「退職後の雑感、頑張りました」
(以下は、2.007年2月12日に、記載した内容ですが、少し、修正して再掲していますが・・・→)
私の場合は、特殊な感じがしていますが・・・?!
新婚旅行は、普通車で高千穂に行き、臼杵で終わりました。(←自宅に、立派な車庫があるのに、自家用車なしで今まで来ていますが・・・)
初め就職した宮崎県立宮崎病院では、当時、まだ、宮崎医科大学がオープンしてなかったので、宮崎県で一番大きな病院で、宮崎各地からの紹介もあり、超忙しかったです。宮崎市の小児科開業医が入院設備を持っていない関係で、いつも新生児を含む85床程のベッドが満床に近い状態で、ベッドを開けるのに苦労していました。
それを、小児科医、部長以下、6名でしていましたが、その内の3名は、私を含めての研修医でした。勤務して、1ヵ月で、時間外の救急に関わり、新生児・未熟児は、上下関係なく、順番に主治医になることが多く、又、1年もせずして、白血病や心疾患も、受け持っていました。
病棟の患者の急変は、主治医の担当で、深夜でも遠慮なく呼ばれていました。又、5日に1日は、夜の救急で拘束されていました。
当時のナースに偶然に会った時、「先生、あの時の県病は、凄まじかったですネ、もう、あんな忙しいことはありませんが・・・」と言われました。
その後、宮崎医科大学の診療が始まる時に合わせて、(卒後1年4ヵ月で文部教官の身分で)大学に行きました。教授1人、助教授1人、講師1人、助手(私を含めて)4名。わずか7名のスタッフ(それ以外、なし)で、当直も外来も学生の講義も検査もこなしていました。
教授と助教授以外は、当直をし(5日に1回)、自分が一番下だったので、検査の部門で、特に頑張らざるを得ませんでした(外来の尿沈渣と白血球の分類を、全て、私がしていました)。(宿舎は、病院の真ん前にありましたが)朝は、7時30分過ぎに行き、帰りは、23時近くに帰ることが多く、日曜日に働くことで、溜まった仕事がやっと解消出来る感じになっていました(病院では、ナースの多くから、私は、働き虫と言われていました)。
少しスタッフが増えて、楽になりかけた時に、故郷の佐伯に帰りました。年間約お産400~500の救急病院に、小児科を新設してもらったのですが、当初、ナースに、小児科の経験者が一人もいなくて、それなりに苦労しました。
当時、大分県の県南では、小児だけ診る医師は、津久見市にも臼杵市にもいなく、佐伯市に(入院設備を持った)開業医が一人いるだけで、その医師も、しばらくして、体を壊して、しばらくの間、休診となってしまいました。
とうとう、県南私一人で、24時間365日の新生児と小児科救急医療をせざるを得ない状態になり・・・それに、健診、予防接種、更には、医師会の准看護学校(20時間)と(南海病院に隣接する)看護専門学校(30時間)の講義もしていましたが・・・そんな忙しい中でも、学会に演題を出して、15回前後、発表していました。
この先、このままだと、確実に体が壊れると思って、やむなく、開業しました(←当時、宮崎医科大学も、大分医科大学も、小児科医が少なくて、積極的な援助が受けられない状態にありました)。
開業後も、入院設備を19床も持ち、一人で24時間365日、平日は、朝の7時半から、絶対的な拘束で小児救急をしました(土曜日のみ、自宅に泊まっていました)。(そんな中でも、趣味にも明け暮れていました!)
その後、採算が合わない感じになって、義理の兄弟の公認会計士に相談して、(その時、佐伯市には、小児科医が8名にもなり、入院できる所が、4カ所にもなっていました)、やむなく閉院しました。
私なりに次の職場を探しました・・・→福岡県の大川市にある病院とで、私の意見が通って、東大の小児科医局のスタッフの協力で、5人で24時間態勢の小児科救急医療を開始しました。しかし、その後、大学の都合で、全員、引き上げることとなり、やむなく、大分市の戸次にある病院で、私なりに、小児救急をすることになりました。
もう、頑張れと言われても、体が付いていきません。風邪の調子、少し良くなった感じですが・・・。
これだけだと、私は、ただの仕事人でしかないですね。しかし、私の場合は、忙しい中でも、その後の計画を実に細かく決めていましたし、それなりの夢も持っていました。そして、それなりに、実現できています。
12年後の今、これを書いたことまでも忘れていましたが、今、思うに、何故、あんなに頑張れたのかなあと疑問に思います。頑張ることで充実感が得られていたのでしょうか・・・?!仕事に悔いはないですね。無理しましたが、幸いに、73歳まで生きて来れているので、残りの余生を別の次元で過ごそうと思っています。
*https://www.youtube.com/watch?v=ehkW2z63Wwc&t=804s(←人生で一番大切なものは?)
