夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

野党は、まずは、服装を変えろ。今のままのスタイルでは、千年たっても勝てない。

2021-10-05 15:36:01 | 政治

スペイン 新興左派ポデモスの議員たち。全員、ラフな服装

 10月4日、自民党新総裁岸田文雄は、第100代首相に就任し、早速、衆院選を19日公示、31日投開票することに決めた。まだ世論調査は報道されてはいないが、自民党の支持率は大きく上昇していると思われる。いわゆるご祝儀相場で、「後手後手、無能な菅」よりは、何かいいことをしてくれるだろうと期待する国民の支持率が冷めないうちに、1日でも早く、選挙をやってしまえ、というわけである。
 マスメディアは、新内閣の顔ぶれといった内容を細かく放送し始めている。野党は、1か月にもおよんだ自民党総裁選の加熱した報道、特にテレビにクレームをつけたが、どだいテレビ局は、カネと権力に弱く、それに視聴率が優先されるので、公平性など期待しても無理な話しなのである。報道の自由とは、他の自由同様に、強者の自由が、弱者の自由の数倍もある世界なので、公平性など当然に後回しにされるのだ。公平性は平等という概念に近いが、そもそも、自由は平等とたびたび衝突し、相反する価値なのである。(「自由と平等の、……一方の実現が他方を制限することなしには、究極の結果がえられない」ノルベルト・ボッビオ「右と左 政治的区別の理由と意味」)

 政党の主張を国民が知るのは、メディアから
 日本の公職選挙法は、諸外国では類を見ない制度で、戸別訪問を禁止している。欧米に限らず日本以外のどこの国でもこんな制度はない。日本以外では、政治家の主張を国民に伝えるのは、運動員が人びとと出会い、直接話しをして伝える。例えば、英国では、運動員が家々を回り、自分たちの主張を伝え、有権者の賛否両論を聴く。昨日、保守党が来たかと思えば、きょうは労働党、という具合である。このやり方なら、運動員の力が重要なだけで、与党も野党も公平である。しかし日本では、法で禁止されている上に、政治を話題にすること自体を嫌う風土があり、また、あそこの家は、野党寄りなどと思われれば、何かの機会に不利益を被るのではないかという危惧もあり、決して個別訪問は歓迎されない。結局、国民に主張を伝える手段は、演説、ビラ配り、選挙カーといった、支持者以外には、うるさい、煩わしい、迷惑と思えることだけである。
 結局のところ、政党の主張を国民が知るのは、メディアからということになる。

 テレビを制する者が勝つ
 今日のメディアは、テレビ、新聞、雑誌、ネットとあるが、国民の政治的意向に最も大きな影響を与えるのは、テレビである。新聞、雑誌は、そのどれを選んで読むかは、読者の政治的意向に左右され、それはある程度固定化している。右派の産経新聞やHanada、Will,週刊新潮などを読む層が立憲や共産党支持者などとは考えられない。どこの国でも同じで、共和党支持者がニューヨーク・タイムズを読むとは考えれられない。
 しかし、テレビ視聴者は、政治的意向、意識とは無関係である。テレビは表向き、新聞や雑誌と比べ、政治的には公平な建て前をとっているので、多くの視聴者は、そのように視る。また、政治的意向は固定化していないが、ある程度政治に興味を持ち、選挙には行く層には、最大の情報源である。また、ネットニュースで流されるのは、動画として流されるテレビからのものが最も見やすく、印象が強くなってしまう。

