過食症、ウツ……母との葛藤を克服して
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幼い日のピアノ・レッスン
「そこ! 左手の音、違ってる! 何度言ったらわかるの?」
母のヒステリックな罵声が浴びせられ、次の瞬間、私は床に倒れこんでいました。
幼稚園の年長から習い始めたピアノ。
その毎日の練習に、母は欠かさずつきあい、ぴったりと私の横に座って、厳しく指導していました。
うまく弾けないと、容赦なく私を叩き、胸ぐらをつかんで床に押し倒しました。
私は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、「早くこの時間が過ぎ去りますように……」と、ただただ、そう願うことしかできませんでした。
母の厳しいピアノのレッスンは、私が小学校3年生でピアノをやめるまで続いたのです。
1980年、私は横浜市に生まれました。
父は努力家で、一流大学卒のエリート銀行マン。
母は名家から父のもとに嫁いできました。
両親とも教育熱心で、私が何か習い事をしたいと言えば、すぐに何でも習わせてくれました。
けれども、ボーッとしたタイプだった私は、学校の成績は今ひとつ。
にもかかわらず、小学校5年生になると、友人たちの影響から、私は中学校受験をしたいと両親にせがみ、塾に通うことになったのです。
中学受験
塾の勉強だけでは足りないからと、父が理科と算数を、母は社会と国語を担当し、つきっきりで私の勉強を見てくれました。
そして、またしても母のスパルタ教育が始まったのです。
父が異動になり、単身赴任すると、母の厳しさはいっそうエスカレートしていきました。
一問一問私に問題を解かせ、私が解けないと、「昨日、塾でやったでしょう! 何でできないの!」と怒鳴っては私を叩き、床に倒れて泣いている私をさらに何度も蹴りました。
私は、リビングに敷き詰められた絨毯(じゅうたん)に頬をぴったりと押しつけて、絨毯にこびりついている染みや汚れをぼう然と見つめながら、「ああ、一日でいいから、一人で勉強させてほしい……」と、心のなかで叫んでいました。
結局、成績はそれほど伸びず、私立のミッション系中高一貫校にかろうじて補欠合格した私は、その学校に進学しました。
私って価値のない人間?
中学入学後も、成績が悪いと、母は私を叩き、体罰は、私の体格が母のそれを追い越すようになるまで続いていたように思います。
さまざまな情報から、母の行為が「虐待(ぎゃくたい)」に近いということを初めて知った私は、母に対して反抗的になっていき、来る日も来る日も、母との激しい言い争いが続きました。
そんななか、私は絵を描くことの楽しさに目覚め、美術部に入部。
そのうちに、「美術大学に進学して、美術の教師になりたい」という夢を抱くようになりました。
けれども、父からは、「美大なんてだめだ! まともに勉強をしない人間に価値なんかない。お前は人間としての価値が低い」と、美術の道に進むことを猛反対され、目の前が真っ暗になりました。
「勉強ができることだけが、すべてなの? 美術を志す私には価値はないということ?」
私は両親が押しつけてくる価値観に対して、強い疑問を感じました。
こうして、中学校・高校時代は、両親、とりわけ母との衝突が絶えず、私はやることなすことのすべてを否定されて、もう、いっそ死んでしまおうかと思うことがよくありました。
反対する両親を何とか説得し、私は1年浪人して、美術大学に進学しました。
美術の道を選んだ私を、両親にも認めてもらいたい――その一心で、大学入学後は、絵にも学業にも真剣に取り組みました。
「学費は全額は出せない」と父から言われていたため、私は奨学金を得て、さらにアルバイトもして学費を稼ぎました。
けれども両親は、そんな私の努力を評価しようとしないばかりか、2人の妹たちと私とを、何かにつけて比較しました。
2人とも同じ中高一貫の有名私立進学校に通い、私より学校の成績が良かったからです。
「私はこんなに頑張っているのに……。何で私だけ認めてもらえないの?」
私は激しい憤りを覚えました。
このころ、私が外出先から帰宅すると、母と妹たちは、よくリビングでヒソヒソ話をしていました。
