日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

旅日記(大江天主堂・崎津天主堂4/4)

2008-12-15 17:03:10 | Weblog
 「天草ロザリオ館」で興味ある話を知って、南蛮文化における河浦町の存在の大きさを初めて知った。そこから、タクシーで宿泊場所の「愛夢里(あむり)」に行った。2日前までに予約となっていて、突然に申し込んだのでもうダメかなと思っていたのだが、不思議にOKだったのだ。満室状態で、階段を上がっての一戸建てしか空いてないとのことで、喜んでそこにしてもらった。家族風呂も予約して、2人で1泊2食付きで、1万7000円だった。部屋は、2階もあって、自炊も出来るし、電子レンジも付いていて、家内も大満足だった。
 夜は、真央ちゃんの3回転半を2回も成功させて優勝したのを見て、いい感じで、安らかに眠りに就けた。
 翌日(14日、日曜日)は、「愛夢里」から少し歩いて、一町田中央から10:30のバスに乗り、11:28に本渡のバスセンターに着き、前回同様に「やまと屋」で又昼食を摂り、13:00から、映画を見た。涙が出た。映画の名前は、「おくりびと」。山崎努、役者ピッタリって感じだったなあ。チェロの音色、いいなあ。きつい仕事であればある程、それに耐える為には、息抜きの趣味を持つことが大切だなあ。
 映画を見終わってから、ポルトに行き、その後スーパーで買い物をして、喫茶店で家内と取るに足らない話をお互いにして、16:55のバスに乗り、10:38に、上天草病院前にやっと着いた。直ぐに病棟に行き、気になっていた子どもを診察して、夕食を摂った。
 今年は、これで旅行は終わりだ(12月は、15日からは23日以外は、毎日勤務)。この12月の2回の天草旅行で、エネルギーがバッチリと充電された感じだ。来年の4月の第3金土日には、是非、「牛深ハイヤー踊り」を見に行きたいなあ。天草は、広いなあ、そして見る所、多過ぎる。
 車は、もう、持つ気はないし、結局、自分の自動車免許証は、殆ど役立たずだった。再来年に、返上しよう。まあ、人生、こんなこともあっていいだろう。しかし、タクシーと違って、バスだと、より安全だし、ゆっくりと景色が眺められるし、それに、経費もかからなくて良かったかな。それに、長い距離でも、i-Podをしばしば聴いていて、モーツアルトさんから充分に楽しませてもらったかな。
 人生は、いつまでも「カキクケコ」、「感動」・「緊張」・「くつろぎ」・「継続」、そして、「好奇心」だ!

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旅日記(大江天主堂・崎津天主堂3/4)

2008-12-15 17:00:31 | Weblog
 「チャペルの鐘の展望公園」でいい思いをして、崎津天主堂に再び行って、写真を撮った。その後、タクシーを利用して、「天草コレジヨ館」に行った。
 そもそもコレジヨって何かなあと思っていたら、これは、ポルトガル語で、英語のCollegeに当たるとのこと。正確には、「Collegio Amacusa」と、ポルトガル語で書く。
 日本に初めてキリスト教が伝えられたのは、1549年、スペイン人イエズス会士のフランシスコ・ザビエルにより、ローマ・カトリック教が伝えられている。
 天草にキリスト教が伝えられたのは、1566年で、ポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによる。苓北町の壱岐を訪れ、キリスト教の布教が始まっている。当時、天草島民の7割近くがキリスト教の洗礼を受けている。又、その2年後の1568年には、日本布教長コスモ・デ・トルレスが志岐を訪れて、「全国宣教師会議」が開催されている。
 アルメイダと言えば、大分市には、医師会立病院であるアルメイダ病院があるが、そのアルメイダである。崎津天主堂のあるこの河浦町に、天草コレジヨが誘致され、1591~1597に天草学校とイエズス会本部が設置されたのである。この時、天正少年遣欧使節団としてローマ法王に会った4人(千々石ちじわミゲル・伊藤マンショ・中浦ジュリアン・原マルチノ)も入校したのである。
 創建中心人物は、日本イエズス会のアレハンドロ・ヴァリニアーノ(イタリア人)で、巡察師の職名を帯びて来日したイエズス会の司祭で最高指導監督者者であった。20歳足らずの若き少年使節団は、1582年長崎を出航し、長旅の後にローマ法王に会い、8年後の1590年に帰国している。その時に、日本にグーテンベルク式活版印刷機や西洋楽器が持ち込まれ、しかも、4人の内の1人により、秀吉の前で演奏もし、秀吉によりアンコールが2回もあっている。
 しかし、出航した時代の織田信長と違って、豊臣秀吉の時代には、キリスト教を認めなかった為に、彼ら4人はその後それなりに迫害されることとなる。
 このコレジヨ、初めは府内(大分)にあり、秀吉の監視を逃れる為に、密かに場所を8回も変え、7番目がこの河浦町となっている。
 その後、1637年に、上天草市大矢野町出身の若き天草四郎時貞(天草二郎と言う歌手がデビューしていますが)が「天草・島原の乱」で、現れることになる。
 「天草ロザリオ館」では、20分間の映画があり、又、知らなかったことを30分程も掛けて詳細に教えて頂いた。
 つまり、大江天主堂も崎津天主堂も、天草四郎とは関係ない感じで建設され、又、それも1年ずれて2つが建設され、(建物の感じが、ロマネスクとゴシックで全く違うのに)それを設計した建築家は、同じ日本人となっている。
 現在、大江地区に300人、崎津地区に200人のキリスト教の聖徒がいるとのことでした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80



