へ行くよ。俺もちょいと、ややこしくなってきた。今日はこの辺にしておこう」と席を立ったのです。
この話は、一応ここで途絶えたのですが、先程も云いましたように、これが解決への、きっかけとなったのでした。
月は地球の衛星であると、科学では説明されています。私もそれが当然の思考だと思っていました。しかし、ここに大きな抜け穴があったのです。
井戸が、もし我々の住む銀河系宇宙だと云えば、貴方は私を狂人だと思われるでしょうし、腰を抜かされると思いますが…。
さて、話を元へ戻しましょう。
昼食を終え、二人は会社で仕事を続けました。その後も、私は平静さを保ちましたし、同僚も何も訊かなかった風に仕事を続けておりました。ところが、勤めを終えて家に帰宅すると、また異変が起きていました。妻も消えてしまっていたのです。
もう私は、精神錯乱の一歩寸前といった状態に陥り、『私だけが、何故こんな不幸に見舞われるんだ!』と、いった怒り、失意、そして途方に暮れる気持などが入り混じった状態となり、何をしようという気持も失せたのです。只々(ただただ)、何時間も椅子に座り氷結しておりました。それでも時折り、無意識に日常の雑事で動くことは、しておったようです。事実、私はその後も会社を休まず出勤しておりましたので…。
それから、数日が経過していきました。
仕事を終え、通勤電車に揺られ、今となってはもう慣れてしまった、静けさが漂う家へ着きました。すっかり諦(あきら)めきった心境で、夕食用にコンビニで買い求めた弁当、缶ビール、それに僅(わず)かな食品をテーブルへと置きました。そして、肩を揉みながら背広を脱ぎ、ハンガーに吊るし、ネクタイを無造作に緩めました。この時点では、妙に落ち着いておりました。『先に風呂にするか…、いや…』と、誰もいない部屋で自問自答しながら、結局、私はバスルームに向かいました。
その時、ピピピッっと携帯が鳴りました。同僚でした。
「実は、友達から連絡が入ってな。どうも、お前と同じらしい。家族が消えちまったって、云うんだが…」
電話は続きました。
「そいつの家にもお前の家と同じように、井戸があるそうなんだが…。ところがな、話にはまだ続きがあってな。奴も数日前に消えちまったってことだ。近所じゃ、夜逃げでもしたんじゃないかと噂になってるそうなんだがな」
「そうか、…有難う。その話は会社でゆっくり聞くよ」
「お前の家で、ゆっくり話そうと思ったんだが、結構、いろいろあってなぁ…。余り気落ちすんなよ、じゃあな」と、慰めを云い、同僚は電話を切りました。
次の日の昼過ぎ、私と同僚はいつものカフェレストランで食事を取っていました。
「奴も消える前に、お前と同じようなことを云っていたんだ。『馬鹿なことを云うな!』って、一応は聞き流したんだが、その数日後、奴は消えちまった。余り気分のよい話でもないしな。それで、お前が云ってたことを思い出して、電話したって訳だ」
後になれば、そうした内容も得心が行くのですが、この段階では他人に話せない不可解な話なのです。異次元への入口が私の家の井戸以外にも幾つかあって、それには一定の法則めいた事実が存在するということでした。
私が、アチラの世界に住むようになって気づいたことなのですが、このように申しますと、皆さんには意味が分からないとは存じますので、結論だけを端的に申します。その事実の法則めいた共通点とは、まず第一に、家族構成が妻と数人の子供のいる家庭で、第二として、南方の斜め前に柿の木があるということでした。この共通点がどういう関連性をもっているのかは分からないのですが、アチラの世界からの幾つかの条件をクリアーした家族だったということです。同僚の友人の家族も、偶然、そうした条件に合致していたのでしょう。
その日、同僚から話の内容を聞いた後、いつもと変わらず勤めを終え、帰宅しました。家に入ると、数ヶ月前の生活が脳裏へ去来して想い返され、私はつい、「今、帰ったよ…」と、呟いていました。しかし妻と子供は、やはりこの空間には存在せず、空虚な佇まいの中で動く自分に気づかされました。
抜け穴に召されるその日まで、私は何をよりどころに生きていけばいいのか…と、途方に暮れるばかりでした。だが、その一方で、なんとかせねば…と思う自分もいました。それが徒労であることは、自分にも分かっていたのですが…。なんの解決の手立ても持たない自分が滑稽でした。
それからまた数日が経ったある夜、突然、私は宇宙の真っ只中にいるような妙な感覚に襲われたのです。それでも私は、無心に食後の食器を洗い続けていました。食後は、井戸を見にいくのが日課となっていた私ですが、その日も井戸の方へ無意識に足は動いていました。
その日の井戸は、いつもと様子を異にしておりました。と、云いますのは、私にも見えたのです。子供達が、そして妻が見たと云ったあの地球の姿を…。
水面は透明な表情を変えず、その水面の奥深くに、薄暗く、しかし明確な円の輪郭をもって、それは存在していたのでした。ほんの僅(わず)かではありますが、それは揺らいでおりました。無意識の内に、思わず私は、妻と二人の子供の名を叫んでいたのです。その刹那でした。私の周囲に真っ白の光が輝き、私の意識は遠ざかっていきました。
気がつくと、いつもと変わらない、出来事が起こる以前の家族の風景がありました。それからのことは、夢といえば夢なのでしょう。私には事実だとは明確に断言できません。確かに妻は夕食の準備をしておりましたし、私は会社休みの日なのか、リビングで寝っ転がっていました。
起き上がると、無邪気に遊ぶ二人の子供がおりました。二人の子供は、テレビゲームに夢中になっていました。
「もう夕食よ…」と、妻の声がしました。そうです、妻も二人の子供も存在したのです。
しかし…、「私の家が選ばれてよかったわね。あちらの世界とは全然、生活感が違うわ」と、妻は口にしたのです。
