フランクル心理学では、「我々が人生に何を求めているのか」「人生の意味は何か」って「質問者」の立場で考えるのではない。
逆に、コペルニクス的転回をして、「人生が何を我々に求めているか」「我々が(日々刻々)人生の意味を問われている」という「回答者」の立場に立て、と言う。
そう。
我々は、質問者ではない、回答者。
人生からボールを投げられている。
我々が、傍観者ではなく、当事者。選手。プレイヤー。
これを勝田芽生さんは、「将棋を差すようなもの」と表現する。将棋の相手は、人生。人生が差してくる一手に、それぞれ、いい一手を打って、回答する。
我々の態度、言動、表情、、、、 これら全部、我々が人生から与えられている課題=人生から投げられているボールに対する、「回答」なんですね。
しかし、わかりにくい、、、
でも今日、ランニングをしながら、ひらめいた。
この「人生から」ってのは、おそらく、フランクルの本心では、「神から」って考えている。
ただ、フランクル心理学に普遍性をもたせるために、彼は、あえて「神」って言葉を使わず、「人生」って無味乾燥的な表現を使っているのだと思う。
我々は常に神から「どう振る舞うか」を問われている。
神を喜ばせるのか。悲しませるのか。
我々が回答を常に迫られている。
実際、フランクルの初期著作や講演には「神」が頻発した。後期は「神」と言わなくなった。
この辺の呼吸は、彼の初期著作の『死と愛』を読めば分かるのかも! 読んだらまたご報告差し上げます。