片山正信さんの初個展は1963年(丸柏デパート)であるが、マルミツ画廊には1971年5月に小品展の最初の記録がある。片山さんは大正4年(1915年)の生まれだから、このとき56歳。小品展の案内状にはありきたりの案内文は一切なく、ただ次のように詩が書かれている。
昨日も今日も何かが
すさまじい音をたててころがっています
ふと気づいてふりかえれば
ああ・・・・・・もう見えないのです
野原もとんでいた蝶も小鳥も
木や花や小川の魚たち
岬の夕陽は煙の中に墜落
星はみえない波の音も聞けない
昨日も今日も何かが
すさまじい音をたててころがっています
45-5-24 MK
「若松版画散歩」と副題をつけた展覧会。
この詩に詠っているように自然が傷つけられていることを悲しみ惜しむ気持ちを版画にぶっつけている。時は石炭エネルギーから石油エネルギーへの転換期、石炭積出港であった若松の姿をどんどん失っていく頃である。
片山さんは昭和10年(20歳)から昭和20年までを兵役につく。昭和10年、小倉歩兵連隊に入営したが、昭和11年4月には満州派遣部隊として北満に駐屯。東部ソ満国境守備について負傷。12年5月兵役免除となるが第二次世界大戦の始まりにより再び満州へ。21年帰国。しばらく呆然としているが、やがて版画を始め、日本版画院展に3年くらい出品を続けて院友となる。そのころ日本版画院秀作展に選抜されて出品するも、巡回展が済んでも作品が返ってこなかったことを腹立たしく、そして空しく思い、ぷっつりと出品を止める。その後日本版画院の棟方志功に誘われて大阪の民芸協会に入る。協会のボスは三宅忠一さん。自家用のベンツに片山さんらを乗せて全国研修ツアーをする。「なにわ民芸店」を主宰する三宅さんの支店として若松市(現北九州市若松区)に民芸店を持つ運びとなる。
オープンした民芸店の電話番号を届けるため信用金庫の窓口に並んでいた時、すぐ後ろに並んでいたのがマルミツ眼鏡店の電話番号を届けようとする光安鐵男だった。用件が同じで、それに電話番号も良く似ていた。二人は店も近いことから挨拶を交わし、そのときから親交が深まっていった。
片山さんの民芸店はお得意さんの多い店になっていったが、開業から10数年後、頼りの三宅さんが他界し、大樹を失った片山さんはすっかり元気を無くして民芸店を廃業してしまう。兄の経営する鉄工所を手伝わないかと救いの手が差し伸べられるが、片山さんはこつこつ制作していた版画から離れられず、「これをやり遂げないと死なれん」と周囲の言うことを聞かなかった。
先の、詩に詠われている心はずっと変わることなく片山さんは制作を続けることになる。現在92歳。体は細いが気骨な片山さんの話をもっと聞いておきたいと若松ケアハウスを訪ねる私である。
昨日も今日も何かが
すさまじい音をたててころがっています
ふと気づいてふりかえれば
ああ・・・・・・もう見えないのです
野原もとんでいた蝶も小鳥も
木や花や小川の魚たち
岬の夕陽は煙の中に墜落
星はみえない波の音も聞けない
昨日も今日も何かが
すさまじい音をたててころがっています
45-5-24 MK
「若松版画散歩」と副題をつけた展覧会。
この詩に詠っているように自然が傷つけられていることを悲しみ惜しむ気持ちを版画にぶっつけている。時は石炭エネルギーから石油エネルギーへの転換期、石炭積出港であった若松の姿をどんどん失っていく頃である。
片山さんは昭和10年(20歳)から昭和20年までを兵役につく。昭和10年、小倉歩兵連隊に入営したが、昭和11年4月には満州派遣部隊として北満に駐屯。東部ソ満国境守備について負傷。12年5月兵役免除となるが第二次世界大戦の始まりにより再び満州へ。21年帰国。しばらく呆然としているが、やがて版画を始め、日本版画院展に3年くらい出品を続けて院友となる。そのころ日本版画院秀作展に選抜されて出品するも、巡回展が済んでも作品が返ってこなかったことを腹立たしく、そして空しく思い、ぷっつりと出品を止める。その後日本版画院の棟方志功に誘われて大阪の民芸協会に入る。協会のボスは三宅忠一さん。自家用のベンツに片山さんらを乗せて全国研修ツアーをする。「なにわ民芸店」を主宰する三宅さんの支店として若松市(現北九州市若松区)に民芸店を持つ運びとなる。
オープンした民芸店の電話番号を届けるため信用金庫の窓口に並んでいた時、すぐ後ろに並んでいたのがマルミツ眼鏡店の電話番号を届けようとする光安鐵男だった。用件が同じで、それに電話番号も良く似ていた。二人は店も近いことから挨拶を交わし、そのときから親交が深まっていった。
片山さんの民芸店はお得意さんの多い店になっていったが、開業から10数年後、頼りの三宅さんが他界し、大樹を失った片山さんはすっかり元気を無くして民芸店を廃業してしまう。兄の経営する鉄工所を手伝わないかと救いの手が差し伸べられるが、片山さんはこつこつ制作していた版画から離れられず、「これをやり遂げないと死なれん」と周囲の言うことを聞かなかった。
先の、詩に詠われている心はずっと変わることなく片山さんは制作を続けることになる。現在92歳。体は細いが気骨な片山さんの話をもっと聞いておきたいと若松ケアハウスを訪ねる私である。