私には、妻の言葉の意味が、どうしても分かりませんでした。それにね家の佇まいが少し妙でした。以前の私の家のものではない不思議なものが存在したのです。暫(しばら)く私は思考感覚が麻痺していましたが、それでも現実を直視しようと、見て歩いていました。
何事もなかったかのような家族の様子に、私は本の少し躊躇(ちゅうちょ)しながらも、今の状況を冷静に受け止めようと思いました。そのとき、妻がふと云ったのです。
「貴方も、こちらへ来られてよかったわ」
そのひと言が全てを理解させてくれたのです。私も異空間に来たのだということを…、しかもそれは、夢ではなかった、ということをです。
でも私には、もうどうでもよかったのです。家族さえ存在してくれるなら…。
もう少しお話しすることもありますが、これが抜け穴に導かれた私達家族に起こった事の顛末(てんまつ)です。現在では、人間世界では考えられない苦のない世界で、家族四人が幸せに暮らしております。
この話を信じる信じないは、貴方のご勝手ですが…。
完
今年の夏も、雑木林から蝉の大合唱が聞こえてまいります。
私が住まい致しますこの辺りは、未だに所々、雑木林が建造物に遠慮する形で残っております。と、申しますのは、都市開発地域から外された形で残されたのが主因かと思われるのでございますが、私としては齢(よわい)八十のこの歳で、今更、都会の雑踏には住みたくもなく、好都合に思っておる次第でございます。
さて、お話と申しますのは、敢えて書き綴るほどのことでもない訳でございますが、私にとりましては一世一代の珍事、いえ、不思議な出来事でございましたものですから書かせて戴いた、というようなことでございます。
それは、今、響き渡る蝉時雨(せみしぐれ)にも似て、そう、夏の暑い盛りでございました。
何年前のことでございましたか…、思い出せないくらいでございますから、随分と遠い夏のことのように思える訳でございますが…。
当時、私は大学の助教授でございました。
恐らくは八月の初旬だったかと記憶しておりますが、大学の方も夏期休暇ということで教壇に立つ必要もなく、割合、ゆったりとした日々を過ごしておりました。
そうしたある日のことでございました。朝の散歩をするのが日課でございましたもので、夏とはいえ、気持ちよい早朝の冷気を感じつつ、私は歩いておりました。
暫(しばら)く歩き、木漏れ日の射す雑木林にさしかかりますと、そこに今にも成虫になろうかと脱皮中の蝉が一匹、大樹の幹に見えたのでございます。蝉の脱皮などというものは、別段、珍しくない訳でございますが、実は、私が見たこの蝉といいますのは…、信じる信じないは貴方様のご勝手ではございますが、正確に表現を致しますと、白光を放っておったのでございます。最初は私も、木漏れ日の反射光か何かだろうと思いつつ歩き進んだのでございますが、近づきますと、益々その光は眩(まばゆ)さを増し、私の目を捉えたのでございます。
この当時は、私も未だ若輩でございまして、気味悪く思えたものですから、早々にその場を退散したのでございます。
家に帰り、「妙なものを見たぞ…」と、家内に申しますと、「また、からかって!」と、一笑に付されたのでございますが、私としては真実だと思っておりますから、仔細を語った訳でございます。家内は私の健康を逆に案じまして、特に目を気遣ったのでございます。
『こりゃ、駄目だな…』と、思ったものでございますから、それ以上は諦めの感にて、胸に留め置いた、というようなことでございました。しかしながら私の胸中には、その不思議な光景が残像として鮮明に記憶されており、床に着きましても、なかなか寝つけぬ態にて、翌朝を迎えたのでございます。
日課でございますから、当然の成り行きとして散歩は致します。いくら寝不足だからと申しましても、人間の習慣とは恐ろしいものでございまして、身体が自動制御され、勝手に私を散歩に連れ出すのでございます。これには流石に私も、辟易(へきえき)と致しました。なにせ、自分の意志で身体の動きをコントロールできぬのですから…。
で、別段、犬を連れて散歩している訳ではありませんが、割合と早足でいつものコースを歩み続けたのでございます。そして昨日の場所に至ったのでありますが、なんと奇怪(きっかい)なことに、あの蝉は脱皮を終えた状態で神々(こうごう)しく未だ幹に留まっているではありませんか。
私は己が目を疑いましたが、やはり昨日と同様の白光を放って眩(まばゆ)かったのでございます。恐る恐る近づいてみますと、確かに現実に一匹の蝉が存在しております。なにげなく捕えようと致しますと、これも不思議な現象なのでございますが、パッと飛ぶと思いきや、スゥーっと消えたのでございます。そして暫(しばら)く致しますと、私の数メートル先に、ふたたび眩い光となって現れたとお思い下さいませ。
私は、怪しげな悪霊にでも誑(たぶら)かされたのでは…と、思ったのでございます。火の玉と人は申しますが、この場合はそんなヤワじゃあございませんで、もっと峻烈(しゅんれつ)な光を放ちつつ、そうですなあ、なんと申しますか…、恰(あたか)も大空にある太陽の輝きが森の中を、さ迷い飛ぶといった感じでして、勿論、太陽の光ほどは眩(まばゆ)くなかった訳でございますが、梢には蝉の抜け殻が、それもまた白い光を放って輝いておった、というようなことでございました。
私は、やおら、その蝉の抜け殻を採取いたしますと、一目散に家へ戻ったのでございます。
家に着きましても、この話を妻にする気力も失せておりまして、疲れからか、朝にもかかわらず寝入ってしまったのでございます。
暫(しばら)眠って起きますと、私はその蝉の抜け殻を、大事そうに自分の机の隅へ収納したのでございます。妻に見せれば得心して貰えるじゃないか…と、お思いの方もいらっしゃるとは存じますが、その時の私は、なにか見えざる力に影響されていたと申しますか、或いは大事な宝物を隠す幼子の心境でありましたものか…、孰(いず)れに致しましても、極秘裏に保存した訳でございます。