 2009年民主党勝利はテレビが最大の貢献者
 2009年に民主党が政権を奪取したが、それは2006年に首相に就任した安倍晋三が体調不良で1年で辞職、その後の福田康夫は自信喪失で、またも1年で辞職し、最期は麻生太郎が数多くの失言・誤読で辞職と、さんざん「みっともない」ことこの上ない失態を演じたからである。その状況を写実に映し出したのがテレビである。当時のテレビのワイドショーは、連日、麻生太郎が「未曾有」を「みぞうゆう」と誤読したことを繰り返し放送していた。そのことが、3人の首相の無能さの象徴として、首相としての能力不足をさらけ出し、自民党の支持率にとどめを刺したのである。
 近年の選挙、例えば2020年の都知事選も、2021年の都議会議員選も、メディア、特にテレビでの露出度が高い者が当選する傾向が顕著である。それは、多くの有権者は、政党や候補者の政策などを知らないし、イメージだけで投票するからである。選挙演説を聴くのは、その固定的支持者がほとんどであるし、政党のパンフレットなどは同様に読まれない。政権放送も選挙公報も、ほとんどの有権者は「くそ面白くもない」と見向きもしないのが現実である。実際は、有権者の多くは、テレビを視てイメージを抱き、それによって投票するのである。
 テレビ露出度が高ければ、視聴者によって賛否両論があり、プラスマイナスがある。しかし、テレビ主演者の「好きなタレント」の上位者は、「嫌いなタレント」上位者でもあるように、テレビに露出しているからこそ、そこに入るのであり、露出していない者は、意識されない存在であり、「好きなタレント」上位には絶対に入れない。それと同じことが、政治家にも起こるのである。テレビに露出していれば、嫌う者も出るが、支持者も増えるのだ。野党が自民党総裁選の加熱報道にクレームをつけたのは、暗黙にそのことを理解しているからである。
 
 与党政治家と野党政治家のテレビ露出度は、恐らく10対1ぐらいだろう。勿論それは、与党が行政の役職についているからであり、日々行われる行政の動向を報道すれば、そのようになるのは当然のことである。いくらか公平性を保つために、僅かに野党の動向も報道する、というのが実情である。自公政権がコロナ対策に失敗し、内閣支持率が下がっても、野党の支持率が上がらないのは、そのためである。たまにしか顔を見ない人たちの政党が、どんなものなのかを知らないのは当然で、支持率など上がるはずはないのである。メディアに登場する評論家は、野党が「だらしない」からだ、というが、「だらしなく」ても、「だらしなくない」としても、知らない人たちの政党を支持することなどあり得ないのだ。
 野党の指導者がテレビに露出する場合の多くは、政府を批判するスピーチだけである。それを熱心に、あるいは肯定的に視聴するのは、野党の固定的支持者だけだろう。それ以外の視聴者には、落語に出てくる「小言幸兵衛」のようなもので、人のミスだけにうるさい人間が、いつものように相変わらず、何か文句を言っている、としか映らないだろう。テレビ局としては、それで視聴率がとれるとは思わない。「面白くない」ものは、テレビには向かないのである。


 
 政治家は見た目のイメージが大事
 上の写真は、日本共産党衆議院議員穀田恵二の赤旗開きの着物姿である。穀田は当選9回で、共産党議員としては、異例の人気を誇っている。穀田は、写真のように正月には着物を着る。議員在職25年には、西陣織の肖像画が、京都の「西陣織会館」で披露された。そういう姿は絵になる。人気はそのせいだけではないだろうが、着物を着るだけでメディアに露出することができることを示している。
 スペインのポデモス、ギリシャのシリザという新興左派連合は、短期間に支持を伸ばし、政権入りを果たした。この二つに共通するのは、既成勢力との違いを見せつけるために、他の議員たちが、男性は必ずスーツにネクタイといった服装なのに対し、ノーネクタイ、ジーンズ、セーター、Tシャツなどラフな服装で臨んだことだ。それだけでなく、ドイツのメルケルは、徹底して地味な普段着で通している。そこから、メルケルの人間性を表そうとしているのは明らかだ。どこの国の環境保護政党「緑」は、議会でも普段着着用者が多い。これらは、明らかに「見た目のイメージ」を意識していると言っていい。

 野党は、自公と違うことを見せつけるために、まずは、服装を変えろ
 テレビは面白くないものは取り上げない。絵にならないものは、取り上げない。とにかく、話題作りのためにでも、服装を変えるべきだ。ジーンズ、Tシャツ、ポロシャツ、セーター、作業服、紋付き袴、何でもいい。そうすれば、必ず、テレビは放映する。大きな批判は起こるだろう。しかし、批判が大きければ大きいほど、メディアは取り上げ、そこから必ず、新たな支持者は現れるのだ。