実は、すでに高校2年生のころから、私には軽い「過食症(かしょくしょう)」の症状があり、夜中にこっそり台所へ行っては、母が買い置きしてあった大量のお菓子を全部食べ尽くしていたのです。
そのことを、3人で噂していました。
「私だって食べたくて食べてるわけじゃない! やめられずに苦しんでいるのに……」
外ではアルバイトで疲れ果て、家はまるで針のむしろ――。
私の心は崩壊寸前になっていました。
心身のバランスを崩して
そして、大学2年生のある日。
突然、幼いころ母から浴びせられた「あんたなんか、生きる価値がない!」という言葉が、そのまま耳元でリフレインされ、頭が割れるように痛みました。
いわゆる「幻聴(げんちょう)」でした。
さらに、母から叩かれているときの光景がフラッシュバックして、心がしめつけられるように苦しくなりました。
何も手につかなくなって、私は学校のカウンセリングルームに通い、何とか心を立て直すことができました。
けれども、私がどん底のときにも積極的に助けてくれようとはしなかった家族に対しては、冷ややかな感情がこみあげてきました。
「もう、この家には居場所がない……」
大学3年生の夏ごろから、私は友達の家を転々として家には帰らず、4年生の春、アパートを借りて一人暮らしを始めました。
大学卒業後は、経済的に早く自立しようと、昼間は知的障害者の作業所で働き、夕方から深夜まで、居酒屋でアルバイトをしました
。
家を出たことで、両親と衝突することがなくなり、幻聴などの症状は消えていきました。
居酒屋のバイト仲間や常連客と交わす会話だけが、寂しさを紛らわせてくれました。
しかし、ハードな生活がたたり、私は再び心身に変調をきたし、心療内科で、「軽度のウツ」と診断されたのです。
新しい生命の誕生
そんなとき、親身になって支えてくれたのが、現在の夫、Sさんでした。
「胸に鉛の塊が入っているように苦しい。起き上がるのも辛い……」
そんな私を心配したSさんは、「静岡に転勤が決まったから、僕と結婚して、静岡で一緒に暮らそう」と言ってくれました。
そして、両親の大反対を押し切って、翌年、彼と結婚。
ほどなく長女が誕生し、静岡の地で新生活がスタートしました。
義母は、本当に優しく私を迎え入れてくれました。
訪ねてきた義父の親友までもが、「いい嫁をもらったなぁ。ご両親にもちゃんと許してもらえるといいなぁ……」と心配してくれるのを聞いて、何てあたたかい人たちなんだろうと涙が出ました。
主人の家族や親族の愛情に包まれて、私のウツの症状は徐々に快方に向かっていったのです。
しかし、出産後の子育ては、想像以上に大変でした。
娘が泣きやまないとイライラして、つい「うるさい!」などと怒鳴ってしまうこともありました。
幼い彼女は、とても不安な表情を見せ、おびえています。
すると、幼い私を叱っていた母の姿と、自分のそれとが二重写しになり、「母を責め続けてきたけれど、私も同じことをしている……」と愕然としました。
「母が私を虐待したように、私もこの子を虐待してしまうのでは……」と、子育てが不安で不安でたまらなくなりました。
思いあまって、私は、美大受験のときに予備校で知り合ったNさんに話を聞いてもらおうと、東京に住む彼女の自宅を訪ねてみることにしたのです。
幸福の科学の支部を訪ねて
Nさんは、幸福の科学の熱心な信者で、その日、私は、彼女に誘われて、初めて幸福の科学の支部へ行きました。
支部長と面談していただき、自分がいかに母に不当に扱われてきたか、どれほど辛い思いをしてきたか、延々と訴え続けました。
「あなたは、『私はあの母親に育てられ、ひどいことをされたから不幸になった』と思って、お母さんを恨んでいるでしょう? でも、恨み心で恨みは解けないのですよ。『人を呪わば穴二つ』とも言うように、恨み心は、相手を不幸にするだけでなく、あなた自身をも不幸にするのです」
「え? 私がこんなに苦しいのは、母のせいじゃなくて、私が母を恨んでいるからなの?」
私はとても驚きました。
さらに支部長は、「親子には深い縁があって、子は親を選んで、あの世で約束して生まれてくるんですよ。あなたが、お母さんの子供として生まれてきたのにも、必ず意味があるのです」と、教えてくれました。