それからというもの、数日に一度、それを取り出して眺めるのが、私の至福のひと時となりました。その空蝉(うつせみ)の白光は、衰えることなく輝き続けたのでございます。
それからの我が家には、幸運としか云いようのない慶事が重なったのでございますが、最初のうちは、そういうこともあるのだろうと思っておった私でございますが、度(たび)重なりますと、流石に白光を放つ蝉の抜け殻の所為(せい)ではないかと思うようになったのでございます。
大学の教授に推挙されたのも、この頃でございました。私としては、やはりこの栄誉ともいうべき自体に、内心、有頂天になったことを記憶しております。
さて、こうして私の幸せは続いていった訳でございますが、私だけが何故このような珍事に遭遇したのか? という疑問は消えなかったのでした。
私の家屋の裏に広がります雑木林は、古くから、そう…、私の幼い頃にも当然ありましたが、幼友達と遊び痴れた林でございました。四季折々に木立たちが描く造形の美には、どこか人を和(なご)ます風情というものがございます。そういった自然が織りなす環境の中で育った私でございますから、換言すれば、自然に育(はぐく)まれた私でございますから、悪人になろう筈がございません。と、云いますと、聊(いささ)か誇張には相成りますが…。
さて、古きよき時代を思い出しつつ、この得体の知れぬ原因の一端を模索(もさく)致しましたが、ひとつだけ心に思い当たる出来事があったのでございます。と、いいますのは、やはり子供時代に遊んでおった記憶なのでございますが、幼友達が何匹もの蝉の幼虫を採って遊んでおった光景でございました。貴方様も、よくご存知だと思いますが、蝉という生き物は、地中で暮らす期間の方が、地上に出て暮らす期間よりも、ずっと長いということでございます。ということは、つまり幼友達が無邪気に採っていた行為は、大人の目で観察を致しますと、蝉に対してかなりの虐待を行っておったと、まあ、こういうことでございます。私はその折り、別段、意味もなく、というより訳も解(わか)っておらず、ただ可哀想と感じたという理由で、友達の籠から蝉を出し、また地中に埋めるという行為をしたようでございます。すると、当然の成り行きで、友達と喧嘩になりますが、事実、その時もそうなったようでございました。
私の記憶に現在、残っておりますのは、その幼友達に勝ち、結果として蝉達を守ることが出来た、という記憶でございます。
そんなことで、鶴の恩返し、ではありませんが、このような奇怪(きっかい)な出来事に遭遇しようとは、夢にも思っておらなかったのでございます。しかし現実には遭遇し、生活は幸運に導かれていったということでして、とても貴方様には信じられないことでございましょう。しかしながら、その幸運かつ順調な生活といいますものは、案外あっけない形で幕を閉じたのでございました。
人間には様々な欲というものがございます。幕引きの事の発端は、やはり私の欲だったのでございましょうか…。
ある時…、その時と申しますのは、奇怪(きっかい)な出来事が起こりましてから数年の歳月が流れておったのでございますが、なにせもう、その頃、私の幸運はいろいろな形で現れておったということでございまして、私も少なからず天狗になっておったようなことでございました。今、振り返りますと、それが災いした、としか申し上げようがございません。それで、そのことの発端なのでございますが、私が知己である同僚の教授に、そのことの顛末(てんまつ)を語ったことに始まるのでございます。
私は当然、天狗になっておりましたから、自慢げに語ったように記憶しております。詳しく申し上げますと、少し誇張したような物言いをしておったようでして、相手としては益々、好奇心を募らせていったということでございます。
語り終わった後の結果でございますが、同僚の友人である教授は、「それじゃ次の日曜にでも、君のご自宅へ失敬させて貰うよ」と返した訳でして、内心、『しまった!』と思いましたが、後の祭りでございます。不承不承、その教授を家へ招く破目になった、というようなことでございました。
話はここから本筋へ入るのでございますが、その前に、少し私の家の有り様について語らせて戴きたく思う次第でございます。
私の住家と申しますのは、祖父の代からの古家でございます。とは、云いましても、祖父は財閥の総帥として一代を築いた創始者でございまして、当時と致しましては、かなりの金額が注がれ、私が申すのもなんでございますが、それ相応の重厚な構えの豪邸でございます。私の口から斯(か)く申しますと、少し口幅ったい感が否めないのではありますが、父に訊いたところによりますと、そのようであったということでございました。私にとりまして、この家は住み慣れておるということもございましょうが、これでなかなか心地よい気分に浸(ひた)れるのでございます。
さて、お話の続きでございますが、知己の教授である友人が、私の家を訪(おとな)ったと、お思い下さいませ。
「随分と風流な暮らしをしているじゃないか…」
開口一番、我が宅を訪れるやいなや、彼はそう口走ったのでございます。
「いやぁ…、それほどのこともないさ」と、お茶を濁した訳でございますけれども、内心は、満更(まんざら)でもない気分でございました。
家内に丁重なもてなしをするよう命じておきましたので、豪華とまではいきませんが、それでも一応は来客用の食事などで寛(くつろ)いで貰ったというようなことでして、友人も満足しておったようでございます。
「で、君が云っていた例のヤツなんだが、拝見させて戴けるかな、そろそろ…」
恭(うやうや)しく笑みを浮かべて、友人はそう云ったのでございます。こちらとしては、その言葉がいつ飛び出すかと冷や冷やしておりましたから、返って問題が解決したような安堵感を得たのでございます。
