川塵録

『インテグリティ ーコンプライアンスを超える組織論』重版出来!

コンプラを変え,会社を変え,日本を変える!

千尺井頭に端座

2024年12月20日 | 人物
山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎らの禅の師匠の南天棒は、深井戸の上で坐禅をしていた。

井戸の上に、竹を張って、落ちないようにして、そこで20代の前半かな、毎晩、6年くらい、寝ずに、坐禅を組んでいた。

その間、横になって寝たことがない。

眠くなったら、左手の手首を棒で叩いて、眠気を覚ましていた。

だから左手手首にはタコができた。

その「井戸の上で寝ないで夜通し坐禅を組んでいた」時代を、彼・南天棒は「千尺井頭に端座」と表現している。

なんだかオツな、ビビッと来る表現。ひゃくせきせいとうにたんざ。

普通ではないことをする人は、普通ではない言葉を喋る。
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なんだかこういう禅の世界に憧れる。

山岡鉄舟に憧れて、浄穢不二(じょうえふに)の修行をしたこともあった。

いずれなにかの縁で禅を学んでみたい。


 
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法廷に神が降りてきた 2 (加筆版)

2024年12月20日 | 法律・海外法務
先日投稿した、「法廷に神が降りてきた」が好評だったようなので、読者サービスで、ちょびっとばかり続編をば。

家庭連合の解散命令裁判。

原告文科省は200を超える陳述書を集め、家庭連合の解散へ向けて立証をせんとしている。

うち、数名の証人の尋問。

先日の報告 こちら のとおり、文科省側は、陳述書提出者が、自ら真摯に陳述書を作成したというよりは、文科省側(それをヘルプした某大手事務所弁護士?)の作成した陳述書を、ざっと見てサインした。

そんなことが分かる、ないしは高度に推認される尋問結果のようでした。

たとえば、客観的事実と異なる事実を問われても、それを頑として認めない。「忘れました」などと、小さい声で言い逃れる。

その「言い逃れる」態度は、だいぶ裁判官にも刺さったようでした。

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一方、家庭連合側証人は、堂々と、朗々と、俯仰天地に愧じず、といった様子で、尋問に応対。

相手方の国側証人(元信者)の境遇・態度に対しても、それを決して攻撃したり詰(なじ)ったりすることはない。

むしろ、そういう元信者を、
✓ 回心させることができなかった、
✓ 信仰の深い道にお連れすることができなかった、
✓ 神に会わせることができなかった、
✓ 神の下にお導きすることができなかった、
的に自責されている。

  • 神は全ての人類を子としているのです。
  • どんな人も神の子なんです。
  • 神はどんな人も見捨てないんです。
  • ですからどんな悪い人も神の子なんです。

  • その神の愛を、その元信者に分かってもらうことができなかった。
  • だから私の責任なんです。
  • 私たち家庭連合の責任なんです。
  • 今でも、私は、その◯◯さん(元信者)のために祈っています。

こんな応答が、東京地裁の法廷で、行われました。

なんと厳粛で、なんと神聖で、なんと崇高な、法廷であったことか。

そこに神が降りていた。

私はそう感じました。

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蛇足ですが、我々が信仰心を高め、宗教心を高め、精神性を磨き、崇高に、美しく、自責して生きることで、そこに神が降りてくる。

我々の立派な心の輝き、魂のほとばしり、愛の叫び、義の雄叫びに対して、神は満腔の愛を注がれる。

そういうことなのでしょう。
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著者に会いに行く

2024年12月20日 | 書道
これ、という本を読んだら、丁寧にお手紙を書いて、著者に会いに行く。

メールではなく、丁寧に筆で。

結構な確率で、お会いしてくれます。

メールや活字でご連絡するより、確率は高いだろう。

10年間、書道をやっていた甲斐があったというべきか。




書は心を表す。

いつかしっかり書を学び直して、書の個展でも開きたい。

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執行草舟さんの著書で勧められた、南天棒って禅僧(山岡鉄舟や乃木希典や児玉源太郎の禅の師匠)の本を読んでいる。図書館で借りて。

61年前の本。

この本に、南天棒の書がいくつも写真で掲載されている。

た、達筆、、、 

この本は永久保存したいくらい。南天棒の書をYahoo オークションとかメルカリで求めてみるかな、、、

 
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メディアの役割

2024年12月20日 | メディア/SNS
反家庭連合は「統一教会は30年前から何も変わっていない」と言う。

家庭連合は「特に2009年コンプラ宣言以降は大きく変わった、今も変わりつつある」と言う。

じゃあ中取って「どれくらい変わったのか」を検証するのがメディアの役割では。

オールドメディアはそれをしなかった。

オールドメディアのそういうスタンス・構図、つまり「自分たちの報じたい事実しか報じない」は今に始まったことではない。

それが兵庫の齋藤さんの件が明らかにした。

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私は石橋湛山(戦前の硬骨のジャーナリスト)とかが好きで、「メディアは社会の木鐸たれ」って思っている。

でも、今のメディアの方々、特に若い方々は、「木鐸」なんて言葉すらご存じないのかもしれない。

ChatGPT:

**木鐸(ぼくたく)**とは、もともと古代中国に由来する言葉で、以下のような意味を持ちます:

1. 木鐸の起源

「木鐸」とは、木製の鐘や鳴り物を指します。古代中国では、木鐸を鳴らして民衆に教えを広めたり、知らせを伝えるために用いられました。

2. 比喩的な意味

転じて、「人々を教え導く存在」や「社会に対して正しい道を示す者」を指す言葉として使われるようになりました。この場合、「木鐸」とは道徳的・知的なリーダーシップを発揮する人物や、社会的に重要な役割を果たすものを意味します。

3. 日本での用法

日本では、特に新聞やジャーナリズムの役割を表す言葉として「社会の木鐸」
という表現が用いられることがあります。これは、ジャーナリズムが社会にとっての道標として、真実を伝え、世論を啓発する責務を持つという理念を示しています。

例文
  • 学者は社会の木鐸としての役割を果たすべきだ。
  • 新聞は社会の木鐸であるべきだが、その信頼性が問われている。
このように、木鐸は「社会のために正しい方向を示すリーダー的存在」を象徴する言葉です。
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