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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 恋に落ちた神様 17

2014年06月13日 | 日記

  

 恋に落ちた神様 17

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。  

この内容は何でしょうか。何が書かれていますか?愛ですね。どのような愛ですか。「私は愛のゆえに、あなたのために全てを差し出すよ」という愛の告白ですね。「あなたのためには命もあげます」、という愛の告白です。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」。

愛と何が結びついていますか?愛と永遠の命がつながっていますね。福音というのは、「天の父なる神様は、人間を本当に愛された。死ぬほど愛された。本当に死なれた」ということです。なぜですか。私たちを永遠に生かすために、永遠の命を私たちに与えるために、死よりも強い愛を、私たちに与えて下さったのです。ですから、この愛に私たちが応答していけば、永遠の命がもたらされるのです。

   神の火 18

 自己に死んでいない! 

ある人は、私はとても繊細な心を持っている、という人がいるかもしれません。色んな人の言動によって、とても傷つきやすい性格だというわけです。なぜそういう人はそのように傷つきやすいのでしょうか。その人の心の状態というのは、常に自己が元気に生き続けているからなのです。そうです。その人の自己は死んでいなのです。もしかしたら、皆さんは、他の人から見たら、本当に素晴らしい、人格のできたクリスチャンに見えるかもしれません。しかし、誰かが、何か憤慨するようなことを言ったり、やったりしたとすると、善良に見える人でも、プライドを傷つけられて、顔色が変わって、すぐにそれに反応してしまう、怒りをあらわにしてしまう、そういう人のうちには、まだ自己が生きているわけです。心の王座を、まだイエス・キリストに明け渡していないんですね。自分が自分の神として君臨しているわけです。自分のプライドを傷つける者には、いっさい我慢がならないわけです。そして、自分の人生において、利己的な目的を抱いているのです。


恋に落ちた神様 16

2014年06月12日 | 日記

  

 

  恋に落ちた神様 16

 愛と永遠の命

このように表現してよいか分かりませんが、神様は愛によって狂ってしまわれたのですね。愛のゆえに、人間をあまりにも深く愛したゆえに、自分を放棄して、なくしてもよいと思われたのですね。私たちに対する神様の愛は、私たちには想像も出来ないほど大きいものです。使徒ヨハネは、そのような神様の愛を知った時、このように言いましたね。

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい」(1ヨハネ3:1)。神様の愛の深さ、高さ、広さ、長さを、彼が見た時、このように叫んだのです。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか!」。それで今、私たちは神の子と呼ばれるようにされたのです。

 聖書の中で最も有名な聖句がありますね。少し教会に通った人なら、皆知っているくらい有名な聖句ですね。賛美歌が作られているほどですが、皆さん知っていますか?予想できる方?それは、ヨハネの福音書3章16節ですね。この聖句が、なぜそんなにも有名なのでしょうか?

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。  

    神の火 17

聖霊によるバプテスマ、聖霊の火によるバプテスマと、水のバプテスマは違う種類のものです。火というのは、焼き尽くしてしまう作用がありますね。火は、私たち、皆さんのうちにある汚れを焼き尽くしてしまうのです。そのような形で心を清め、形作って下さいます。これが聖霊の働きです。イエス様は、私たちの内に、そのようなことをして下さるのですね。私たちはこの聖霊によって新しく創造され、聖霊によって印される時に住んでいます。そのことを真剣に皆さんお一人おひとり、受け止めていただきたいのです。

過去にそういった教えを、何度も何度も聞いてきたかも知れませんが、そうであっても、それが単なる情報となってしまっているのです。それは真理の知識にすぎません。その知識を得たら、単にもっとよく知ったということに過ぎないのですね。しかしその真理が、個人的な経験において現実のものとならない限り、単に真理を知っているだけでは、それはやがては、呪いとなってしまうでしょう。

 


  恋に落ちた神様 15

2014年06月11日 | 日記

   