 国会の服装規定は、上着着用だけだ。穀田は、国会にも着物姿で通すべきだ。まさか、着物に品位がないとは言えないだろう。

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総裁選報道の問題「候補者の言いたい放題だけを伝えるのは、報道ではなく宣伝」

2021-09-23 11:25:35 | 政治
 

 自民党総裁選の報道が、テレビ、新聞とも加熱している。特にテレビは、各局とも朝から夜までワイドショー、ニュースと、4人の候補を入れ替わり立ち代わり出演させ、さながらお祭りムードを醸し出している。
 これには、野党側から報道の公正・中立に反するのではないか、という批判がなされている。衆院選や参院選には、マスメディアからこれほど大量の報道、それも候補者の主張が流されることはないからである。マスメディアによる国会議員選挙は、選挙が終わった後の結果について、特番で報道するというやり方で、選挙活動そのものについては、僅かな量しか流さない。だから、野党の主張などは片隅に置かれ、視聴者には微かにしか届かない。野党は、そのことを「公正・中立」に反すると抗議しているのである。


 この野党の抗議に対して、マスメディア側の答えが、朝日新聞9月17日の天声人語に載っている。朝日新聞は、「ライバルである自民党の露出の多さを嘆き、テレビのせいにする人がいる」と、立憲の安住淳を批判する。「国会議員の」「発言は脅しのような印象を与える」とまで言うのである。ここには、マスメディアの報道は、どうあるべきかという謙虚さは微塵も見られない。どう報道しようと勝手だ。文句があるか、とも言いたげである。

 公職選挙法が適用されない
 マスメディア、特にテレビが過熱報道する理由を村上和彦京都芸術大学客員教授 によれば(東洋経済オンライン9月7日)、テレビには、日本民間放送連盟(民放連)による「放送基準」には「政治に関しては公正な立場を守り、一党一派に偏らないように注意する」「 選挙事前運動の疑いがあるものは取り扱わない」という項目があり、「公職選挙」の際には抑制した報道をすることが通例となっているが、 自民党総裁選はその範囲外なので、そこまでの「しばり」がないからだという。
 また、「権力闘争」「人事」に視聴者の関心が集まるので、視聴率が取れるのだともいう。
 もっともな解説である。恐らくは、それに「今までの首相よりは、少しはいいことをして欲しい」という願望が加わり、テレビ・新聞の総裁選報道を見聞きするのである。
 
 これらのことから考えれば、マスメディア側は、「自民党総裁は日本国首相に直結するので、国民の関心は高い。関心が高いものを報道するのは当然だ」という理屈になり、上記の天声人語の言い分は、それを踏まえてのことだと思われる。
 確かに、「国民の関心が高いので、報道する」という理屈は、合理性がある。しかし、ここに問題が残る。それを、どのように報道するかという問題である。

 失敗した菅首相のコロナ対策を、どうするのか?
 なぜ菅首相が続投を諦めたかと言えば、コロナ対策に失敗したからである。これを疑う者はいないだろう。コロナ対策がうまくいっていれば、辞める必要はない。自民党は、菅首相を前面に立てて、選挙選に臨めばいいのである。失敗したから、「菅では勝てない」という自民党内圧力が大きくなったのである。
 それを考えれば、国民の関心は、今差し迫っているコロナ対策を、総裁選候補者はどうするのか、ということだろう。失敗した菅首相のコロナ対策をどう修正していくのか、ということである。
 宇都宮市インターパーク倉持呼吸器内科の倉持仁院長が9月19日 に、「最大の争点がコロナ対策になっていないことに唖然とし、暗澹たる思いになります」とtweetした。 まさに、そのとおりである。先進国で、病気になっても、「自宅療養」と称して、まともに治療を受けられない体制は、恐らく日本だけだろう。英国でもデルタ株の影響で陽性者が続出し、「自宅療養」者は多い。しかし、英国の場合、PCR検査が日本の数倍行われているので、無症状の陽性者が大量に発見され、症状を呈さない者が「自宅療養」者とされているのである。要するに、自宅でぴんぴんしているので、治療の用なし、という者が多いのである。
 マスメディアが、「国民の関心が高いから」総裁選を報道するというのなら、この差し迫った問題をどうするのか、各候補者に問いただすべきだろう。「自宅療養」者をどうするのか、問いただすべきだろう。

