【気まま連載】帰ってきたミーハー婆㊿
母とは
岩崎邦子
「お母さん、いつも産んでくれてありがとう!」
こんな言葉を放っていたのは、今は活動休止中の「嵐」のリーダー・大野智くん。
フジテレビで「嵐」5人が行っていたバラエティ番組「VS嵐(2008年4月12日~2020年12月24日)は、その5人の仲良しぶりに好感が持てたので、よく観ていた。 その中で、「嵐」の誰かの誕生日近くになると、必ずこのギャグのような「いつも産んでくれて」と言うのを恒例にし、笑いを誘ったものである。
5月8日は「母の日」だったからか、「嵐」のファンがfacebookに、その時々の様子を挙げていたが、その場面を、とても懐かしく思った。 誰にも母がいて、この世に生を受けたのだから、「産んでくれてありがとう」は言いたいものだ。 昭和15年私を出産した母は5年後に肺結核で亡くなったので、共に生活したことも、何か話しかけてくれた言葉も、私には記憶がない。
母が亡くなった2年後、父もやはり結核で旅立つ。祖母(多分60代後半だった)が母親代わりに、まだ20歳に満たない長男の兄が父親代わりとなった。姉妹4人の末っ子の私は、戦中・戦後の栄養不足のせいか、星目(目ぼし=角膜の部分に小さな水泡状の斑点)になり、右耳は麻疹から中耳炎に。後に目は直ったが、右耳は今も難聴のままである。
祖母・兄・姉たちが、そんな私の面倒を見ていてくれた。なので依頼心ばかりが強くて、自分が進んで行動することのない子供であったようだ。
私が小学2年生の時、一番上の姉が結婚した。5年生の時には、姉妹の中で自慢の美人だった2番目の姉が日本脳炎であっという間に亡くなる。そして中学2年の時、すぐ上の姉が肺浸潤で闘病生活を送る。そんな災難続きの我が家の中で、祖母は奮闘の日々に明け暮れていた。
小学生の頃の私は、周りの庇護もあって、可愛がられていたけれど、中学生になって反抗期に突入、最悪の日々を過ごすことに……。年子であった上2人の姉たちは戦時中、女学校で学んでいた。
その時の先生たちは、私が彼女たちの妹であることを知ると、こう言ったものである。「あんたの姉さんたちは本当に優秀な子だった」「進んでいろいろのことが出来る子だった」。私と比較しているのか、事あるごとに言われて、うんざり。 家に帰れば、祖母も右へ倣え。「りう(母の名)さんは、何でも学校で1番だった」と。
祖母は日頃、すぐ上の姉には優しい言葉をかけていた。成績が良く、器用で絵も上手く、何でも出来たので、先生たちから何かと期待されていたようである。なのに、私は叱られることが多かった。不憫でならない姉に比べ、気の利かない私に叱責が多かったのは、私への励ましだったのかも。タライで洗濯をしていると、
「言われなければ何も出来ない!」
祖母がぐちぐちと小言が言い始める。相変わらず、母や姉たち、加えて兄の優秀さも加わった話が追い打ちをかけた。何かと比較されて、悔しかったし、悲しかった。ある日、暗に母の病が酷くなったのには、私が生まれてからのことだ、とまで言われる始末である。もう堪忍袋の緒が切れた。
「私の事、産んでくれと頼んでもいないのに、何でやぁ!」
洗濯物を投げつけながら爆発した私である。
とにかく、何かと差別されることの口惜しさが先立って、トンデモナイことを言ってしまったものだ。祖母は夫に早世され、嫁にも息子にも先立たれ、厄介な私の面倒にはほとほと、疲れ果てていたのに違いない。もちろん、仕事から帰った兄に、こっぴどく叱られた。当たり前である。 私の発した暴言の一言一言、犯した行動を、何十年も過ぎた今も思い出し、後悔と共に涙が出てくる。
やがて兄が結婚し、義姉からは優しくされた。が、祖母の姉贔屓は続く。祖母名義の預貯金や株などの大半が、先を案じたのだろうが、姉名義に変更されていることも判明。そんなわけで、私は進学することより「家を何としても早く出たい」というの気持ちになっていた。愚かな私は踏ん張って、何らかの資格でも取るべきだったが、後悔先に立たず」とは、よく言ったものだ。
縁があって私の義母になった人は、誰にも優しい人だった。年齢が、生きていれば私の母と同い年であることが、なぜか嬉しい。 義母には、子供を手放すことになったという、辛い辛い経験があったことを、かなり後になって知った。
身を削る思いをした義母には、人の心の中に土足で入るようなことは決してしない。彼女の一番良い所は、嫁たちのすべての面に対して差別をつけないことだ。今まで言ったことが無かった「お母さん、ありがとう」の言葉を、母の日が来る度に、言える立場を得たのは、うれしいことでもあった。
さてさて、息子が結婚して私も姑になった。世間で言う嫁姑問題からは、無縁でいたいもの。 私の責任と言われれば仕方がないが、息子はかなり厄介な性格である。そんなところへ来てくれただけで、嫁にはもう、感謝感謝なのだ。彼らに揉め事があれば、絶対に嫁の味方になることにしている。
私が夫との出来事で辛かった時、私には泣きついて行ける所が無かった。嫁は沖縄に両親が健在とは言え、おいそれとは帰れる距離ではない。ならば、私が彼女の見方をすることが一番なのだと思っている。
このことは、遠くアメリカで所帯を持った娘には、婿さんのお母さんが優しく味方になって欲しいという、気持ちがあったからに他ならない。 私は優しくて気の利く母親ではないが、今も元気でいられることで、子供や孫は勘弁してくれている。
それはともかく、にしても「嵐」が再結成されて、5人の活躍が復活しないかなぁ。
「お母さん、いつも産んでくれてありがとう!」
そんな言葉を発する大野君の姿を、また笑いながら観たいものだ。
【岩崎邦子さんのプロフィール】
昭和15(1940)年6月29日、岐阜県大垣市生まれ。県立大垣南高校卒業後、名古屋市でОL生活。2年後、叔父の会社に就職するため上京する。23歳のときに今のご主人と結婚し、1男1女をもうけた。有吉佐和子、田辺聖子、佐藤愛子など女流作家のファン。現在、白井市南山で夫と2人暮らし。白井健康元気村では、パークゴルフの企画・運営を担当。令和元(2018)年春から本ブログにエッセイ「岩崎邦子の『日々悠々』」を毎週水曜日に連載。大好評のうち100回目で終了した。