私は友人を書斎へと導きました。そして、大切に金庫へ保管しておりました木箱を開けますと、なんと! 中は空虚な箱があるばかりでございました。
「なんだ、何もないじゃないか」
「… …」
返答できぬ恥じらいが、私を襲ったのでございます。私ですら予期せぬ事態でございましたもので、それは当然といえば当然であったと考えられるのでございます。
「いや、君を騙した訳じゃあないんだ。確かにこの木箱の中へ…」
私は弁解に努めた訳ではありますが、友人は一笑に付して帰っていったのでございます。後味の悪さも残り、私は暫(しばら)くの間、書斎に茫然と佇んでおったように記憶を致しております。
それからというもの、あの幸運はどこへ行ってしまったのか…と思えるほど、何一つとして、いいことは訪れませんで、しかし、そうかといって悪い不祥事が起こるということもなく、まあ普通の暮らし、所謂(いわゆる)、あの奇怪(きっかい)な空蝉に遭遇する以前の生活に戻ったという、ただそれだけのことでございました。
私が貴方様に語ることも、あと僅(わず)かになって参りましたが、最後に一つ云えますこと、これは人間の欲についてでございます。それは、人間の愚かさ、或いはどうしようもない本能の虚(むな)しさとでも申せましょうか…。
人間が自らの希望や夢を追い求める過程で生み出す慢心、優越心、欲心でございます。これを食い止める手立てはなく、あるとすれば理性のみでございます。それで、私が何故、白光の空蝉を無にしてしまったのかと申しますと、欲心のひとつ、顕示欲とでも申せしましょうか…、そうとしか考えられぬのでございます。それも、恐らくは邪心が少しあったが為と思えております。
貴方様も、もしこのような奇怪(きっかい)な出来事に遭遇されましたなら、是非、こうした点に注意を注がれ、よき人生を邁進(まいしん)されますよう、心よりお祈り申し上げます。
今年の夏も、また暑い日々が続くようでございます。
完
蒸し蒸しとした夏の空気に、私はアノ雷がまた来るのだろうか、と思いました。アノというのは、実はこれからお話しする一部始終に関係があるのですが…。
私はその日も都庁の仕事を終え、帰路を急いでいました。
私の家がありますのは都心から遠く離れた郊外ですので、夏とはいえ自宅に辿り着くと、残業をしない日でも薄闇が迫る頃になっていました。
通勤は車で近くの鉄道の駅まで行き、と云いましても二十分程度なのですが、そこから乗換えなどもあり、約一時間半で勤務地に着くという塩梅(あんばい)です。
その日も勤務を終え、寄り道のホオズキ市で買った鉢を助手席に乗せて車を運転しておりました。そして、もう少しで家へ着こうという矢先、あの雷に出会ったのです。
その日も蒸し蒸しとしていましたが、俄かに空は昼の日照りが嘘のように全天灰色に包まれ、それでいて雨は降らず、ときおり空は白く閃いて、稲妻が鋭いラインでくっきりと流れていました。雷鳴は駅に着いた頃、遠くで微かに鈍く響いていましたが、また一雨来るんだろうな…という感覚だけで、別段、いつもと変わらないようでした。そして私は、月極(つきぎめ)の駐車場から車を走らせ、次第に大きくなる雷鳴にも躊躇することなく、家路を急いでいました。
大粒の雨がポツリポツリとしますと、ザザ~っと降りだしました。それでも、そんなことは過去にもありましたので、恐ろしいという感覚はありませんでした。
ところが、辺り一面に大粒の雨が降る激しい夕立となり、暫(しばら)く車を走らせていた頃、俄かに車中が真っ白い閃光を浴びました。その時、私の記憶は一時、遠退いたのです。
気がつくと、私は職場である都庁の机にいました。時間は? と、腕を見ますと、午前九時頃で、周囲の同僚達は皆、机に向かって仕事をしていました。しかし、机のレイアウトは全く変わっていて、私の机だけが孤独に突出しており、しかも一人だけ隔離されたようなガラス窓近くにあり、その他の席は私の展望の効く前方に、ことごとく位置していたのです。
私は少しウトウトと眠っていた感覚で、それでいて前後の時間の感覚がなく、少し離れた同僚に向き合っていたのでした。
「今日は何日だい?」
「何、云ってるんですか。今日は浅草のホオズキ市へ行くと、先ほど云ってらしたじゃないですか」
敬語使いの同僚に、私は動転してしまいました。
「おいおい、何だ他人行儀な云い方してさぁ、俺がそんなこと云ったか?」
同僚は笑いながら続けました。
「先ほど云われたじゃないですか。部長、どうかされてますよ。それに部長、髪が逆立ってられます。直された方が…」
瞬間、部長だって…と、私は茫然と思いました。
「… … …」
無言で頭に手を伸ばすと、確かに頭の髪の毛が一部、逆立っていたのです。
その後、仕事の書類に目を通しましたが、今までに見たこともなく、それより書類の日付に驚かされました。車を運転して帰宅したあの日の二十年後でした。しかも私は、よく見ると部長席に座っていたのです。
ホオズキ市は七月の九日から十日で、私は20年後の夏に存在していたのです。
私の目に入るものは、全てではないにしろ真新しい物ばかりでした。ひとつひとつ、アレはなんだ! コレはどうしてだ! と、訊くこともできず、私は探偵にでもなった気分で辺りの様子を窺(うかが)っていました。
その一つに、二十年前には未だ販売されていない電送装置がありました。所用で来る都民サービス用の装置で、待ち時間などに希望者がボタンを押すと、即座に欲しいものが取り寄せられ、購入できる装置でした。それが、食事、雑貨、雑誌などの書籍に分類して、それぞれ設置されており、至極当然のように都民が利用していたのです。
