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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか?第4回

2017年07月17日 | 日記

聖書は「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:24~26)と言います。ここで、十字架がすべての者に義を提供したとしても、「イエスを信じる者」だけに義が適用されることに注意してください。

たとえば、電力会社が十分な電力を提供していても、家の中にあるスイッチを押さないならば、ライトがつかないように、イエス様の救いの効力は全ての人に無料で提供されていますが、私たちが「信じる」というスイッチを入れないならば、私たちが義とされることはないのです。私たちを義とし聖として下さる神様の力を、個人的に体験しないならば、義が豊かに備えられていても、それは何の役にも立ちません。

また多くの人は、義認すなわち罪の赦し、神様の前に正しいと認められることは、自分たちの生活の外で起きた何かであると考えています。つまり、自分の外で成し遂げられたキリストの十字架を通して赦しが与えられると信じていますが、罪人の心の中に起きる変化については知っていません。

使徒パウロは、多くのクリスチャンが信じている義認とは異なる概念の義認について語っています。大多数のクリスチャンは、義と赦しは『私たちの外』で行われたものだと考えていますが、パウロは『私たちの内』で行われることとして記しています。ローマ人への手紙8章1節から4節で、彼は義認が一人の人のために何をすることが出来るかについて描写しています。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ8:1~4)。

この聖句で『要求』に該当するギリシヤ語は、『ディカイオマ (Dikaioma)』ですが、この言葉は『正当な要求』を意味します。しかし私たちはあまりにも軟弱で、律法の正当な要求に従うことの出来ない肉の性質を持っています。私たちがこの律法の要求を満たすためには、私たちの中で何かが成し遂げられなければならないのです。

そこで神様は、私たちと同じような肉体を取られたイエス様をこの地へ送り出して、信仰によって律法に完全に服従する生涯を、模範として示して下さいました。それによって、イエス様を心から信じ、イエス様を心に宿す者は、イエス様が義なる歩みをされたように、義なる歩みをすることが出来るようになるのです。このような経験が真の意味の信仰による義の経験です。

神様が私たちに義を与えて下さる理由は、ただキリストが完全な従順の生涯を歩まれ、十字架で私たちのための身代わりの犠牲のいけにえになって下さったゆえです。キリストが成し遂げられた従順と犠牲の死が、肉の内にある私たちの無力さの問題を解決して下さらなければ、その計画は失敗となるでしょう。キリストが私たちの心と生活の中に入っておられる時、罪と死の宣告から解放され、罪は赦され、私たちは私たちの中におられるキリストを通して、律法の要求を満たす力を所有できるようになります。罪人のこのような変化こそ、まさしく十字架が信じる者のうちに起こして下さる恵みです。

 

赦しとは、私たちに向かう神様の態度が変化することではありません。赦しは、神様に向かう私たちの心が変化させられることなのです。神様は、人から罪を取り去ることによって、罪を赦されます。神様は、人から不敬虔を取り除くことによって不敬虔な者を義とされます。神様は、人から反逆心を取り除くことによって反逆者を義と認められます。神様が私たちを義と宣言される時は、神様の無から有を生じさせる力あるみ言葉が、私たちを義なる者へと創り変えて下さるのです。神様は、偽ることの出来ない方ですから、実際に義ではない者を義であると宣言されることはありません。イエス様は、サタンを征服された後に、今や人の心に入り、人を義なる者へと創り変え、罪の力に勝利できるように力を与えて下さいます。