人間らしさと愛について、さらに考えてみましょう。
「人間は、ともすれば、仏の意図を量りかね、間違った判断をするけれども、契機さえ与えられれば、また立ち直る可能性をも持っている」というところに、人間らしさの根本があると私は思います。
「一つの間違いも犯さない」という生き方は、仏、あるいは、仏の代理人の生き方であり、現実の人間には、かなり困難なことでしょう。ただ、私は、人間らしさを、単に、過つこと、間違いを犯すこととは捉えたくありません。「人間は、過ちを犯す可能性を持っているが、正しさに導かれる契機を与えられれば、必ずや立ち直る可能性をも持っている。人間らしさは、この辺にある」と考えたいのです。
「肉体を持ち、地上に生きている」ということは、「本来、完全な『仏の子』の魂であっても、その表現において、かなりの苦しみや難渋がある」ということです。それに対する理解を決して忘れてはいけません。
自分に対しても、他人に対しても、これは同じです。文学を深く読むような目でもって、他人の心の動きと行動を読み取らなくてはなりません。また、文学を深く読み取る手法をもって、自分自身の心の動きと行動を読み取らなくてはなりません。
要は、「人間は、仏が出した結論に従わないこともあるが、必ずや、元の正しい道に帰ってくる可能性を持っている」という理解の仕方をすることが、他人や自分に対する優しさを生むことになるのです。この考え方を大切にしていただきたいと思います。
自分に対して、「仏法真理に反することをすれば、もう極悪人であり、助からない。もはや、何の権利もなく、何を言うことも許されず、正しい生き方は許されない」と考えることは極端です。
他人に対しても同様です。「仏法真理に反する生き方、言動をしたとしても、その人に許される道が残されている。いや、その人は、必ずその道を辿っていくのだ」と考えてあげることは、極めて大事なことなのです。
私は、人間らしさの根底にあるものとして、「許し」というものを大きく取り上げておきたいと思います。「許しがある」ということは、その前提として、「過ちはある。過つことはある」ということです。それがなければ許しもありません。
自由がなければ、すなわち、人間が、みな杓子定規な行動をとるならば、おそらく地獄はなかったでしょう。地獄がつくられていくという危険を冒してまで、なぜ仏は自由を人間に与えたのでしょうか。
それは、人間に大きな喜びを生ませるためです。
人間には、創造の喜び、発見の喜び、選択の喜び、こういうものがあります。自由があるからこそ、新たなものを創造していくことができます。自由があるからこそ、試行錯誤をしながら、さまざまな発見をして、鋭い喜びを味わうことができます。自由があるからこそ、選択の喜びがあります。
人間には、「善と悪とのあいだで揺れながら、最終的には善を選び取っていく」という喜びがあるのです。
---owari---
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