


「従業員3000人、素晴らしいですネ、これを一人で築くとは。立派の一言です」。
「いやいや、恥ずかしい。ちっともそんなことはありません。社員の皆さんが、私の3倍、働いてくれたおかげです。そして、応援をしてくれた多くのお客様のおかげだと思っています。私の力ではありません」。
「大学は、どちらを出られましたか?」。
「出てないです」。
「高卒ですか?」。
「人生は、学歴ではないと思う。情熱だよ、やる気だよ」。
「社長は、普通の高校ではなかったでしょ」。
「普通の高校です」。
「いや、社長は、いつ会っても、腰が低いじゃないですか。低姿勢高校(定時制高校)でしょう」。
彼は、高校3年間、勉強など、殆どしていない。毎日、喧嘩、喧嘩に明け暮れている。今でも、骨太の83Kgと言う、立派な体。負け知らずだった。カバンを持って高校に行った記憶がないと言う。毎朝、弟分が家まで来て、カバンを持って行ってくれたとのこと。3年間で、4回も、停学をくらっている。その社長さんが、50歳になって、同級生を集めて同窓会を開いた。発起人がその社長さんだった。
・・・これから、恩師の先生方がぞくぞくと入場する。その前に、発起人だから、一言だけ、この話をさせてもらいたい。私は、高校時代、喧嘩しかやらなかった男だった。今日は、あの時に殴った人も、沢山この会場に来てもらっているから、後で、一人一人に誤りに行くけれども・・・。
卒業式のちょっと前、校長先生に、校長室に呼ばれた。あのハゲチャビンに。あの時、俺は、思った。
「このハゲチャビンが、卒業式の前に、俺一人を校長室に呼んだかと。いい度胸をしているハゲチャビンじゃのお。今日は、サシで勝負じゃ。とことんくるわすど」と。校長室のとびらをガラガラと開けたら、「開けたとびらは、ちゃんと閉めにゃいかん」と言われた。
「ようし、閉めた方がなぐりやすいが」。閉め終わったら、「君には、悪いが、この校長室のカ-テンを全部閉めてくれ」。
「よ-し、とことんやる気でおるな」。カ-テンを閉めながら、
「60を過ぎた老いぼれじいさんやらよ、先に1発を殴らせてやるから、そのお返しに、10発まとめてお返しをするでね」。ポケットに手を突っこんだまま、奥歯に力を入れて、
「やってみらんか、ハゲチャビンが」と言わんばかりに、顔を前に突き出したら、校長先生が、「今、君の前に立っている男はネ、校長じゃない。一人の男だと思って話を聞いてくれ。この3年間、いろんなことを、君は、一生懸命やってくれた。先生方は、君の事で頭をかかえとったが、私は、違った。私は、君の事を評価しとった。この男は、凄い男だと。この誰にも負けない体力、こりゃ、日本一の体力を持っている男だと。この燃える様な情熱も素晴らしい。じゃが、今は、たまたま、この体力と情熱が、暴力の方に走っとるだけじゃと、私は、いつも、そう、思っとった。明日から君は、社会人だ。社会に出たら、君のその体力と情熱を暴力なんかに使ってもらいたくはない。君のその体力と情熱があれば、君だったら、どんな苦しいことがあろうが、必ず乗り越える事が出来るはずだ。この学年で、いや、この学校で、一番出世をする男は、君しかおらんと私は、信じとるぞ。頑張れ、さあ、卒業式に行こう」。話は、それだけだった。
(卒業してから、この社長さんには、どうしよもない困難が待っていた。その度に、頭を寄切ったのは、校長先生の言葉だった)。「君のその体力と情熱があるんだったら、君だったら、どんな苦しいことがあろうが、必ず、乗り越えることが出来るはすだ。頑張れ、キバレよ、君は」。その校長先生の言葉が、いつもいつも、人生の応援歌となって、私を後押ししてくれた。だから、私は、一代で、こんな大きい会社を作ることが出来ました。永い間、校長先生を捜していた。一言、お礼が言いたかった。やっと見つかりました。89歳で、御健在だったんだよ、みんな。
そう言ったら、それを聞いた同級生は、「オイも言われた」「オイも言われた」「オイも」「オイも」「オイも」と、皆、手が上がり、早い人は、入学して、10月の初めに、もう、校長室に呼ばれていて、一番最後が、そのどうしようもない、番長だった。だから卒業式のちょっと前になっていた。
