22
イエス様がこの世に来られた時、どんな人に、強く愛情を注がれたでしょうか。目の見えない人、足の不自由な人、ハンセン病の人、社会から汚れた者と言われていたような人たちを主は訪ねられて、彼らを最も愛されました。
この宇宙の中で、地球だけが罪に覆われ汚れています。神様は、この一番やっかいな地球に来られました。私たちが、天の神様の愛を受けるのにふさわしいから、この地球に来られたのでしょうか。そうではありませんね。私たちが神様の愛をいただく資格のない者であるにもかかわらず、捨てられるべきであったにもかかわらず、私たちが、神様の愛によって、神の子と呼ばれるように主はして下さったのです。
天の父なる神様は、この世の中で私一人しか存在していないかのように、私に接して下さるのです。天の神様は、この地に来られて私たちのために死なれ、それも十字架の上で死なれました。罪人が、ただ私一人であったとしても、私のために死んで下さったことでしょう。神様は、それを選択なさったのです。それが神様の愛なのです。親の愛です。私たちは、人間を訪ねて来られた、天のお父様に愛されている対象です。このような神様の愛を、人間である私たちが悟る時、私たちの存在の意味と価値を知ることができます。生きる目的が分かるようになります。この愛が分かって初めて、やっと人間になるわけですね。
神の火 23
神様は焼き尽くす火
へブル人への手紙12章27から29節をお読みします。「この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」。
神様は焼き尽くす火であると書かれています。まだ皆さんのうちに、震われるべきものが残っていませんか。それどういう意味でしょうか。天の教会にふさわしくない何ものかのことです。へブル人の手紙12章では天の教会、聖徒たちの集いについて述べられています。そこにあずかるのにふさわしい者となるべきです。神様は、地上の教会と天の教会を一つに結び付けようとしておられます。