平泉澄(きよし)。戦前の、ちょっと右翼的な学者。皇国史観の代表的人物。戦後は不遇で終わった。
その程度しか知りませんが、すごくいいことも言っている。
誠実さには勇気を必要とする。
世の中の「不誠実」の、9割は、「逃げ」からくる。
逃げるから不誠実なのです。勇気がないから不誠実なのです。
だから勇気は誠実さの最大の要素。
だから人生の師父と崇められる小泉信三も、「善を行うに勇なれ」と言った。
この言葉は慶應義塾の至る所にまだ見受けられる(はずだ)。
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世の中には、自分の欲のために、事実を正しく視ることのできない人がいる。
まさに、「現実を直視する勇気」たるインテグリティがない人。
世の中には、世間の人々を恐れて、正しく事実を述べる勇気のない人も多い。
まさに。勇気は大事。
日本の歴史ってのは、そういう誠実と勇気との結晶なんだ。
およそ不誠実なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成に与(あずか)ることはできない。
その通り。
30年、50年経てば、不誠実なもの、卑怯なものは、何一つ残らない。
何一つ。
紀藤正樹さんと鈴木エイトさんと櫻井義秀さん(と島薗進さんと有田芳生さん)に、お伝えします。
尊兄らの言動は、50年後には何一つ残らない。
※ 清水克衛さんのこの本はやっぱりいい。
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ちょっと筆を進めます。
50年経って残るものは、本当に良いもの、美しいものだけ。心に残るものだけ。人を心から「感動」させるものだけ。
では、何が人をして「感動」せしめるか。
それは、人間の崇高さを感じられるもの。美しさ。かっこよさ。
では、「崇高(sublime)」とは如何なるものか。
崇高とは、勇気・野性・野蛮さに裏打ちされている。
勇気と野性と野蛮さこそが、自己犠牲の精神の元だから。
崇高とは、犠牲を伴う。犠牲になるには、勇気が必要。
Go for broke 的な、stay foolish 的な、愚鈍さ、鈍さ、アホさ、クレイジーさがないと、勇気も出ない。
そういう「愚かさ」があるから、崇高をも、纏(まと)うことができる。
運・鈍・根とはよく言ったものだ。
「鈍」でないといけない。
利口になってはいけない。
利口者に勇気は出ない。
小利口を唾棄せよ。
エドマンド・バークを引用される紀藤正樹弁護士は、「崇高」とは何かを、執行草舟を読んだりして、考え直されるがよろしかろう。