これには驚かされましたが、他人の目を盗んで、チラリチラリと上目遣いで観察しました。そして時間も経ち、トイレへ行きますと、それは単に驚きというものではなく、はっきり云いますと、驚愕するといった感じに変化し、私は今にも卒倒しそうになったのです。と、いいますのは、鏡に映る自分の姿でした。あの雷に遭遇する前の自分の姿は消え、鏡に映った姿は紛れもなく自分ではありましたが、その反面、自分ではなかったのです。老いが迫った白髪の紳士が、そこに立っていたのでした。
目の前の仕事を取り繕うように、私は戸惑いながらも何とかその日を済ませました。
勤務を無事終え帰路を急ぎましたが、初めて上京した若者のように、訊きつつ確かめながら自宅へ向かったのです。僅(わず)か10分余りで最終駅に着いた交通の便の変化にも驚かされました。
雷に出会ったその日と同じように駅へ着き、月極(つきぎめ)の駐車場へ近づきますと、そこには確かに自分の車がありました。しかし、駐車場は荒んでおり、それよりもなにも、驚いたのは埃(ほこり)まみれの私の自動車があったことです。それでもエンジンは、バッテリーも上がっておらず、すぐに始動したのが不思議でした。ただ、周囲の超近代的な車に比べ、明らかに時代遅れの感は拭えませんでした。私は車を走らせました。
空は、あの時のように昼間の太陽のギラツキは消え失せ、俄かに全天灰色に包まれ、それでいて雨は降りません。時折り、空は白く閃き、小さく鈍い遠くの雷鳴とともに、稲妻が鋭いラインで鮮明に流れていたのです。これは、あの時と全く同じでした。
助手席には、あの日に買ったホオズキの鉢がありましたが、土塊のみが存在するだけで、僅(わずか)に枯れた茎の名残りを留めるだけでした。
私は、今となっては20年後になってしまった家路を急ぎました。
蒸し蒸しとした曇天の薄暗い空に、私はあの雷が、また来るのだろうかと思いました。
リフレーンするかのように、その現象は、ふたたび起こりました。急に目の前を閃光が白く走り、私の記憶は遠退いたのです。
気づくと、私は20年前の都庁へまた戻っていました。即ち、私が最初の雷に遭遇した朝に私は存在したのです。時間は午前九時頃で、これも前回と同じでした。
周囲の同僚は皆、机に向かい仕事をしていました。ただ、私は部長席ではなく、以前の私の席に座っていて、その両隣には、いつもの同僚がいました。
急に隣の同僚が話しました。
「お前、今日帰りにホオズキ市へ行くって云ってたよな?」
私は麻痺した感覚から我に帰って、「ああ…」とだけ答えました。目の前の書類は、あの雷に出会った最初の日には、既に決裁へ回した筈のものでした。私は、また同じ仕事をすることになったのです。
何故、私だけがこのようなハプニングに出会ったのか…それが深い疑問でした。今日はホオズキ市へ行くのをやめようか…とも思いました。しかし何故か、ひとつの時空に閉じ込められたかのように、以前、経験した同じ流れで時間が進行していくのです。なんとか状況を変化させてみようと私は焦りました。このままでは時空に閉ざされてしまうという危機感がありました。焦れば焦るほど、状況は刻々と以前と同じように進行していきました。『そうだ、仕事をせずに決済へ回さないようにしよう。そうすれば、結果は自ずと変わってくる筈だ…』と、単純に考えました。しかし、思考とは逆に、身体が操られるかのように仕事を片づけていくのです。とめられないジレンマに?(もが)きつつ、私は気が変になりそうでした。
『ホオズキ市へは寄らないぞ』と、心に決め、私は帰路に着いたのです。
前世の因縁か…、この時点で私はそう思っていました。
私はこれから先を、皆さんにお話ししたくはないのです。でも、話の進行上、やはり話さねばならないでしょう。
寄り道をせず、あの日のように駅へ降り立ちました。駐車場の私の車に近づき…、その時、私は唖然としたのです。寄ってもいないホオズキ市の、あのホオズキの鉢が…、車のガラス越しに見えるではありませんか。しかもあの時と同じ助手席の上に置かれ、橙色の実をたわわにつけて…。
私は考えました。もう家には戻れないのだろう。そして、このまま時が進行すると、帰り道であの雷に遭遇し、ふたたび20年先へ連れて行かれ、しかもそれが永遠に繰り返されるのだろうと…。時空ポケットに陥った私、そうなるのが分かっているのなら、真新しい情報を入手して20年後に戻れば、特許、占い師、ギャンブルでの成金も…と、金欲も膨らみ、発想は飛躍していきました。
「フフフ…」と、吹っ切れたかのように無意識の微笑を浮かべ、私は車に乗り込みました。小悪人になった気分でした。
そして、私が予感したとおり、ふたたびあの雷に出会ったのです。
白い閃光が走りました。やがて私の意識は案の定、ふたたび遠退いていきました。
悪い発想をすれば、結果は自ずと惨めになるものです。
「パパ、遅れるわよ」
妻の声で、目が覚めました。私は夢を見ていたのです。…いや、でしょう。
横には六才になる長男が寝相悪く寝ていますし、昨日二人で遊んだゲームソフトが枕許(まくらもと)にありました。そういえば、何度も振り出しに戻ったことを思い出しました。暑さで悪夢を見てしまったんだ…と、思いました。
『ハハハ…、そんな馬鹿な話はないよな』と、自分に言い聞かせつつ、夢であった安堵感と久しぶりに得たような開放感で、その朝、私は都庁へ向かったのです。
そして、仕事を終え帰路に着きました。
空は、また降りだしそうな薄墨色の空になり、蒸した熱気も夢の続きでしたが、あの出来事は夢だったんだ…という開放感がありました。そうして、漸(ようや)く、いつもの駐車場へ着き、止めた私の車に近づきますと、なんと…、窓ガラス越しに私の両眼に映ったものは…。
買っていない筈のあのホオズキの鉢が助手席の上に置かれてあり、そして雷鳴が遠くで小さく響き……。
完
「まさか、そんな! 常務が…」
業務部の部長代理、北舟が驚きながら副部長の熊毛に返した。
「いや、本当らしいですよ、部長代理。どうも常務、魔が刺したというか…」
