SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

恋に落ちた神様 22

2014年06月18日 | 日記

   

 22

イエス様がこの世に来られた時、どんな人に、強く愛情を注がれたでしょうか。目の見えない人、足の不自由な人、ハンセン病の人、社会から汚れた者と言われていたような人たちを主は訪ねられて、彼らを最も愛されました。

この宇宙の中で、地球だけが罪に覆われ汚れています。神様は、この一番やっかいな地球に来られました。私たちが、天の神様の愛を受けるのにふさわしいから、この地球に来られたのでしょうか。そうではありませんね。私たちが神様の愛をいただく資格のない者であるにもかかわらず、捨てられるべきであったにもかかわらず、私たちが、神様の愛によって、神の子と呼ばれるように主はして下さったのです。

天の父なる神様は、この世の中で私一人しか存在していないかのように、私に接して下さるのです。天の神様は、この地に来られて私たちのために死なれ、それも十字架の上で死なれました。罪人が、ただ私一人であったとしても、私のために死んで下さったことでしょう。神様は、それを選択なさったのです。それが神様の愛なのです。親の愛です。私たちは、人間を訪ねて来られた、天のお父様に愛されている対象です。このような神様の愛を、人間である私たちが悟る時、私たちの存在の意味と価値を知ることができます。生きる目的が分かるようになります。この愛が分かって初めて、やっと人間になるわけですね。

  

     神の火 23

   神様は焼き尽くす火

 

へブル人への手紙12章27から29節をお読みします。「この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」。

神様は焼き尽くす火であると書かれています。まだ皆さんのうちに、震われるべきものが残っていませんか。それどういう意味でしょうか。天の教会にふさわしくない何ものかのことです。へブル人の手紙12章では天の教会、聖徒たちの集いについて述べられています。そこにあずかるのにふさわしい者となるべきです。神様は、地上の教会と天の教会を一つに結び付けようとしておられます。

 

 


 恋に落ちた神様  21

2014年06月17日 | 日記

  

 恋に落ちた神様  21

不幸というのは、結局、愛されない、愛さない、それが不幸なのです。病気にかかったことが不幸なのではなく、貧しさが不幸ではなく、愛がない、そのことが最大の不幸なのですね。では、この世はどうでしょうか。そういった愛はただではもらえませんね。愛される条件が必要です。愛される資格をちゃんと持っていなければ、愛をもらうこともできません。しかし、生命を生み出す愛というのは正反対です。皆さんそれぞれ子供さんがおありだと思います。その中で、全てが整っている子供と、足りないものがある子と、健康な者と、病を持っている者と、どちらに心が惹かれますか?世の中では、お互い愛し合っていたとしても、自分が損になると、その関係を断ちますね。しかし命を生み出した愛というのは、弱い者、足りない者の方に多くの愛情を感じるのです。

  神の火 22

このような祈りを、私たちは心から捧げるべきなのです。それが聖霊のバプテスマであり、それを真に経験することが出来るならば、神様の力が、皆さんのうちに臨むことでしょう。その時、私たちが携わる伝道の働きは、あまりにも強力なものとなって、誰もそれを阻むことが出来なくなります。その時、神様の「永遠の福音」のみ業は、全世界に述べ伝えられて、短い期間で終わりがやってくることでしょう。これが後の雨の力です。それは、間もなくやってきます。

多くの人たちが、それを見て驚くことでしょう。多くの教団、教派が驚くことでしょう。多くの教会の指導者たちが驚くことでしょう。神様があまりにも単純な方法を用いられるのを見て、多くの人たちはショックを受けることでしょう。その間私たちは、魂のために働き続けなければならないのです。私たちのうちから、いろんな誇り、利己心ですね、それを取り除いていただいた時、最善の働きが出来るようにされるのです。

 


恋に落ちた神様 20

2014年06月16日 | 日記

   

恋に落ちた神様 20

   死よりも強い愛

神様は、これほどまでに私たちを愛して下さっています。しもべの中でも最も卑しいしもべとなって、私たちの代わりに死んで下さいました。もし、死刑執行を待っている死刑囚に、私はあなたを愛しているから、あなたの身代わりに死にます、と言う人がいたら、その愛に感動しない者はないでしょう。神様は、それくらい私たち一人ひとりを愛して下さっています。それは、死よりも強い愛です。もともと、このような大きな愛を与えられていたにもかかわらず、人間は罪に堕ちてしまいました。それほど愛した最も大事な人間が、罪によって死ななければならなくなった時、神様は代わりに、私たちの代わりに死んで下さったのです。神様はそれほどこの世を愛しておられます。この神様の大きな愛を私たちが感じられないならば、私たちの人生の意味はないわけです。人間が生きる目的は愛のためですね。愛がなければ生きることはできません。

  神の火 21

この重要な点を、ぜひ皆さんに、今日ここで考えていただきたいのです。現在、皆さんの罪深い習慣には、どういうものがあるでしょうか。何か鋭い辛辣な言葉で人を傷つけたり、色んな巧妙な噂を流して人の評判を傷つけたり、そういうことが好きな人いませんか。利己的な行動、そのような思考パターンはありませんか。そこにあるのは、自分だけですね。まず自分、自分のことしか考えられないという思いです。そういった利己心が、皆さんのうちにずっと巣喰っていませんか。他の人には分からないかも知れませんが、皆さんには良く分かっていますね。ですから私たちは、神様に日々祈らなくてはいけないのです。

