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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか?第13回

2017年07月27日 | 日記

3、絶えずキリストとつながる生活

 枝がぶどうの木から切り離された時、命の補給はなくなり、その結果は死だけになります。同じように、私たちがクリスチャンとして生きるためには、命の源であるキリストに絶えずつながっていなければなりません。人がキリストのうちにとどまるのでなければ、彼はやがてしおれて死に、結局は火に焼かれてしまいます。このことは、キリストとクリスチャンの関係は、単に過去のある時、キリストにつながったことがあるという経験に基づいたものではないということを教えています。「わたしたちのいのちなるキリスト」(コロサイ3:4)から流れる命を、クリスチャンが絶えず受け続けている時だけ、人は生きているということが出来るのです。

 キリストが語られたぶどうの木のたとえ(ヨハネ15:1~12)は、とてもわかりやすく、誰もがはっきりと理解できます。生きたぶどうの木であるキリストと、それにつながる真実なクリスチャンであっても、つながることを願わなくなればぶどうの木から分離されます。その瞬間から彼らの霊的な命は死ぬことになり、やがて火に投げ込まれて焼き尽くされる運命となります。以前生きていたものが、今はしおれて死ぬことになるのです。永遠の命の保証は、ただ彼らの信仰がキリストに固定され、彼らの心が「わたしたちのいのちなるキリスト」とつながれている時だけ、得ることが出来ます。ですから、私たちが過去にどれほど素晴らしい救いを体験したとしても、今現在キリストと正しい関係にないなら、滅びることもあるのです。

イエス様は種まきのたとえで、一度救われた者でも、永遠の命を失う場合があることを教えられました(ルカ8:4~15)。このたとえでイエス様は、道ばたや岩の上、いばらの中に落ちた種について、このように説明されました。「道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである」(ルカ8:12~14)

 このたとえで、私たちが注目しなければならないことは、ここで語られた4種類の人々のうち、よい地に落ちた人たちだけしか最終的に救いを受けることができないという点です。豊かな実を結ぶ者だけが、救いを受けることになります。道ばたと岩の上、いばらの中に落ちた種にたとえられた人たちは、決して救いを得ることはできないのです。ある時までは真実であり、ある時までは救われた人であったとしても、誘惑の時に信仰から離れていってしまうなら、彼らは結局失われた者になります。このたとえは、人がある期間救いの信仰を持っていたとしても、後に信仰をなくすなら、滅亡するという主の明白な教えです。