北舟よりはいくらか情報通の熊毛は、穏やかに北舟の耳元で囁(ささや)いた。
「いやぁ~、副部長。すぐには私、信じられんです。常務は身持ちの堅い方ですから」
「私だって同じですよ。まさか、あの方が…って、今でも思いますよ。彼女は社長のコレでしょ?」
北舟は右手の小指を立てて熊毛に示した。
「らしいですね。で、いつの話です?」
「いやあ、昨日ね。秘書課の揚羽君から…。いや、彼女も風の噂(うわさ)って言ってたんですがね」
「風の噂ですか…。だとすれば、専務派の工作ということも考えられます。いや、その可能性が、むしろ高いですよ、副社長を決める役員会前ですから。私達としては迂闊(うかつ)なことは申せません」
熊毛が北舟に釘を刺した。そこへ業務部長の小鹿が、か細く現れた。
「あなた方、どうかしましたか?」
「いやなに…。カクカクシカジカなんですよ、部長」
熊毛は情報のあらましを小鹿に報告した。
「それは、間違いなく営業部の諜略(ちょうりゃく)だぞ、君!」
歴史好きの小鹿は、か細く断定した。
「はあ、私もそうは思うんですが…。実はですね…」
熊毛は、今にも小鹿を食べるように耳元で囁いた。
「ほう…常務が。なに? …うんうん。揚羽君から。ああ、…あの子なら知ってる。…風の噂だって? 詳しく今夜、聞いておくよ」
熊毛が耳元で話す勢いに圧倒され、小鹿はつい本音(ほんね)を漏(も)らした。
「ええっ!」「ええっ!」
北舟も熊毛も驚いた。まさか、揚羽が小鹿のナニとは知らなかったのだ。本人が洩(も)らしたのだから、これは間違いがない。さて、そうなれば、常務の噂よりこの事実を専務派の営業部に知られることの方が危(あや)うくなる。
「部長! しばらく、揚羽には逢わんで下さい! 漏れれば、常務が不利になります!」
熊毛が小鹿に懇願(こんがん)した。
「分かった…」
これが、風聞を封じる三人の掟(おきて)となった。だが、話は予想もしないところから漏れたのである。それは、夫の行動を不審に思った小鹿の妻が素行調査を依頼し、会社役員の婦人会で愚痴ったのだった。ところが時を同じくして、営業部長の猪田の浮気も妻の愚痴で発覚し、常務派と専務派の抗争は引き分け(イーブン)となった。
一週間が過ぎ去り、役員会の席である。
「副社長には系列会社の岡田社長を招聘(しょうへい)することにした。皆、宜(よろ)しく頼む!」
創業者である社長のひと声で、役員会は五分で終わった。専務派も常務派も、『トンビに油揚げか…』と、テンションを下げた。
完
見たこともないような花が戸畑の庭のプランターに一輪、ひっそりと咲いていた。戸畑は家内の雑用を済ませながら頭の中でアレコレと巡った。
━ いったい、あの花は、なんなんだ? ━
もちろん、植えた覚えはなかった。どうにも気になってしようがない。戸畑は書斎へ入ると図鑑を調べ始めた。しかし、どこにもその花の名や写真は出ていなかった。次第に戸畑は焦(あせ)り始めた。見間違いということもある…と、ふたたび庭へ出て確かめてみたが、やはり、その見たこともない花は咲いていた。よく見れば、微妙に花びらが動いているではないか。微速度撮影した映像なら分かるが、現実にゆっくりと動く花など、戸畑は今まで見たことがなかった。いや、戸畑に限らず、誰も目にした者はいないだろうと思えた。戸畑は図鑑のことを忘れ、その花に見入った。すると、花から微(かす)かな音が聞こえてきた。目だけでなく耳も怪(おか)しくなったか…と、戸畑は束(つか)の間、思った。身体を花に近づけると、確かに花から音が流れていた。その音は戸畑が今まで聞いたことがない妙な音色だった。慌(あわ)てて書斎へ駆け戻(もど)り、戸畑はボイス・レコーダーを手にすると、一目散に庭へ舞い戻り、スイッチを入れた。戸畑はその妙な音色をボイス・レコーダーにしっかりと録音した。いや、したつもりだった。戸畑があとから再生すると何も録音されておらず無音だった。
そんなこともあってか、戸畑は疲れを取ろうと、ひとっ風呂(ぷろ)、浴びた。上がって肴(さかな)を摘まみながら一杯やっていると、夜になっていた。いつもは回らない少しの酒がその日に限ってよく回り、戸畑はすっかり酔ってしまった。眠気も襲い、早めに眠ることにした。戸畑はすぐ、深い眠りへと落ちていった。どれくらい眠っただろうか。戸畑がふと、妙な冷気に目覚めたのは深夜だった。
『今日は、どうも…』
戸畑は聞こえるはずがない女性の声に起こされた。戸畑のベッドに冷気が忍び寄っていた。戸畑がハッ! と半身を起したとき、プランターに植えられた謎の花がどういう訳か暗闇の中に輝いて見えた。嘘だろ! と、戸畑はベッドを下(お)り、謎の花が咲くプランターへ近づいた。紛(まぎ)れもなく今日見た花だった。だが、戸畑は寝室へプランターを運んだ覚えがなかった。妙だ…と、戸畑が思ったそのときである。
『ええ、私の方から来たのですよ…』
戸畑は気持を見透かされたようで、ゾッ! とした。それでなくても、花が話すこと自体が不気味で、夢と思わずにはいられなかったのだ。戸畑はそのまま意識が遠 退(の)いた。
次の朝、戸畑の姿は神隠しに遭(あ)ったように消えていた。寝室には、謎の花が二輪、プランターの中で寄り添って咲き、置かれていた。
完
春のいい天気なので、ブラリと自転車で外出した木島は軽くペダルを漕(こ)いで家へと戻(もど)った。そのときふと、自転車で流れた景観が頭へフラッシュした。迂回(うかい)した道路で行われていた電柱工事である。電話線? いや、電線だったか? と木島は動きを止めて考えた。だが、どうしても記憶は戻(もど)らなかった。意固地になった木島は、ネット検索に打って出た。よく考えればどうでもいいことなのだが、このまま分からず終(じま)いにする、というのが木島の性分には、どうも合わなかった。で、パソコンをさっそく開けて検索をしたのだが、どうにも分からず、とうとう畳(たたみ)の上へ大の字になり、不貞腐(ふてくさ)れる破目に陥(おちい)った。そのときチャイムが鳴り、友人の汲田が玄関から勝手に上がってきた。いつものことなので、さして木島は気にしなかった。