「自分がよりによって、あの母を選んで生まれてきたなんて……。いったい、なぜ?」
私は母を、「勝手に産んだくせに!」と責め続けてきました。
そして、大学を浪人したのも、過食症やウツになって苦しんだのも、すべて母のせいだと思ってきました。
しかし、支部長の語る言葉には力があって、最後は前のめりになって聴き入っていました。
そして、母と調和できないと、よい子育てはできないこと。まず、私の心を善念で満たすこと。そして、母にも善念を向けてみること――そうアドバイスしていただきました。
私は、「この子を幸せにするためにも、支部長のアドバイスを信じて実践してみよう」と決意して、支部を後にしたのです。
母への善念
そのころ、母とは1週間に1回程度、電話で話をしていました。
長女が生まれたことで、育児の話などをするようになっていたのです。
けれども、愚痴っぽい母の話に嫌気がさし、いつも最後は喧嘩になっていました。
私は、「母に善念を向けるなんて、とても無理だ……」と思いましたが、まず、「お母さんと仲良くなりたい!」 と、一日に何度も思うようにしてみました。
そして、喧嘩してしまった日は、電話を切ったあとに心を落ち着かせて反省し、勇気を出して私のほうからかけなおして、「さっきは、ごめんね」と謝るようにしました。
すると、母も「私も、ごめんね……」と言ってくれるようになったのです。
過去のことまでは水に流すことはできませんでしたが、ガチガチの石のように頑なだった私の心が、しだいにやわらかくなっていくのを感じました。
私は、少しずつ少しずつ、母を受け入れられるようになり、母との言い争いの頻度は、みるみる減っていったのです。
幸福の科学へ入会
ある日、以前Nさんからもらって、ずっと、そのままになっていた幸福の科学の本を、ようやく真剣に読んでみようという気持ちになり、ページをめくってみました。
そこに書かれている一つ一つの教えが心にしみこんで、いつも不安で自信がなく、不幸感覚ばかりが強かった私の心が、どんどん元気になっていきました。
夢中で10冊ほど読み終えたとき、「本を読んだだけで、こんなにも心が救われた。支部へ行ってみたい!」そう思っていると、主人が、「お前が一生懸命本を読んでいる幸福の科学の建物が、近くに建っているぞ」と教えてくれたのです。
勇気を出して電話をしてみると、「近々、支部の落慶式があるので、来てみませんか?」と誘われ、思いきって参加しました。
そして、その日、私は入会をしたのです。
愛の貸借対照表
あるとき、支部に精舎(しょうじゃ)の講師が来られ、愛についての講話をされました。
その講話のなかで、講師は、「愛の貸借対照表」についてふれられました。
ノートを左右に分けて、 今までの人生で「人からしてもらったこと」を左側に、「人にしてあげたこと」を右側に、それぞれ書き分けていきます。
そして、「自分がいかに多くのものを与えられてきたか」を発見して、与えてくれた人への感謝を深めていくというものでした。
「『私は、誰からも、何もしてもらっていない』と思う方もいるでしょう? でも、赤ん坊として生まれたあなたは、何もできなかったはずです。ミルクもオムツも、何もかも、お母さんにしてもらいましたよね?」
講師の話に、私は、ハッとしました。
母からこんなこともされ、あんなことも言われた……と恨んでばかりで、母から与えてもらったことなど、考えてみたこともなかったからです。
私は、母について「愛の貸借対照表」を書いてみることにしました。
しかし、子供のころのことを思い出そうとしても、母からされた仕打ちばかりが脳裏に甦ってきます。
叩かれて泣いていたこと、成績が悪いと言っては厳しく叱られたこと、「生きる価値がない!」とまで言われたこと……。
思い出しても悔しくて涙が出てきます。
「書き続けていると、書けるようになって、感謝できるようになるよ」という友人のアドバイスを信じて、私は引き続き、「愛の貸借対照表」を書いてみることにしました。
すると、比較的最近のできごととして、家を飛び出したあと、父に黙って私のアパートを訪ねてきて、そっとお金を渡してくれたときの心配そうな母の姿を思い出しました。