「総裁選の報道」ではなく、「総裁選の宣伝」
 しかし、実際の総裁選報道は、各候補者の言いたい放題を伝えているだけである。NHKのサイトを見ても、「争点・主張」とあるが、ただ4人が言っていることを並べているだけである。NHK側の質問などどこにもない。「自宅療養」者をどうするのかなど、どこにもないのである。要するに、候補者の選挙演説をそのまま流しているだけなのである。何のことはない、テレビが、選挙演説会場になっているだけである。
 候補者の4人が、マスメディア側から実現性など一切問われることなく、言いたい放題を流す。それは、「総裁選の報道」ではなく、「総裁選の宣伝」である。
 
 しかし、日本のマスメディアが、カネと権力になびくのは、今始まったことではない。2008年の自民党総裁も同様で、日本共産党がNHKに異常な報道を是正すべきと申し入れを行うなど、自民党に優しく、野党に厳しい報道は、以前から行われている。それは、野党が抗議をしたから是正される、というようなものではないのである。それは、マスメディアが置かれている状況がそうさせるからである。マスメディアは、広告主の機嫌を損ねるわけにはいかないし、権力の嫌がらせも受けたくはない。また、視聴率と購買部数を上げるのは至上命令である。
 では、野党はどうしたらいいのか? それを上記の天声人語は、(報道は)「野党の低迷を写し出す鏡」であり、「政策を磨き、人びとの声をすくい上げること」が必要だと書いている。しかし、どんなに「政策を磨き、人びとの声をすくい上げ」ても、それを伝えるのは、現状では、マスメディアである。
 アメリカのメディアコントロールを批判したノーム・チョムスキーは、メディアを批判はするが、人びとが世界で何が起きているのかを知るのは、やはりメディアからだと言う。SNSがどんなに発展しようとも、もともとの情報の出どころはメディアであり、それを人びとが、ああだこうだと発信するのである。
 野党は、どんなに抗議しようとマスメディアを変えることはできない。であるならば、野党の考えるべきは、そのマスメディアにどうやって自分たちの姿を報道させるのか、そこなのである。野党には、その努力があまりにも欠けているのだ。文句を言うだけでは、前進はしないのである。
 
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新総裁の正体がばれるまで、最低3か月かかるので、自民党は総選挙に勝てる?

2021-09-10 10:25:51 | 政治

 菅首相の、突然の総裁選不出馬発言で、自民党内は喜々とした空気に包まれている。何しろ、内閣支持率は低下する一方で、このままでは、自民党は衆院選の議席数をどこまで失うか分からない、という状況だったのだ。そこに、不人気の元凶が、自分から辞めてくれるというのだ。直前までやる気満々だったのが、「ぎゃあぎゃあ言うなら、辞めてやる」とばかりに、衆院選以降の首相の椅子を投げ出したのだ。特に衆院選の当落線上の自民党候補にとっては、これほど喜ばしいことはない。それは次の総裁は誰でも、「不人気の元凶」より評判が下がることはない、という思いからである。
 
 さっそくメディアは、自民党の党内事情に過ぎない総裁選を、競馬の勝ち馬予想のように、面白おかしく書き立てる。今まで不人気政策を実行してきた首相を支えてきた面々にもかかわらず、各々の個性を強調し、あたかも菅政権とはまったく異なることを考えを持っている人物のように描いている。

 基本的な政策は新自由主義で皆同じ
 菅内閣の不人気の原因が、コロナ対策に失敗したことが最大の要因であることに異論は見られない。すべてが「後手後手」に回ってことは、自民党支持者でも認めざるを得ないだろう。では、なぜ対策が「後手後手」に回ってしまうのかについては、多くの意見は、菅政権が「無能」だからというものである。しかし、「無能」であるとは、効果的な対策を打てないことを単に意味しているだけで、なぜ、効果的な対策を打てないのかの説明にはならない。中国を含め、諸外国で実行された対策が、日本では、なぜ選択されないのか? それは、自民党が一時的にも新自由主義を放棄できず、その政策を強力に推し進めているからである。