「なんだ? 金欠か?」
「そうじゃ、ねえんだよ…。そうだ! お前、アレ知ってるか?」
「アレって?」
「ここへ来るとき、やってたろ。工事さ」
「ああ、あれか…。あれは電線だ」
「なんだ、そうか…」
あっ! という間に、木島の難問は解決した。結局、パソコンを駆使して知識を得ようという方法は徒労に帰した。ふと、木島は思った。文明の利器とか言うが、ひょっとすると、人は退化してるんじゃないか? と。小難しいことを機械に考えさせ、自分達は何も考えず答えを得ている。これって、退化なんじゃないか…。木島は他の例も気づいた。自分達は遊び道具がなかったから作って遊んだ。今の子供達はテレビゲームとかの既製品を買って機械相手に遊んでいる。それはそれで結構なことなんだろうが、反面、作ったり工夫したりする人間本来に備わった能力を、自らが退化させているんじゃないだろうか…。木島はネガティブ思考になるのが嫌で、考えないことにした。そんな無口になった木島に汲田が問いかけた。
「お前、何かあったか?」
「いや、何もないさ。ちょっと、文明を気づく人間が馬鹿に見えたのさ」
「どういうことだ?」
汲田が木島を窺(うかが)う。
「ひと言(こと)で言えば、便利に馴(な)れ過ぎた人間が、退化してるってことさ」
木島は淡々と答えた。
「退化か…。言えるかもな。劇的に世を揺るがすような発明や発見も最近、ないからなぁ~」
汲田も同調した。
「小ぶりで努力賞的な発見は多いんだがな。どでかい、のがない」
「ああ…、退化だ」
汲田が腕組みしながら頷(うなず)いた。
「鳥インフルエンザで何万羽も殺処分らしいぜ」
汲田は続けて言った。
「それだって、他のいい方法が分からないからだろ? いや、分からないんじゃなくって、すでに考える能力が多分に退化し始めてるのかもな、ははは…」
木島がまた、淡々と答えた。木島と汲田の会話は、いつの間にかすっかり冷えきっていた。二人は同時にくしゃみをした。
完
池波伸次は流れに身を任(まか)せて生きる男だった。それはまるで、♪時の過ぎゆくままにぃ~♪と有名歌手が唄っていたような格好よさではなく、飽くまで行き当たりばったりの出たとこ勝負・・という、なんとも不安定で格好悪い生きざまだった。それでも池波は、それでよし! としていたから、これはもう、他人がとやかく言う筋合いの話ではなかった。大きなお世話なのだし、池波はそれで損をしたことがなかったのだから尚更(なおさら)である。
桜が散り、花筏(はないかだ)が池の濠(ほり)を優雅に流れている。池波は土手の草原(くさはら)に座りながら、その流れを眺(なが)めていた。俺もこんな綺麗に流れる人生を…などと不似合いに思いながら、池波は、ヨッコラショ! と立ち上がった。そのときだった。池波の視線の先に大きな壺の蓋(ふた)が見えた。誰かが捨てたものが土に埋(う)まってるんだろう…と、池波は軽く思って立ち去ろうとした。だが、その壺の蓋は、実に鮮やかな瑠璃(るり)色に輝いていた。太陽の乱反射か…とは思ったが、池波は妙に気になった。近づいて手にし、その蓋を取ってみた。中には金銀宝石が、ぎっしりと詰まっているではないか。ハハ~~ン、誰かが何かの事情で埋(うず)めたんだ…と池波は思った。これも流れだ…と思え、壺を掘り出すと池の水で洗い、池波は何もなかったように本の位置へ戻(もど)して埋め、立ち去った。どうも、よからぬ風が流れているように思えた。これも、流れで生きる池波の勘(かん)だった。
三日後、テレビ画面がその池の濠を映し出していた。音声は池波が戻した壺と窃盗事件を絡(から)めて報じていた。池波は嘘(うそ)だろ! と思った。
「池波さんですか? 誠に申し訳ございませんが、署までご同行願います…」
刑事らしき私服の警官が警察手帳を示して池波の前へ現れた。持ち帰らなかったとはいえ、洗ったりして手に触れた以上、指紋が付いているのは当然で、警官が訪ねてきたのも頷(うなず)けた。池波は、まあ、流れで…と、パトカーへ乗り込んだ。車の中で、嫌味含みでアレコレ訊(たず)ねられたが、どういう訳かいい風を池波は肌に感じた。その勘は実に見事に当たっていた。取り調べが始まって二分も経(た)たないうちに、犯人自首の報が警察に入ったのだった。池波に対峙(たいじ)して座る刑事の偉ぶった口調が一変した。
「どうも、すみませんでした!! お引き取りになって結構です!」
池波は署長以下、総出で見送られた。こうなったのも、流れで…と、池波は思った。警察をあとにして、歩きながら、ふと、ズボンのポケットへ手を突っ込んだとき、池波はいい流れの風を肌で感じた。ズボンには以前、買った三枚の宝くじが入っていた。池波はその足で宝くじ売り場へ向かった。その宝くじは三枚とも池波の勘どおり当たっていた。池波は前後賞を含め数億円をを手にし、言葉どおりの億万長者になっていた。池波は大喜びすることもなく、これも流れで…と冷(さ)めて思った。だがその後、札束を手にしたとき、悪い流れを感じた。
一ヵ月後、日本は財政 破綻(はたん)し、数億円はただの紙切れ同然になっていた。
完
身に迫る災難や危険を察知すると、未然に話題を変える男がいた。方月(ほうづき)という珍しい姓のためか、彼はアホウ月という渾名(あだな)を有難くも課内で拝命していた。その彼が所属する課は堅くも堅い、泣く子も黙(だま)る、人事部管理課。通称、人管である。
