こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

戦争・・・その時の暮らしを聞かせてください

2017-07-13 23:43:24 | 憲法・平和
毎月第3日曜日に発行の後援会ニュース、今月は16日。前日の15日が、封筒詰め作業の日。明日が印刷の日。今日は編集作業のリミットの日。


皆さんからいただいた原稿を紙面にはめ込み、一面の「時事ネタ」は私が書きます。(これはまだ


「戦後71年 平和への思い」のシリーズは16回目になりました。「戦後70年」の年から、ニュースを読んでいただいる方の中から、戦争の時代の暮らしを書いていただいたり、後援会の役員が聞き取りで書いたりしています。

今回は、学徒動員で軍需工場で働いていたTさん。

戦後71年 平和への思い⑯  ―いやな想い出ー終戦の日の夕方

昭和20年6月のある日、私の実家に何の前触れもなく、陸軍の下士官が13人入ってきて「今日からここを宿とする」と言った。それから終戦まで、いつも使っていない奥座敷から前座敷等奥の部屋を占領して、でっかい顔をして私たちは小さくなっていた。ご飯は2等兵ぐらいの人が3人来て飯盒で家の裏で炊き、風呂はドラム缶で中に板を入れて地獄風呂みたいなもので入っていた。おかずは母が全部大鍋で炊いていた。
終戦の日の夕方、友達と二人で前の石垣に腰かけて、「これで学校に帰れるかなぁ」とか(学徒動員軍需工場に行っていたから)いろいろと話していた。シミーズを着ていた。袖がないだけの、今の若者が着ているよりずっと肌の出ていない下着。そこへ一人、兵隊が出てきて、「てめえら、そんな格好してるから、戦争に負けたんだ」と言って、日本刀を持って、私たちを追いかけてきた。逃げて、逃げて、ぐるーっと廻って、家の蕗畑の中に隠れた。やぶ蚊にあちこち刺されて、かゆくてたまらなかった。そーっと家の裏から入って行くと、母が「今、入ったらあかん」と言って、蚊取り線香を持って納屋に行くように言われた。その下士官は酒に酔っていたのだろう。家に入って畳に刀を突き立てたり、柱を切ってかかったり、暴れまくっていたそうな。
言いたいことはいっぱいあるけど、書くのが嫌になった。思い出したくない嫌な思い出だけど、このごろ、ふと、甦ってくる。70年余、前のことである。(東助松 H・T)


その時、庶民の暮らしがどんな風に壊されていったのか。人々の命が奪われていったのか。

それぞれの壮絶な体験を語ってくださる方、書いてくださる方々に感謝。
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