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旅日記(大江天主堂・崎津天主堂2/4)

2008-12-15 11:25:09 | Weblog
 「チャペルの鐘の展望公園」に上がる途中に、何と、桜が咲いていた。時にこんな感じで咲くらしいのだが。この坂が又、急だった。さすがに、人陰がない。登る時に、ちょっとあっただけだった。しかし、いい景色で、満足。そして、頂上からのパノラマは、正に、絶景だった。素晴らしい、実に素晴らしい。

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旅日記(大江天主堂・崎津天主堂1/4)

2008-12-15 10:54:47 | Weblog
 前の週は、下田温泉に行った。今週は、行きそびれた大江天主堂と崎津天主堂に、土日(12月13日と14日)を利用して行った。
 気になっていた生後1カ月の入院の女児(細気管支炎)を、13日の早朝7時前に診察した(朝早くの診察は、前もって連絡していた)。調子がいいので(経過がとてもいいことを確認できたので)、行くことにした(その後は、電話で連絡を取って病棟と確認していったが)。
 例の如くに再び、朝7:35のバスで上天草総合病院前を出発した。少し曇り空であったが、朝の景色は、新鮮だった。いつもの様に、途中で、教良木(きょうらぎ)診療所前、天草市立栖本病院前に停まる。ここで、乗り降りがよくある。医療機関を利用するのに、田舎では、バスは欠かせない。しかし、これでは、完全に不採算だなあ。乗る人は、いつも、自分(と家内)を入れても、数人。栖本病院のシンボルの太鼓を笛を見て、いつも、嬉しくなる。
 9:06に本渡のバスセンターに着き、9:20出発の牛深行きに乗った。まだ、満開ではないが、長い「サザンカロード」がとても綺麗だった。10:18に一町田中央で降りた。大江天主堂に行く為に、富岡行きのバスに10:25に乗る。天草では、バスは、ほぼ常に時間通りに来る感じだ。崎津を通って、10:56に大江天主堂前で降りた。有名な所とあってか、観光客が多い。
 近くの丘の上に大江天主堂が見える。階段を上がっていかなければいけない。そこに行く前に、その麓にある「まちのおもちゃ箱」と「天草ロザリオ館」に行った。「まちのおもちゃ箱」では、例の「五足の靴」で有名な5人が、大江天主堂のガルニエ神父に会ったと言うことで、大きく紹介されていた。又、「天草ロザリオ館」では、映画を20分ほど見た後に、そこの館長さんから30分近く説明を詳しく聞くことが出来た。
 で、それから階段を上がって「大江天主堂」に行った。入り口の左に、ガルニエ神父の像があった。天主堂の中は森閑としていて、写真も厳禁で、コンパクトではあるが、極めて神聖な感じに思えた。観光客が途切れることなく来ている感じであった。
 その後、その麓にあるレストランで、皿うどん(これが又美味しかった)を食べて、(後戻る感じで)バスで崎津天主堂に行った。崎津天主堂では、ちょうどクリスマスの飾り物を天主堂の外と中に付ける最中で、地域の人達が忙しそうだった。
 曇り空で、時々小雨で、この日は、天気には恵まれなかった(前の週と同じで、土曜日には、曇り空で時に小雨、日曜は晴れ)。
 が、崎津天主堂の近くにある、「チャペルの鐘の展望公園」に行った。これが、予想外で、実に実に素晴らしかった。


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