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時間のなかの許し

2017年09月13日 | 人生

善と悪については、古来、宗教家や哲学者がいろいろと議論をしてきました。

「神が善一元の存在であるならば、悪があることはおかしいし、悪霊、悪魔が存在することもおかしい。そういうものが存在するということは、神の属性のなかに、そういうものがあるということだろうか。

 

また、神の属性のなかに、そういう性格がないとすれば、この宇宙を神がすべて支配しているとは言えない。神の支配の及ばない世界があることになる。そこには、ほかなる存在があることになる。そうすると、神は唯一の絶対者ではありえなくなる」

 

こういう矛盾したテーマがあり、善悪については、古くから、なかなか結論が出なかった面があります。

 

インドネシアのバリ島では、バロンダンスという民族的な演劇が行われています。そこには、民族神である善神のバロンと、悪魔の化身である悪神のランダが出てきます。そして、「善なる神、真なる神であるバロンの力と、悪なる神、すなわち悪魔であるランダの力とは対等で、決して決着がつかない。善なる神と悪なる神が、永遠に戦いつづける」という思想が描かれています。

 

この考え方は、はるかな昔に中東で説かれたゾロアスター教においても、「善と悪との戦い」、すなわち、「光の天使、指導霊であるオーラマツダと、悪神との戦い」として描かれているテーマです。

 

それでは、ほんとうに、そういう善神と悪神とがあり、その力は互角で決着がつかないのでしょうか。

 

確かに、人類の歴史を見ると、常に、善なるものと悪なるものがあって、闘争しつづけ、決着がつかずにいるようにも見えます。

 

このような二元的な考え方も、地上の人間を導いていくための方便としては、とても役立つものだと私は考えています。

 

人間にとっては、三つのなかから一つを選ぶよりも、あるいは、五つや十のなかから一つを選ぶよりも、二つのなかから一つを選ぶほうが、はるかに簡単です。また、それは、同時に、その決断の過程において、多くの勇気を必要とするものでもあります。「イエスかノーか」「全か無か」の決断というのは、人間の心理において極めて基本的なものです。

 

こういう導き方で、正しいものを教えていくことは、方法論的には優れた面があると考えます。

 

ただ、真実の仏の世界から結論を語るならば、やはり、「善悪の二元を超越した、一元的なる、大いなる善があり、地上の人間の目に善悪と見えるものは、自由そのものに付随する属性が、違ったように見えているだけである」と考えてよいでしょう。

 

自由は、その出発点において制限がないことをもって自由とされています。制限がないことによって、衝突が起きることもあれば、繁栄が起きることもあります。すなわち、自由は、繁栄の側面を取ると善に見え、衝突、あるいは相克の面を取ると悪に見えることになります。

 

この悪の面は、普通、反省や改心、懺悔などの過程を経て、許しを得、善なるものに転化することが、当然のこととされています。

 

こういう心理が前提とされているということは、一定の時間を超えたときに、善一元の思想になりうるということです。

 

「人生の数十年を見たときに、善悪は明らかに分かれるとしても、長い長い時間の流れにおいては、悪なるものは、すべて、善なるものへと教導され、導かれているのだ」という考え方は、一つの一元論です。

 

「人間にとっては無限に近い時間も、仏の目から見れば、ほんの一瞬である」という思想をもってするならば、「善しかない世界が展開されているのだ」と言えます。

 

悪の存在、悪の行為について、「許しがたい。この世に仏はおられないのか。仏や菩薩の力と悪魔の力は互角なのか」などと、さまざまな疑問を持っている人もいるでしょう。

 

しかし、そういう人に対して、私は、「そう見えることもあるかもしれないが、時間の流れのなかで、『許し』という宗教的行為があることを知りなさい。許しがあることによって、すべては、善なるものへと転化していく過程として捉えられるのだ」と言っておきたいのです。

 

---owari---

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