 諸外国で実行されたコロナ対策は、①感染予防のための行動規制 ②陽性者を早期発見するためのPCR検査の拡充 ③医療体制の強化 ④ワクチンの早期接種である。勿論、これはWHOの指針とも合致しており、世界標準とも言える。これに真っ向から反対したのは、世界的には、アメリカのトランプ、ブラジルのボルソナロ、ベラルーシのルカシェンコぐらいが目立ったが、実際には日本政府も、この同類だった。(ワクチンについては、日本も遅ればせながら、今年になって接種に力を入れた。)
 これらの対策の実行を阻害するのが、新自由主義なのである。

 地理経済学者のデヴィッド・ハーヴェイは著書「新自由主義」で、新自由主義を端的に表している。それは、「何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で、個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約的に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である」。これは、国家の政策として「個々人の企業活動の自由とその能力」を最大限引き出すことが最優先されるということでもある。つまり、この方針に反するものは、排除ないし、優先順位は大きく下がるということである。その排除するか優先順位が下がるものに該当するのが、上記のコロナ対策なのである。

 日本政府だけが、新自由主義から離れることができず、「生命よりも経済」を優先した
 ①の行動規制が新自由主義に反するのは、最も分かりやすい。個人の行動規制は経済活動を抑制し、「個々人の企業活動の自由」を制限して実行される。もとより、新自由主義の理念が、個人の自由を重視する「自由主義」に忠実なフリードリヒ・ハイエクなどから発展したことからも理解できるように、個人の行動のいかなる規制も、原則は「悪」として認識されるのである。(日本の場合、所謂「リベラル勢力」も、個人の自由を絶対視しているので、行動規制には反対している。)
 ②と③は、公的部門を「企業活動」に開放するという新自由主義の視点から、公的医療体制の民営化を推進してきたことに起因する(保健所の削減、公的病院の病床削減が数十年実行されている)。②は、一般にPCR検査は行政行為として行なわれ(日本では行政検査と呼ぶ)、そのためには、公的医療施設と人員の拡充が必要で、それは新自由主義に反する。③も、一般にコロナ治療をするためには大規模の公的病院・施設が必要だが、日本には公的施設が2割しか存在せず、現状では収容能力が不足しているので、医療スタッフを含め、公的施設が必要だが、それも②と同様に、新自由主義に反する。
 ④のワクチンについては、その必要性の認識が遅れたためである。欧米が、ワクチンの確保に動き出した2020年の夏に、日本政府はGoToキャンペーンを実施しているのである。これも、企業活動を後押しすることが最優先される新自由主義の表れである。
 
 新自由主義は、日本に限らず世界中で進行中の政策である。しかし、コロナ危機においては多くの国では、スラヴォイ・ジジェクが「今は、誰もが社会主義者のようだ」と言ったように、規制を強め、医療体制を拡充し、国民に対する公的救済措置を講じることで、新自由主義を一時停止したのである。企業(資本)の後押し政策優先を一時的に停止し、経済が麻痺したとしても、人々の生命と健康を優先したのである。しかし、日本政府だけが、新自由主義から離れることができず、「生命よりも経済」を優先したのである。
 