しかし、同級生は、「素晴らしい校長先生じゃっど、オイ、大きな拍手で迎えっど」と、同窓会は、盛りに盛り上がった。
希望を語る言葉は、こんなにも人間を伸ばす力がある。どんな時代になろうが、常に心を積極的に持って行って、日々感謝歓喜に満ち溢れる気持ちで、常に自分自身に、勇気と希望の沸く言葉をどんどん見つけると、人生に素晴らしい出会いが待っている。

もう30年近く(正確には、半世紀近くとなるが)、私は病気をしていない。
特にこの12年間は、「徹子の部屋」という毎日のテレビ番組を持っていて、更にその前に、3年間の、これも毎日のナマ放送の司会をしていたから、合計で15年間、毎日テレビに出ていることになる。
その間、だたの一日も病気で休んだことがないというのは、自分でも(他に、自慢出来ることなどないけれど、なかなかのものだ!)と思ったりしている。
私は、30年前の「あの日」から病気をしなくなった。
私は、NHKで、テレビの為の養成を受け、NHKの専属のテレビ女優として、この世界に入った。初めの頃は、「お前の個性は邪魔だ!」と言われて、ずいぶん悩んだ時期があった。
個性が邪魔と言われても、若い私には、自分の個性がどういうものなのかもわからず、ただオロオロとスタジオの隅で過ごした。
「もう、帰ってもいいです!」と降ろされて、一人だけ、スタジオの外の廊下で、同級生の俳優たちの終わるのを、本を読みながら、待っていたことも、しょっちゅうだった。
その内、世の中が、突然、「個性の時代!」に入った。とたんに、みんな、「さあ、貴女の個性を出して下さい!」と言い、仕事は次から次と押し寄せた。
私は、途方に暮れた(出しなさい、って言われてるものが何なのか、わからない!)。それでも、私は、皆の言う通りに、一生懸命にやった。
寝る時間は、殆どなくなった。
ある日、私は、「過労」と診断され、その日の内に入院ということになった。
どの番組のディレクタ-も、「自分のだけは、休まないで」と言った。でも、お医者様は、「死ぬよ」と言った。
私は、仕方なく、全部のテレビとラジオのレギュラ-番組を休んで入院した。先生が、テレビを部屋に入れて下さった。
当時は、全ての番組がナマ放送だったから、私は、私がいないとどんなことになるかしら、と心配しながら自分の番組を見た。
私が司会をしていた番組に、私の知らない女の人が出て来て言った。 「さあ、今日から、当分、黒柳さんの代わりに私がやります。さあ、始めましょう!」。それだけだった。
私が、渥美清さんと夫婦をしているドラマでは、隣の奥さんの役の人が、渥美さんに聞いた。
「奥さん、どうしました?」。渥美さんが、答える。「実家に行っています!」。そして、ドラマは、私なしに、どんどん進んで行った。
他のものも、似たりよったりだった。
私は、ブラウン管を見つめながら、考えた。 「・・・実家に行ってます」---この言葉が、耳から離れなかった。
1カ月後に、病院を出る時、私は、はっきりとした考えを持っていた。
一つは、もう、絶対に病気をしないこと!。
もう一つは、自分しかやれない仕事をなんとか見つけよう!。
私は、先生に聞いた。
「死ぬまで、病気をしないのは、どうやるんですか?」
先生は、笑って、「生まれて、初めての質問だな」と言ってから、こう言った。
「一つしかない。自分の好きなことだけ、やるんだな。自分が進んでやろうとする時には、どんなに疲れていても、寝れば、治る。いやだいやだと思いながらやっていると、疲れは寝ても取れない。やれるかい?」
名医と言われる先生のお言葉だった。
私は、そうしようと、心に決めた。
あの1カ月は、私に、人と自分を比べることの愚かしさ、命の大切さ、いつも自分らしくあること、なども、しっかりと教えてくれた。
人生の入り口にボンヤリ立っていた若い私には、こんな当たり前のことでも、早く教わったのは、有り難かった。
あの退院の日に、私は、少し、大人になった。
*ある人の話では、黒柳徹子さん、玄関に入ってから、応接室で話をして、その用事が終わって、玄関のドアを閉めるその直前まで、ズ-ッと、途絶えることなく、話をされるとのことです。