*写真は、ニュージーランドのオークランドで、剣道の道場で、和太鼓演奏をしている私。
(以下は、2.007年2月12日に、記載した内容ですが、少し、修正して再掲していますが・・・→)
私の場合は、特殊な感じがしていますが・・・?!
新婚旅行は、普通車で高千穂に行き、臼杵で終わりました。(←自宅に、立派な車庫があるのに、自家用車なしで今まで来ていますが・・・)
初め就職した宮崎県立宮崎病院では、当時、まだ、宮崎医科大学がオープンしてなかったので、宮崎県で一番大きな病院で、宮崎各地からの紹介もあり、超忙しかったです。宮崎市の小児科開業医が入院設備を持っていない関係で、いつも新生児を含む85床程のベッドが満床に近い状態で、ベッドを開けるのに苦労していました。
それを、小児科医、部長以下、6名でしていましたが、その内の3名は、私を含めての研修医でした。勤務して、1ヵ月で、時間外の救急に関わり、新生児・未熟児は、上下関係なく、順番に主治医になることが多く、又、1年もせずして、白血病や心疾患も、受け持っていました。
病棟の患者の急変は、主治医の担当で、深夜でも遠慮なく呼ばれていました。又、5日に1日は、夜の救急で拘束されていました。
当時のナースに偶然に会った時、「先生、あの時の県病は、凄まじかったですネ、もう、あんな忙しいことはありませんが・・・」と言われました。
その後、宮崎医科大学の診療が始まる時に合わせて、(卒後1年4ヵ月で文部教官の身分で)大学に行きました。教授1人、助教授1人、講師1人、助手(私を含めて)4名。わずか7名のスタッフ(それ以外、なし)で、当直も外来も学生の講義も検査もこなしていました。
教授と助教授以外は、当直をし(5日に1回)、自分が一番下だったので、検査の部門で、特に頑張らざるを得ませんでした(外来の尿沈渣と白血球の分類を、全て、私がしていました)。(宿舎は、病院の真ん前にありましたが)朝は、7時30分過ぎに行き、帰りは、23時近くに帰ることが多く、日曜日に働くことで、溜まった仕事がやっと解消出来る感じになっていました(病院では、ナースの多くから、私は、働き虫と言われていました)。
少しスタッフが増えて、楽になりかけた時に、故郷の佐伯に帰りました。年間約お産400~500の救急病院に、小児科を新設してもらったのですが、当初、ナースに、小児科の経験者が一人もいなくて、それなりに苦労しました。
当時、大分県の県南では、小児だけ診る医師は、津久見市にも臼杵市にもいなく、佐伯市に(入院設備を持った)開業医が一人いるだけで、その医師も、しばらくして、体を壊して、しばらくの間、休診となってしまいました。
とうとう、県南私一人で、24時間365日の新生児と小児科救急医療をせざるを得ない状態になり・・・それに、健診、予防接種、更には、医師会の准看護学校(20時間)と(南海病院に隣接する)看護専門学校(30時間)の講義もしていましたが・・・そんな忙しい中でも、学会に演題を出して、15回前後、発表していました。
この先、このままだと、確実に体が壊れると思って、やむなく、開業しました(←当時、宮崎医科大学も、大分医科大学も、小児科医が少なくて、積極的な援助が受けられない状態にありました)。
開業後も、入院設備を19床も持ち、一人で24時間365日、平日は、朝の7時半から、絶対的な拘束で小児救急をしました(土曜日のみ、自宅に泊まっていました)。(そんな中でも、趣味にも明け暮れていました!)
その後、採算が合わない感じになって、義理の兄弟の公認会計士に相談して、(その時、佐伯市には、小児科医が8名にもなり、入院できる所が、4カ所にもなっていました)、やむなく閉院しました。
私なりに次の職場を探しました・・・→福岡県の大川市にある病院とで、私の意見が通って、東大の小児科医局のスタッフの協力で、5人で24時間態勢の小児科救急医療を開始しました。しかし、その後、大学の都合で、全員、引き上げることとなり、やむなく、大分市の戸次にある病院で、私なりに、小児救急をすることになりました。
もう、頑張れと言われても、体が付いていきません。風邪の調子、少し良くなった感じですが・・・。
これだけだと、私は、ただの仕事人でしかないですね。しかし、私の場合は、忙しい中でも、その後の計画を実に細かく決めていましたし、それなりの夢も持っていました。そして、それなりに、実現できています。
12年後の今、これを書いたことまでも忘れていましたが、今、思うに、何故、あんなに頑張れたのかなあと疑問に思います。頑張ることで充実感が得られていたのでしょうか・・・?!仕事に悔いはないですね。無理しましたが、幸いに、73歳まで生きて来れているので、残りの余生を別の次元で過ごそうと思っています。
*https://www.youtube.com/watch?v=ehkW2z63Wwc&t=804s(←人生で一番大切なものは?)
*写真は、ニュージーランドのオークランドで、剣道の道場で、和太鼓演奏をしている私。
(令和4年9月12日、少し修正して、再掲)