 この新自由主義に忠実な安倍・菅政権を支えてきたのが、自民党総裁選候補者たちである。
 最近になって、その一人、岸田文雄は、「小泉改革以降の新自由主義的政策を転換する」(毎日新聞9月8日)と言い出した。新自由主義政策の結果である「格差」を問題視し、具体的には、「高所得者層への課税適正化や企業に賃上げを促すための税制優遇策」や「 子育て世帯の負担を軽くするための住居・教育費支援の拡充や、医療・介護・保育にかかわる人の所得向上 」に取り組むと述べた、という。
 一見、近年の自民党政治の転換のようにも見える。
 岸田には常に「決められない人」という人物評がつきまとうが、2020年、初めての著書「岸田ビジョン 分断から協調へ」を出した時に、 東京工業大・中島岳志 は岸田を評して「スタンスやビジョンが一定せず、権力者の顔色をうかがう風見鶏だ」 と言った(東京新聞2020年9月12日)。この岸田に対する評価は的を射ていると言うべきだ。岸田は、安倍政権の森友問題について、9月2日に「国民が納得するまで説明を続ける」 と強調したのだが、7日には「再調査等は考えていない」と言ったのだ。まさに、「スタンスやビジョンが一定せず、権力者の顔色をうかがう風見鶏」という言葉にぴったりな豹変ぶりである。
 風見鶏の岸田が「新自由主義的政策を転換する」と言ったのは、単に「受け狙い」なのか、新自由主義をまったく理解していないか、どちらかであるが、恐らく両方だと思われる。「新自由主義的政策を転換する」とは、全面的な自民党の方針転換になるからだ。安倍をはじめ自民党内有力勢力は、そんなことを許すことはあり得ない。もし、岸田が本気ならば、社民党か共産党に行くべきなのだ。

 なぜ日本だけが、コロナ危機においても新自由主義から離れられないのか、という疑問が湧くが、その答えは、新自由主義に抵抗する勢力、つまり左派が著しく弱いからである。例を挙げれば、アメリカのバイデン大統領は、2022年度会計年度に、大規模な社会保障制度の発足、気候変動対策への大規模投資 、雇用確保、無償教育の拡大を中心とした6兆ドルの予算案を提示した。さらに、これには、企業やキャピタルゲイン、富裕層への増税 も含む。これには、上院共和党幹部のミッチ・マコネル院内総務は「社会主義者の白昼夢」(英BBC)のようだと批判したが、それはこの方向性が新自由主義からの転換になるからだ。この予算案を民主党左派のバーニー・サンダースは「労働者階級の勝利」(サンダースtwitter)と評したとおり、バイデンが党内左派に押されてのことである。アメリカでは、既に、左派(いくらか中道寄りだとしても)が政権内に存在するのである。だから、このような予算案が提示されるのである。日本は、自公、維新の「明白な」右派が圧倒的に強く、それにメディアも強く影響を受けるので、アメリカのような方向性を示すことは不可能なのである。

 正体がばれるまで、最低3か月かかる
 傲慢な河野太郎であれ、優柔不断な岸田であれ、極右の高市早苗であれ、誰が総裁となっても、新自由主義を邁進するのは変わらない。新自由主義の邁進は、コロナ危機にあっては、特に国民生活を破壊する。例えば、新総裁に誰がなっても、感染収束がまったく見えていない状況でも、感染拡大を生むだけで、経済効果が疑わしい、GoToキャンペーンなど「経済優先」政策を打ち出すだろう。
 1年前の菅政権発足時は、内閣の支持率62%もあった。新首相に、「何か、いいことをしてくれるだろう」と期待するからである。それが、3か月後には、支持率と不支持率が同率となった。「いいこと」がなさそうだと分かるのに、3か月かかった、ということである。恐らく、今回も同じことが起こる。新首相の正体がばれるまで、最低3か月はかかる、それを繰り返す。日本では、この循環が何度も繰り返されるのである。それが、日本の「現代史」である。
 
 


 
 
 
 
 
 

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アフガニスタン 西側メディアのフェイク報道 

2021-09-04 09:39:47 | 政治
 

 アフガニスタンから脱出を望む多くの住民は内戦が原因
  
 西側メディアは、タリバンの権力掌握後、アフガニスタンから脱出を試みる人びとの報道を続けている。英BBCも米CNNも、カブール空港の大混乱や陸路、隣国パキスタンなどへ出国を待つ人びとの映像を流し続けている。あたかもアフガニスタンからの脱出する人びとは、タリバンの権力掌握後に発生しているかのように見える。しかし、それは本当なのだろうか?
 