話題を変えるといっても、それは局面に応じて変化させるという型(かた)を決めないものだった。例えば職場内の人間関係の場合、機転を利(き)かせて話題を変えた。仕事の場合は、まったく別次元の逆発想で、そういう考え方もありか…と上司を思わせた。また、宴席の場合、シラけた座を一変させる余興をして一同を笑わせた。要は、その時々の話題変化を強弱、軽重、硬柔に使い分けることで、その場を凌(しの)いだのである。アホウ月と呼ばれる方月だったが、彼は決して馬鹿でも阿呆(アホウ)でもなかった。いや、真逆の課内一の切れ者と言っても過言ではない存在だった。
方月は今朝も軽く話題を変化させていた。
「どうなのかねぇ~? 来季の採用は…」
課長の宇佐美は、机の前で待機する方月に訊(たず)ねるでなく口を開いた。
「えっ? ははは…。それにしても消費税って一円玉が貯まりますよねぇ~」
「んっ? ああ、そうそう。昨日は妻の買い物で増えて往生したよ」
「そういうのって、結構、困りますよね。私は、レジ前の募金箱へ入れることにしております」
「ああ、それはいいかもな…。邪魔って訳じゃないんだが、どっさり持って移動するっていうのもな。ところで、どうなのかねぇ~? 来季の採用なんだが…」
「えっ? ははは…。そういえば、また五月の連休ですが、今年も課長、お出かけですか?」
「そうそう、それなんだよ、君。私は乗り気じゃないんだ。ゆったり、疲れをとって眠っていたいんだが、妻がね…」
「はあ、家(うち)もそうでして…」
「お互い、大変だね? …ご苦労さん。なぜ、君を呼んだのかな?」
「さあ~?」
「あっ! もう、いいよ…。…?」
「その花瓶の花、課長、綺麗ですね?」
「んっ? ああ…。…」
方月は軽くお辞儀すると、自席へ戻った。
完
あの味は忘れられん! と、事あるごとに住尾は思い出した。その味は住尾が生涯で初めて口にした絶妙の味だった。彼がその料理を口にしたのは、故(ゆえ)あって友人となった稲辺という大学院生の実家である。
それは、数年前の寒い夜のことだった。
「まあ、上がれよ! 今日は皆、旅行に行ってな。誰もいないんだよ」
「…」
ああ、そうなんだ…と思いながら、住尾は言われるまま黙って靴を脱いだ。
稲辺は冷蔵庫から缶ビールを2本出し、1本を住尾に渡した。
「お前、腹減ってないか? 夕飯、まだだろ?」
「ああ、まだだ…」
住尾は事実をそのとおり話した。
「よし! じゃあ、準備するから食ってけよ。俺も腹空いてるから、すぐ支度(したく)する」
稲辺は賑やかに動き出した。そして10分後のテーブルには一応、食事が出来る形が構成された。だがそのとき、住尾は、おやっ? とテーブル上のセッティングに違和感を覚えた。皿や茶碗、箸などは置かれていた。しかし、肝心のおかずは沢庵以外、見当たらない。住尾が訝(いぶか)しげに稲辺を見ると、稲辺は鍋を持って奥から現れた。
「お待ちっ! これを温(あたた)めてたんだ。さあ食べよう」
稲辺がテーブル上に置いたのは、明らかにスキ焼の匂いがする汁だけの鍋だった。普通はスキ焼なら卵とかを割った小鉢が置かれ。グツグツと煮えた肉や他の具材を箸で摘(つ)まみながら食べるんじゃないのか…と、住尾は不満はないものの奇妙に思った。
「ああ、これか…。昨日、スキ焼だったんだ。お前一人、留守番させて申し訳ない、とかなんとか言われてさ。ははは…、結局、そう言いながら全部、食べて家族は出かけたよ。まあ、うちの家族はその程度さ。しかし、美味いぜ、これを温(あった)かい御飯にかけて食べると…。まあ、騙されたと思って食べてみな」
稲辺にペラペラと流暢に話され、住尾は断る訳にもいかず、稲辺と同じ所作でスキ焼の残り汁を熱々の御飯にかけて食べた。ひと口…ふた口…これが絶妙の味だった。住尾は知らないうちに三膳をおかわりして食べていた。
あの味を求めて試してみたが、材料が違うからなのか、はたまた味付けが違ったからなのか、住尾は未(いま)だに、あの味に巡り合ってはいなかった。
『美味しかったですか?』
ある夜、夢に、そのスキ焼の汁が登場し、話しかけてきた。
『美味しかったですか?』
『ええ、とても。もう一度、あなたが食べたい…』
住尾は思わず夢で語りかけていた。スキ焼の残り汁は、ニンマリと笑った。
完
空が暮れ泥(なず)んでいた。確かに日足は長くなった…と、宿題の絵を書く堅太のクレパスが賑やかな線を描いた。誰が見ても山と空だが、色が少し違うように思える絵だった。いや、はっきりいえば、全然、色が違っていた。ただ、その絵には才能が認められた。実に描写が克明で、写実派の画家・・を彷彿とさせる絵だった。とても、10才の小学生の絵とは思えなかった。
次の日の図工の時間である。生徒達が宿題で描いてきた絵を一人ずつ教師が呼んで、評価をしている。
「…、なぜ、この色にしたの?」
図工の原塚先生は笑いながら優太に訊(たず)ねた。堅太が色盲(しきもう)でないことは、担任の平山先生に訊(き)いて知っていた。
「訳はないよ…。ただ、そう感じたから」
「そう感じたのか…」
「うん! なんか、この感じ…」
堅太は描いた絵の空を指さして、そう言った。その口調には自信が溢(あふ)れていた。原塚先生には分からなかったが、そのとき堅太の感覚ではその空の色彩は、山や野や田畑の色彩と融合していた。その絵は普通目には、すぐに異色だったが、10分ばかり見続けていると、観る者の感覚を次第に変化させる、独特の技巧だったのである。堅太には描く瞬間に、その感覚が脳裡(のうり)に訪れたのだった。
「惜しいなぁ~。色彩以外は素晴らしく上手いんだけどね。先生はそう思うぞ」
「はい! 有難うございます。また、書いてきます」
「うん! 頑張ってな!」
堅太は絵を持って自分の席へ戻った。
「では、次の人! …山崎君」
一人一人、原塚先生の指導と評価が続いた。
後日、堅太は日本画壇にその名を轟(とどろ)かせることになるのだが、この頃には誰一人としてそうなる彼を予見できる者はいなかった。この技法は未(いま)だに解明されていない不思議な特殊技法である。
完