小さいころのことも少しずつ思い出しましたが、やはり、母への感謝の思いはなかなか出てきませんでした。
精舎の光のなかで
しばらくして、主人と娘といっしょに、箱根精舎に参拝し、礼拝堂で母とのことを静かに反省していたときのことです。
母と、ずっと同居していた姑とが、言い争っている光景が、心に浮かんできました。
「そういえば、母は、よく祖母の悪口を言っていたなぁ。祖母は厳格な人だったから、お嬢様育ちの母は、苦労していたっけ……」
思えば母は、姑と同居しながら、3人も子供を育てたのです。
「一人を育てるというだけで、私はこんなに大変なのに……。きっと母は、祖母に遠慮して、自由に昼寝もできなかったんだろうなぁ。私には、優しい夫と優しい姑もいるけれど、父は亭主関白だったから、母は、何もかも全部一人で抱えていたんだろうな。
一人ぼっちで、どんなに大変だったろう……」
今まで忘れていた母の苦労を思い出すうちに、胸が熱くなってくるのを感じました。
すると、幼いころの母との思い出が、ありありと心に甦ってきました。
まだ私が小さかったころ、「絵を描いて」とせがむと、「絵は苦手だから」と言いながら、「ちびまる子ちゃん」みたいなかわいい絵を描いてくれた母。
小学校入学のときには、上履きにレースを縫いつけて、きれいな刺繍をしてくれた母。
喜んで学校に持っていくと、みんなにひやかされ、次の日には、新しい上履きを買ってもらったっけ……。
給食袋や体操着袋は、すべて母の手作りで、クラスの誰のものよりも手の込んだ刺繍がしてあって、私は母のことが自慢だった。
私と妹たちに、焼き菓子の作り方を教えてくれた母。
そのときの母は、とてもうれしそうで、キラキラと輝いていた。
下の妹の愛子が生まれて、寝かしつけるとき、よく「ゆりかごの歌」を歌っていた母。
「きっと私にも歌ってくれていたんだろうな……」と思うと、とっても幸せな気持ちになったっけ……。
そこまで思い出した時、涙がとめどなく溢れてきました。
「私は今まで、母からされた嫌なことばかりを思い出し、繰り返し心の中で反芻しては、母への憎しみを深めていた。でも、本当は、母からこんなにも与えられていたんだ!」
憎しみという眼鏡を取って見た母の姿は、娘たちに懸命に愛を与えようとする優しい母の姿だったのです。
さらに――。
「母はなぜ、受験や職業のこととなると、 あんなに必死になりパニックになっていたのだろう。私にだけ厳しかったのは何でだろう……」
そんな疑問が湧いてきました。
すると、娘の姿が心に浮かんできました。
娘は幼いころの私に似て、どことなく要領の悪いところがあり、私は、つい先回りして、手を出したり、注意したりしてしまいます。
「母もこんな気持ちで私のことを育てていたのかもしれない……」
母の家系は、何でもそつなくこなす頭の良い人が多いなか、母だけが、おっとりした性格で要領もよくなかったときいています。
「母は、3人の娘のなかで1番自分に性格が似ている私のことが心配で、しっかり勉強させようと必死だったんだ。そして思い通りにならない私に苛立っていたんだ……」
お母さん。
お母さんの厳しさは、ほんとうは私への愛だったんですね。
私はそれがわからずに、ずっと恨んでいました。
でも、今、やっとお母さんの愛情がわかりました。
お母さん、ごめんなさい――。
そのとき、心のなかの母への憎しみが、静かに消えていったのです。
それから、しばらくたったある日のこと。
私は、電話で母に、「育ててくれて、ありがとう」と小声で言ってみました。
母は、「何よ、突然……」と、ぎこちない返事。
でも、ためらいがちにひとこと言ってくれました。
「せっかく美大を出たのに、個展のひとつも開いてあげられなくて……ごめんね」――私は、受話器を持ちながら、声を出さずに泣きました。
母と、母娘になったほんとうの理由は、今の私にはわかりません。
でも、親子の縁は、今世だけでなく、永い永い縁。
母とは、いつもお互いに学びあってきたのだと思います。
母にも仏法真理を伝えて、幸せになってもらいたい――今、心からそう願っています。
そして、それが、縁あって母の娘となった私の、最大の親孝行だと思っています。