 恋に落ちた神様 15

イエス様は、この地に来られて十字架につけられた時、堂々とした神様としてつけられたのではありませんでした。十字架の直前、神様にせつに祈られました。「この盃をどうかわたしから取り除いて下さい」と。勇敢に立派に死ねばよいのに、「エリ、エリ、レマ サバクタニ」と、切に願う声を上げながら亡くなられたのですね。中世時代の殉教者たちは、どのようにして亡くなって行ったのでしょうか。火刑に処せられながらも、顔は平安そのものでした。初代教会の最初の殉教者ステパノも、石で打たれて死ぬ時、顔は天使のように平安だったんですね。しかし、イエス様は、「エリ、エリ、レマ サバクタニ:どうして私をお見捨てになるのですか」と、大声を上げて亡くなられたのですね。なぜでしょうか。

殉教者たちは、死んだ後、永遠の世界に迎えられるのですね。しかし、イエス様の死というのは、私たちの罪の身代わりでしたから、罪人が受けるべき罰として死なれるのですから、イエス様には、永遠の世界の保証がなかったのです。なぜなら、罪というのは神様と相容れないもので、分離されなければならないものですから、イエス様は、永遠に神様から切り離されようとしておられたのです。神様であられたイエス様が、神様と言う立場を放棄されたのです。イエス様は、自分の存在がなくなっても、この罪人である人間を愛するゆえに、彼らのために自分は死ぬということを決心なさったわけです。

    神の火 16

私が言わんとしていること、分かりますか?これ、非常に深刻な問題ですよ。私たちは毎日毎日その問題と取り組まなくてはいけないのです。ヨハネによる福音書1章を見たいと思います。ヨハネによる福音書1章26、27節です。この福音書を書いた使徒ヨハネが、このようなことを言っています。

「ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」(ヨハネ1:26、27)。

次に33節に飛びますが、ここでも興味深いことが言われています。お読みいたします。

「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』」。

ここで、バプテスマのヨハネは、2種類のバプテスマについて語っています。水によるバプテスマと、御霊の火によるバプテスマです。水は私たちの体をきれいにしますね。私たちの外側の色んな汚れを洗い流してくれます。水は、そういうきれいにするという作用があります。ただしその問題の根本原因を取り除いてはくれません。


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2014年06月10日 | 日記

    

   恋に落ちた神様 14

  人となられた神様

この宇宙の広さを、皆さん知っておられますか?宇宙がこのセミナーの会場とするならば、地球は、この点よりも小さいものです。神様を信じない地球を吹き飛ばせば、全て終わるのに、消してしまえば問題はなくなるのに、新しく創造することのできる方なのに、しかし、この最も小さい地球に住む私たちを愛するために、神様は人間になられたのです。神様がこの地球に来られて生まれた時は、小さい赤ちゃんで生まれましたね。母のお腹に宿って生まれて来られました。誰がですか?神様がですよね。赤ちゃんは、世話をしなければなりませんよね。お腹がすくと泣くし、ウンチをすると世話をしてあげなければいけません。そういった赤ちゃんとして、イエス様は生まれて来られました。「わたしは神である―」と言って来られたのではありません。人間と同じように生まれて来られました。その神様が、赤ちゃんから、だんだんと育ってこられたのです。「お母さん、お母さん、このお花の名前は何?」「それはゆりの花だよ」。創造主であったその方が、人間として生まれて、一つひとつ学ばれました。「お母さん、あの鳥、羽根が大きいね、何と言うの?」。「あれはワシだよ」。幼いイエス様と、母とが交わる光景を思ってみて下さい。宇宙を造られたお方が、物の名前を一つひとつ、人間を通して学んでいるのですよ。神様はこの地に生まれて、その名前をイエスと名づけられました。

