桓武天皇は、巨大な財政負担に耐えながらも、国家の将来のために平安京造営と東北蝦夷(えみし)の帰順という二大事業を敢行した。
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(「民のために軍事(蝦夷の平定)と造作(平安京建設)を止めるべし」)
昨日は一年ぶりくらいで京都駅で降りましたが、どちらを見ても大きな荷物を抱えた欧米人の観光客の姿が目立ちました。相変わらず京都は日本観光の中心のようです。
先年、2025年大阪万博の招致に関する仕事でパリやロンドンにある各国大使館を回ったことがありましたが、外交関係の人々の間でも大阪を知っている人はほとんどおらず、京都はみな知っているので、「京都から新幹線で30分の都市」と紹介をしなければなりませんでした。やはり京都こそは日本の長い歴史と文化の象徴です。
この京都を建設して平安時代を始めたのが、桓武天皇です。しかし、その財政負担は巨大で、晩年にはこんな逸話がありました。
延暦24(809)年12月7日、69歳の桓武天皇の御前で「天下の徳政」について、30代の青年参議・藤原緒嗣(おつぐ)と60代の老参議・菅野真道(すがののまみち)が議論しました。
「天下の徳政」とは、徳のある政治とは何か、今の政治はその理想に叶っているか、ということですが、緒嗣はズバリと直言しました。
「現在、天下を苦しめているのは軍事(蝦夷の平定)と造作(平安京建設)です。この二つを止めれば、百姓(民)の暮らしを安んずることができるでしょう」
蝦夷の平定と平安京の建設は、天皇の25年以上の治世の二大事業でした。それを民の負担になっているから中止すべしという大胆な提言です。真道は平安京の造営にも携わっていたこともあり、断固反対しました。しかし桓武天皇は緒嗣の提言を入れたので、世の識者は天皇の英断に感嘆したと記録されています。
決断は素早く実行され、3日後には平安京の造営事業を担当していた造宮省が廃止されました。天皇は1年近く前から闘病中であり、3週間後の正月には病のために新年の朝賀も中止され、3月17日には崩御されました。
(目鼻のついた二大事業に自ら決着をつけた桓武天皇)
「軍事と造作を止めるべし」とは言っても、途中で投げ出したわけではなく、この頃には両方とも既に目鼻がついていました。
蝦夷平定の方は、3年前の延暦21(802)年に蝦夷の首領アテルイが降伏し、翌年には征夷大将軍・坂上田村麻呂がアテルイの根拠地よりもはるか北に志波城を築いて、朝廷の統治領域を大きく広げていました。
また、平安京は延暦12(793)年1月に遷都が宣言されて、造営開始。翌年、桓武天皇が遷られ、平安時代の幕開けとなっています。「徳政」論争の時点では足掛け13年も造営が進められており、朝廷運営に必要な建物はあらかた完成していたでしょう。
緒嗣と真道の論争は、桓武天皇が仕組んだ政治的儀式ではないか、という説があります。確かに自分の命も長くはない、二つの事業に目鼻がついた今、自分の治世としてのけじめをつけておこう、と考えられても不思議はありません。果断な構想力・実行力を持つ桓武天皇だけに、十分ありうることです。
(「当面は大きな負担となったが、後世にはその恩恵にあずかることとなった」)
それにしても、この緒嗣は後に、国家財政再建のために、藤原鎌足以来の特別な勲功(くんこう)に対して与えられた功封(こうふ:私有領地)1万7千戸を藤原一族ともども朝廷に返還するほどの人物でした。窮乏する民のために、そろそろ二つの事業の幕引きを図っては、と桓武天皇に内奏した、とも考えられます。
想像を逞(たくま)しくすると、天皇は、それは良いとしても、老参議・菅野真道は平安京造営にも功があったので、反対するであろう。それなら朕の前で真道と議論してみせよ、と命じたのかもしれません。
緒嗣の父親、藤原百川(ももかわ)は、桓武天皇の力量を見込んで、強力に皇位に引き立ててくれた人物でした。桓武天皇は母親が百済からの帰化人一族出身で身分が低かったために、皇位につける可能性はほとんどありませんでしたので、百川には深く恩義を感じていました。その恩に報いるために、ここで息子の緒嗣に花を持たせてやろうという思いもあったのかも知れません。
その緒嗣が編纂に加わった『日本後紀』は、桓武天皇の崩御に際して、こう記しています。
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内には興作を事とし、外には夷狄(いてき)を攘(う)つ。当年の費(ついえ)と雖(いえど)も、後世の頼(たより)とす。
内には造営事業を行い、外には蝦夷を制した。(この二大事業は)当面の大きな負担となったが、後世への恩恵となった。
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この一文は緒嗣が、桓武天皇への追慕(ついぼ)を込めて書いたように思えてなりません。
「後世への恩恵」は、現代の我々にも及んでいます。以下、桓武天皇の成し遂げた二大事業が、我々にとってどのような意味を持っているのか、考えてみましょう。
(「永遠の利用にたえる壮麗な都をつくりあげた」)
まず、京都の存在意義ですが、これについては多く語る必要もないでしょう。千年以上もの間、日本の首都として国を担ってきました。千年も都であり続けたのは、偶然ではありません。西本昌弘・関西大学教授は、著書『桓武天皇』の中で、次のように評しています。
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平安京は水陸交通の要衝に位置し、四方の諸国から人びとが集まりきたるのに便利な、広い平野のなかに建設された。桓武は一時の負担をものともせず、永遠の利用にたえる壮麗な都をつくりあげたのであった。
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桓武天皇は最初に長岡(京都府向日市)に都を移し始めましたが、桂川の氾濫などで、わずか10年で平安京に再度、遷都せざるをえなかったのです。天皇はこの失敗から多くを学び、平安京建設に生かしたのです。
それにしても、桓武天皇はなぜ奈良を離れて、京都に都を移したのでしょうか? いくつかの説がありますが、最も支持されている説は、奈良の仏教界が堕落・腐敗しながらも、政治への影響を強めており、それと距離を置くため、というものです。
律令政治のもとでは、僧侶は課税されませんでした。課税逃れのために勝手に僧となり、奈良の大寺院に田地の名義を寄進する者が多くいました。また諸寺が貧窮(ひんきゅう)の民に高利貸しまでする事もありました。桓武天皇は、こうした事を禁じましたが、抜本的に改革するために、都を移し、なおかつ、諸寺には平安京への移転も、寺院新設も認めなかったのです。
桓武天皇自身は、即位前には皇族ながら大学頭(かみ)として、現在の東大総長のような職に就いています。(それだけ即位の可能性はないと見られていたからです)。そして、寺院は教学研究と僧侶の修行の場とすべきと考えていました。
平安京では天皇は最澄を引き立てました。最澄は、平安京を見下ろす比叡山に仏教の総合大学とも言うべき延暦寺を建て、ここから法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍などの名僧が育っていきます。日本仏教の抜本的改革もその後の発展も、桓武天皇の「後世への恩恵」の一つなのです。
---owari---
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