 国連のUNHCRによれば、2020年の時点で、アフガン難民は290万人以上であり、逃避先としては、最も多くがパキスタンで150万人、次がイランで80万人以上に上っているという。世界中の難民数で、シリアに次いで多いのがアフガン難民なのである。UNHCRは「40年間の紛争が生んだアフガン難民」という言葉を使い、 その主な原因は、1979年のソ連の軍事進攻以来の内戦だとはっきりと言明している。それはタリバンの圧政以前に、ソ連による軍事進攻から大量に発生し、ソ連軍対イスラムゲリラ、北部同盟など軍閥対イスラムゲリラ、イスラムジハード主義者どうしの戦闘、米軍対イスラムゲリラなどの内戦によるものなのである。軍事衝突によって、巻き添えで殺され、家を焼かれ、住居も食料も失った多くの住民の生存の危機が多くの難民を生み出しているのである。
 
 バイデンの米軍撤退の決断に対して批判が巻き起こったが、その中で、最悪なのは「『最も長い戦争』を終わらせるという愚かな政治的スローガン 」という言葉を使ったトニー・ブレアのものだろう。虚偽の証拠に基づきイラク戦争を始めたこの元英国首相は、自分の過ちを反省するどころか、愚論を繰り返し主張している。ブレアは「アフガニスタンとその国民を見捨てることは 悲劇的」で、「イギリスとアメリカには、退避の必要があるすべての人が安全に国外に脱出するまで、アフガニスタンに留まる 」べきだと主張した。この愚かな政治家は、「退避の必要があるすべて人」がタリバンの復権以前に、数百万人もいた事実を完全に無視しているのだ。ブレアにとっては、アフガニスタン住民など「人」ではないかのようだ。また、このブレアの主張は外国の軍隊が領土内に存在することが、タリバンやその他のイスラムジハード主義者にとっての攻撃対象となり、軍事衝突によって命と生活が脅かされる人びとがいるという現実も完全に無視している。8月29日に米軍の攻撃で9人もの民間人が巻き添えで死んだことが、その象徴的な出来事だ。
 
 英BBCや米CNNが、タリバンの復権後に脱出を試みる人びとだけを報道することは、ブレアの主張を後押しすることになるのは明らかだ。視聴者は、40年間にわたりアフガン難民がいた事実を忘れ、タリバンの圧政だけが問題だと誤解する。そのことは、多くの視聴者が、タリバンの圧政に対抗する軍事介入を正当だと考える、その材料になるのだ。
 
 確かに、タリバンの圧政に逃げ出す多くの人びとがいることは事実だ。しかし、それ以前に数百万人の難民が存在することも事実なのである。そのどちらかしか報道しなければ、真実からはほど遠い。まさに、Fake虚報なのである。

 2003年の国連演説で、フランス外相のドミニク・ド・ヴィルパンは、アメリカのイラクへの軍事介入に「戦争と占領と蛮行を経験した古い国」だからこそ反対すると言った。その中で、「軍事介入は、すでに傷つき脆弱なこの地域の安定に、計り知れない深刻な結果をもたらすだろう。不正義に対する感情を増幅し、緊張を深刻化させ、さらなる紛争の引き金になりかねない。 」とも言っている。この言葉は、当然イラクにもアフガニスタンにも当てはまる。この演説に、国連議場内は総立ちで拍手が起きたのだが、ブレアも西側メディアも、100%そのことを忘れているのだ。
 
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「アフガニスタン 西側政府とメディアは、戦争は間違いだったと、いつ認めるのだろう?」

