現代の日本社会で諸悪なものは何か?
日本を貶めている組織や勢力が存在しているならば、それは何か?
それらは、メディア(朝日新聞、毎日新聞など大手新聞社)であり、NHKをはじめテレビ放送局や出版社(週刊新潮他)であり、左翼主義・自虐史観の政治家や学者、官僚、そして、日教組や悪質な労組などの組織であると思っていた。
確かに個々についてはそうであるが、何かそれらを束ねる諸悪が存在するのではないかと思っていて、調べていたが、その核心に届いたような答えを見つけた。
それは、ケント・ギルバートさんの著書「まだGHQの洗脳に縛られている日本人」や元駐ウクライナ大使・馬渕睦夫さんの著書「世界を操る支配者の正体」を読むと見えてくるのです。
諸悪の根源は、アメリカの日本洗脳計画「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」であり、「GHQによるプレスコード(報道規制)」ではないのかと。すでにご存知の方も多いのですが、おさらいとして書き記します。
★「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」とは?
戦争責任を一方的に日本人に押し付けることによって、米側の戦争責任を隠し、日本人に罪悪感を抱かせ、アメリカでなく日本の軍隊を憎むように仕向け、日本人の心を骨抜きにすることであった。
この日本人洗脳計画は、東京裁判、検閲、占領憲法の制定、公職追放、教育基本法の制定、焚書により、勇敢な日本人、善意あふれる日本人、優秀な日本人は、日本国には存在しないと、情報操作された。
また、日教組を設立し、教育現場に、日本の伝統文化、例えば 「日の丸」 や 「君が代」、人間形成の基本となる 「男らしさ」 や 「女らしさ」、そればかりか、世界最古の歴史を連綿と伝える 天皇陛下の存在 までを徹底的に冒涜(ぼうとく)し、戦争への回帰であると騙し、無視する体制を作りあげてしまった。
1952年、サンフランシスコ講和条約が発効して占領から解放された後も、 この日本人洗脳計画がメディアや教育界で維持され、独立国家の基本となる国軍の保持を可能とする、日本人による憲法制定や、人間形成の最大要因である、愛国心を養うための日本人による教育基本法の成立を拒否し続けさせたのです。
こうして日本人でありながら、先人を悪しざまに非難し、日本の良いところを覆い隠し、日本国を破壊しようとして 貴重な知的財産 や機密情報を平気で諸外国に売りつけるような、反日日本人が大量に生産されることになったのです。 (by Wikipedia抜粋)
しかし、多くの日本人はその洗脳になびかなかった。学問のない人やインテリと称する人々が洗脳されたのです。その洗脳に簡単に転んだ人が左翼主義者に多い。洗脳工作に負けてしまった人々なのです。
その結果、道徳的劣化が起こり、日本の罪をずっと見続ける人々が出てきたのです。メディアも同じであり、一例として、朝日新聞 珊瑚礁事件などを生み出したのでした。
朝日新聞 珊瑚礁事件は平成元年の4月20日に起きた朝日新聞による自作自演事件です。
朝日新聞記者が沖縄にある珊瑚礁にK・Yという落書きを発見、夕刊一面で報じました。
「これは一体なんのつもりだろう。(中略)「K・Y」のイニシャルを見つけたとき、しばし言葉を失った。(中略)日本人は、落書きにかけては今や世界に冠たる民族かもしれない。だけどこれは、将来の人たちが見たら、80年代日本人の記念碑になるに違いない。精神の貧困の、すさんだ心の……。 にしても「K・Y」ってだれだ」と、日本人のモラル低下を嘆く新聞記事を掲載したのだ。
その後の調査の結果、朝日新聞記者自身が傷をつけて記事として書いた自作自演報道であることが発覚したのです。
信じられないが、明らかに作為を持って、日本を貶めている人々が存在しているのです。
朝日新聞は、過去の慰安婦報道で、韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の虚偽の証言を記事にして、吉田自身が自著を捏造と認めた後も長らく訂正されることがなかったのです。
このようなメディアが現在の日本に存在していることが、諸悪の根源であり、アメリカの洗脳から抜き出せていないことを示すものなのです。日本人の敵は、プレスコードを今でも遵守し続けている日本のメディアであると言わざるを得ないのです。
★プレス‐コード(Press Code)
昭和20年(1945)9月、GHQが新聞・出版活動を規制するために発した規則。連合国や占領軍についての不利な報道を制限した。同27年、講和条約の発効により失効。
この洗脳計画や報道規制により、新聞社が中国や韓国を批判することができず、東京裁判史観や自虐史観しか持てなくなり、自国に対して罪悪感を持つことで救われるという洗脳教育にはまってしまったのです。それが、左翼主義の人々であり、日本を貶めている思想なのです。
戦後、保守的な書物はすべて廃棄され、左翼思想の学者しか生き残らなかったので、そのような学者に教えられた学生が社会に出て、今、社会の中心で働いているのです。だから、今もなお、日本の社会は左翼思想を打ち消すことができず、メディアの洗脳により、左傾化しているのです。
また、日教組のような偏った教育や日本国の歴史を抹消するような教育が行われてきたのです。
例えば、天皇の行った良い業績はまったく取り上げず、天皇のクーデターや親族同士での戦いなど天皇を侮辱する戦(壬申の乱、応仁の乱など)は教科書に掲載するのです。
国家を貶める政策が戦後ずっと行われてきたのです。最近の例では、今年になって文科省が聖徳太子はいなかったとして、「聖徳太子⇒厩戸王」と変更する案を提示した。これに対して、多くの国民から反対意見があり、取り下げたのです。文科省にも左翼思想・自虐史観で洗脳された官僚が存在していることを忘れてはなりません。
こうしたことを今、日本人は気づいて、本当の日本を取り戻さなければならないのです。
それは、道徳を尊ぶ教育であり、偉人を尊敬する教育であり、美しい日本をたたえる教育であり、何よりも神仏を敬う教育が必要ではないのでしょうか。