「主よ、どうぞ私の心を探り、私の心を知ってください。あなたの創造に似合うものとなりたいのです。あなたの創造の業を受けて、あなたの創造された他の聖なる存在、天使たちと調和できるものとなりたいのです。私の利己心によって、周りのだれも、傷つけたり、滅びに至らせたくはありません。あなたの聖霊を頂いて、変えて下さいますようにお願いします。私はあなたの新しい創造に属する者となりたいです。どうか私の心、思いを読んでください。私のうちに新しい心を創造して下さい。私のうちに正しい霊を回復させて下さい。私には出来ませんが、あなただけはその業をお出来になります」。


恋に落ちた神様19

2014年06月15日 | 日記

   

 恋に落ちた神様 19

イエス様も私たちのために、十字架の上で全てを与えて下さいました。どうぞ食べなさい。これは私の体である。これは私の肉である。それは言葉だけではなくて、実際にそのようになさったのです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえっておのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6~8)。

   神の火 20 

あるいは神様に対して、「神様、どうして私なんですか。ほかの人たちはよろしくやっているのに、何で私だけこんな目にあっているのですか」という思いを持ってはいませんか?

今日、皆さんはどのような精神を抱いておられますか。このような病んだ精神を抱き続けることが、やがては死に至る罪へと発展してしまうのです。こういった恨み、憎しみを抱き続けること、そして、本当に自分は繊細で傷つきやすい、すぐに人の言葉で傷ついてしまう、それは、皆さんのうちに問題があるのです。そういった品性の傾向を持っているとするならば、決して生ける神の印を受けることはないでしょう。そして、ついには死に至るのです。非常に危険な状態なのです。聖霊に心のうちに入っていただいて、そのような傾向、罪を、

それらのことは、単なる外側の洗い清めではなされないのです。ただ真理を理解し、知識として持っているだけでは、心のうちの清めには至らないのですね。聖霊に心に入っていただいて、そういった汚れを、すべて焼き尽くしてもらわなければいけないんです。そういった形で、心を変えていただく必要があるのです。イエス様がおいでになる時、私たちのこの朽ちるべき肉体は、朽ちない、永遠にわたって朽ちない肉体へと変えられます。そのことが起こる前に、私たちは心を備えて、まず、魂を清めていただかなければならないのです。そのように心を準備して初めて、永遠に生きることが出来るようになるのです。

 


恋に落ちた神様 18

2014年06月14日 | 日記

    

  恋に落ちた神様 18

ヨハネによる福音書3章16節は科学そのものです!愛というのは、いつも個人的なことですね。皆さんは人を大勢集めて「愛している!」といいますか?そうしないで、個人的に愛している人に告白しますね。二人だけの時に「あなたを愛します」と言います。ヨハネ3章16節は、いつ語られた言葉か分かりますか。真っ暗な夜、愛を告白するのにふさわしい夜でした。ニコデモに語られました。たった二人だけの時。彼に神様が語られました。「私はあなたを愛しているよ」と。「私はあなたを愛しているから、あなたのために死にますよ」。これこそ愛を告白したことですね。

親が子供を愛する愛、見返りがなくても愛し続けるのが、母の愛ですね。聖書には、私たちが直接神様を見ることが出来ないので、自然界を通して神様の愛を感じるようにさせた、と教えられています。巾着グモ(きんちゃくぐも)と呼ばれるクモがいます。このクモは、愛が何であるかということについて、教えてくれていると思います。巾着グモは、卵を生む時、葉っぱを半分に折って巣を作り、その中に生みます。これは外敵から子供を守るためにそうするのですが、問題が起こります。子供たちが敵から守られるために、しっかり作られた巣ですから、外に出ることができないのですね。エサを与えなければいけないのに。結局、巾着グモは、自分の体を子供に食べさせるのです。子供たちは母に抱きしめられたまま、母の体を食べながら生き延びるのです。クモが母の愛を知っているかは分りませんが、自分の体を食べさせて子を育てていくわけですね。

     神の火 19

もし皆さんが、心の中に、色んな不平不満を多く抱いているタイプの人だとするならば、皆さんの何かが間違っています。もし神様に対して、不平不満を漏らしたり、あるいは不平不満の精神をだれか個人や団体、教会にぶつけやすいタイプの人であるならば、これは特定の問題について言っているわけではありませんが、もし皆さんが、何らかの間違ったことをしている、言っている、個人、教会、団体に対して、何らかの悪意や、あるいは恨みを抱き続けているなら、皆さんの霊的生活、生き方がどこか間違っているわけです。何らかの憎しみ、恨みをまだ心に抱いたままにしている人、ここにいらっしゃいますか。不平不満を、今でも何かに対して抱いていらっしゃいますか。何かに、あるいは誰かに、そういった精神を抱いていますか。