2021-08-27 12:27:46 | 政治
 
奪取した米軍の装備で、米兵が硫黄島に星条旗を立てたことを真似るタリバン兵

 タリバンがカブールを掌握して、10日以上が経過した。カブール空港とその周辺では、タリバンの迫害・報復を恐れ、脱出を望む多くの市民で混乱している。西側政府は、自国民と協力者のアフガニスタン人の救出に全力を注いでいる。日本政府も自衛隊機を飛ばすなど救出に懸命になっている。
 この差し迫った救出劇は、バイデン大統領がタリバン側と約束した米軍撤退期限8月31日を延長しないことを表明したため、さらに困難を極めることになった。バイデンの決定は、タリバンとの約束を守らないことがタリバン側の強硬姿勢を強めることになり、今にもまして危険な状況に陥るという判断によるものだ。
 その最中、26日にカブール空港付近でISとみられる自爆攻撃があり、CNNによれば、アフガニスタン人60名以上、米兵12名以上が死亡した。タリバンのカブール掌握以降、西側メディアの記事は、危機的な退避状況、タリバン掌握後のカブール市内の変化などを主に報道してきた。この攻撃は、アフガニスタンの危機的状況を象徴するものとして、さらに懸念を強めることになり、報道もそれを強調するものになるだろう。
 そしてこの「懸念」は、中国・ロシアがアフガニスタンへの影響力を強めることなどを含めて、概ね西側政府の意向を反映している。確かにこの「懸念」は、ISなどタリバンと敵対するイスラム主義者が勢いを増す可能性もあり、もっともなものだ。しかし、西側政府もメディアも、これら「懸念」を全面に出すことで、最も肝心なアフガニスタンに対する軍事介入の是非を論じることを避けている。何がこの危機的状況を生み出したのか、その議論を避けている。
 そのようなメディアの報道姿勢の中で、西側主要メディアの一つ、英紙ガーディアンは、次のようなオピニオンコラムを載せている。


 
 「誰が、アフガニスタンのカオスに責任があるのか? 戦争のチアリーダー(応援団)を覚えておこう」というものだ。
 このオピニオンには、以下のような内容が書かれている。
〇英米メディアは、現実的な目的や出口戦略なしで開始し、アフガニスタン人の生活も権利も顧みなかったたブッシュやブレアの責任を問わない。
〇対テロ戦争の悲惨さを考える上で、メディアが果たし「チアリーダー」としての役割を含める必要がある。
〇戦争に反対する者を、英米のメディアは攻撃的に批判し、(例えば、英紙テレグラフは、反対者をオサマ・ビンラディンの手先としてリストを掲載した。)、批判された者は殺害の脅迫まで受けた。
〇(英BBCも含め)メディアの中で、サダム・フセインが大量破壊兵器を所持していると主張し、侵略を正当化した嘘に異議を唱える試みは、愛国的な興奮にかき消された。
〇その理由について、メディアは(血が飛び散るような)スペクタクルを好み、戦争ほどそれに適したものはない。
〇また英国の場合、長い間、国の利益は金持ちの利益と混同され、金持ちの利益は植民地の略奪品とそれを供給した軍事行動に依存してたことがある。 
〇メディアは、民間人が虐殺され、占領軍によって(支援した政府高官の)汚職が許可されている現実(100%アフガニスタンに当てはまる)を軽視。
〇 女性の権利の擁護を今問題にするが、開戦したブッシュはそれに反する超保守主義者・宗教原理主義に支援されていた。
〇戦争に反対する者は、狂信者としてマークされ 、「過激派」とされた。肯定する者は「穏健」・「中道」と見做された。
〇以上のことが、忘れ去られている。
 
 実際に、西側主要メディアは、戦争に関しては、このオピニオンに書かれているとおりである。それは、「リベラル」なニューヨーク・タイムズもワシントン・ポストも、アメリカの戦争に反対したことなどなかったことでも分かる。日本のメディアは、国際問題はほとんど海外メディアの受け流しなので、概ね、西側メディアの一員と言っていい。
 しかし、高級紙として知られるガーディアンに、このようなコラムが載ることは、メディアの変化である。それは恐らく、第二次世界大戦後のアメリカの戦争がすべて、多大な犠牲を払いながらも敗北するか、悲惨な状況を引き起こしだけに終わっている現実があるからだろう。それは、アメリカにもベトナムにも犠牲だけが多大で、惨めな敗北を喫したベトナム戦争も、国家の行政機構を破壊し、ISなど強硬なイスラム復古主義者に「活躍の場」を与えたイラク戦争などでも明らかだ。アフガニスタンもそれらと同様に、アフガニスタン人とっても、アメリカ人にとっても、すべての人びとにとっても、何もいいことがなく終わるという結末を迎えたのだ。そのことに、西側メディアもやっと気づき始めているのだ。
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