それらが正しい愛国心を生み出すのです。そして、日本人が本当に誇りを持つことができるのです。欧米が与えた民主主義は自由と平等ですが、それらの価値は結局、意見がぶつかる主義なのです。負けたものは悔しい思いをする考えなのです。
日本は古来、聖徳太子の時代からみんなが意見を出し合い、和議で答えを出してきた合議制民主主義が昔からできていたのです。欧米の価値観ではなく、日本の価値観に基づく民主主義が古来からあったのです。
この思想を取戻し、日本を再び誇り高き国へ導くことが世界の平和に大いに貢献すると考えます。
---owari---
以下に挙げるのはすべて明治ー大正期ですが、
「吉行エイスケ」さんの作品などは、都会の糜爛した拝金/性文化の一端を率直に示しているかもしれない。
「東京人の堕落時代」は、ポルノ・売春・悪いお嬢様の売春の手引き・金に物を言わせた不倫の丸め込みなど、おもに下半身的な悪徳が現代と同じものが揃っている。違うのは、「慎み」を装う事。今と比べると多少は純朴かもしれないが、たぶん出てくる登場人物は「慎み」は”処世”の為としか考えてないっぽい。ヤクザが仏頂面でなく、はにかんで見せるのが、どれほど意味があるのか、現代の様に礼もしない律儀でないワルの方が、タトゥーのようでわかりやすくて良いかも。
「墨東奇譚」 昭和5年(1930)くらいの有名な作品。いかに近代化で遊里の風情が破壊されたかを具体例でひたすら嘆いている。「戦前はもっと日本的だった」という感興に一石も二石も投じます。
「私の個人主義」 夏目漱石。他にも重要な近代の評論をしているが、提示されている問題意識は現代とかなり共通。
プロレタリア文学系なら、今の比でない激ブラックの肉体労働が現場目線で書いてある。
著作権は切れていないが、「東京の下層社会」もエグイ。料亭の下水に、貧民窟住民が大挙する(流れてくる残飯をさらう)ところなど地獄絵図。しかもその屑残飯みたいなの、「料亭」プレミア価格くっつけて売る奴までいる。
いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂うれいが少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。けれどもその日本が今が今潰れるとか滅亡めつぼうの憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。火事の起らない先に火事装束しょうぞくをつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈かけ歩くのと一般であります。必竟ずるにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起った時とか、危急存亡の場合とかになれば、考えられる頭の人、――考えなくてはいられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く訳で、個人の自由を束縛そくばくし個人の活動を切りつめても、国家のために尽すようになるのは天然自然と云っていいくらいなものです。だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、いつでも撲殺ぼくさつし合うなどというような厄介なものでは万々ないと私は信じているのです
漱石さんが左派的だというとそれまでなのかもしれませんが、聞くべきところのある文章だと思います。
漱石先生の「私の個人主義」を読ませていただきました。
漱石先生はバランス感覚に優れた、気骨ある文人であったとご尊敬しています。
明治44年、文部省から先生に文学博士号が与えられましたが、「文学博士なんていらない」と辞退されています。「自分はあくまで、ただの夏目某という人間でありたい」と説明されたそうです。漱石先生の真骨頂が感じられるエピソードだと思いました。
学習院大学の学生諸君に、「私の個人主義」について講演されたなかで、以下のように述べておられます。
「我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです」。
また、
「今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂しとげようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴ともなう責任を重おもんじなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります」と諭されるようにお話になっておられます。
私は漱石先生を左派的だとは思いません。
個人主義についても語られていますが、欧米で言われているものとは大きく違い、相手を尊重したご見解だと思います。
「個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及すのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支えないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです」。
個人主義と国家主義についても述べられています。
「私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです」。
「ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙(じゅうりん)しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります」。
各家庭に何一つの不平も不満もなくなった時に、さて国家にどれほどの難しい問題があるのでしょうか。おそらく、それは単なる疑心暗鬼にしかすぎない。単なる取り越し苦労にしかすぎないと思うのです。社会にユートピアができれば、国家は、最後には、その仕事がなくなってもよいと私は思っています
的を外れたコメントであるならば、あしからず。