   神の火 15

今、私たちの心をきれいにしていただく、清めていただく時です。私たちが大事に抱き続けていた罪、悪習慣を捨て去るべき時です。私たちの品性の欠点を正す時です。これが今であり、印する時なのです。その働きを怠るならば、私たちのうちの罪、習慣的な罪はますます凝り固まって、化石のようになってしまいます。ついには、その罪に決して勝利することが出来ないようになってしまうのです。罪が、もう私たちの内に動かすことのできない品性の特徴となってしまいます。その時には、聖霊ですら私たちの心を変えることが出来なくなってしまいます。私たちには、常にそのような欠陥がまだ残っているわけですね。そのような罪は、捨て去らなければ、死に至ります。そういった類の罪に、もう赦しは与えられないんですね、なぜなら、もはや聖霊の声に応答することが出来なくなっているわけですから、その罪のうちに、私たちはもう凝り固まってしまうわけです。

 


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2014年06月09日 | 日記

  

  恋に落ちた神様 13

私の家では、犬と猫を飼っています。ふつう犬と猫はあまり仲が良いとは言えませんが、小さい時から一緒に育てていますので、見ていると、夫婦じゃないかと思うぐらい仲が良くて、一緒に抱き合って寝たりしています。昼間は夫婦喧嘩みたいに、噛みついたりしていますが、夜休む時はお互いにくっついて寝るんです。しかし、仲よく休むんですが、結婚はしませんでしたよ。同じ存在同士だから、愛することが出来るんですね。愛というのは存在が同じでなければ成立しません。また、お互いに直接、会わなければなりません。

 みなさんが今ここにいて、愛する人が韓国にいると思って下さい。手紙を頻繁に交換しています。そのうち、「会いましょう」と韓国から知らせが来た時、「いや手紙だけでいいです」と言いますか?みなさん手紙だけで愛が完全であると思いますか。愛というのは、お互いに会うことで育っていきますね。会って、お互いに目を見つめながら愛を育むのですね。お互いに、目と目を合わせて、見つめ合って感じるのでなければ、愛は成り立ちません。それをなさりたくて、イエス様はこの地に来られたのです。天の父なる神様は、人間をこんなにも愛しているのに、人間があまりにも分かってくれないから、身近に来て下さったのです。そのために、神様は人間となられました。罪を犯した人間の身近に来られて、愛を気付かせようと、人間になられたのです。“実にきよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない(へブル2:11)”。きよめて下さるかたは誰ですか?神様ですね。きよめられる者は誰ですか?私たちですね。神様と私たちは、どんな関係だと言われていますか。兄弟関係だと言われています。本当に驚きですね。神様が兄弟だという宗教がどこにありますか?しかし、このみ言葉の通り、兄弟なのです。

日本には、八百万の神という、たくさんの神々がありますね。しかしあらゆる宗教の中で、聖書の神さまのように、「あなたの兄弟だよ、すべてを分かちあう者だよ」と言って下さる宗教がありますか?天の神様が人間になられたということ、この奥義は何百回語っても、すべてを完全に理解することは出来ません。どのようにして永遠の神様が、有限な人間になられたのでしょうか。

  神の火 14

自分が犯した罪を、心から悔いるならば、悪かったと思うならば、そのような罪は赦されるのです。では、死に至る罪というのはどういうものでしょうか。死に至る罪というのは、私たちが掴んで離そうとしない類(たぐい)のものです。習慣的な罪と言いましょうか、悪いと知りながらも、その罪を抱き続けて捨てようとしないものです。「その罪を捨てよ」という聖霊の声に抵抗してしまうわけですね。それは、大事にしている罪と言いますか、非常に危険なものです。私たちが聖霊の声に抵抗するたびに、私たちの内にあるこの罪はますます強力になってきます。そしてその罪が、だんだん、ますます、凝り固まって固くなってしまうのです。

アメリカのカリフォルニアのある場所に行くと、たくさんの化石を見ることが出来ます。この化石というのは、かつては、生きた植物、木だったりするわけですね。この石が、昔は木だったわけですから、そこに年輪も見ることも出来ます。ある時には、この石が、かつては生き物だったということも分かります。生き物が化石になるように、長年の罪の習慣で、私たちの心が、化石のように固くなってしまうのですね。