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アメリカから来た孫 その3  岩崎邦子の「日々悠々」㊺

2019-08-16 00:02:53 | 【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」

【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」㊺

アメリカから来た孫 その3

     

 

 折に触れ出かけていたアメリカの娘や孫たちと過ごした思い出は、事あるごとにふつふつと思い出すものだ。一番に懐かしく思うのは、長女が6歳、次女が4歳の頃、ワシントンDCに出かけたこと。ホワイトハウスの周りは厳重な警戒であった。が、ポトマック河畔に咲く桜は満開である。樹木が低めだったので、桜の花びらを手で触ることも。スミソニアン国立動物園のパンダも人気があって、日本の動物園みたいにガラス越しではなく、より間近にその愛らしい姿が見ることができた。

 ハローウィンの季節になると、農家の畑でゴロンゴロンと転がっている巨大なパンプキン狩りをしたり、リンゴ狩りに出かけたりもした。クリスマスが近づくと、モミの木を育てている農園で、自分の家のサイズにあった木を伐り出してもらったものだ。もちろん、初めての経験である。日本では考えられないので、驚くばかり。

 日本語学校での運動会(幼稚園から高校生まで一緒に)では、先生が「英語、禁止!」と何回も放送していた。英語で話す方が楽になっている子供たちへの牽制であるが、このことも私には驚きであった。さて、娘も仕事をするようになり、日中は私一人で留守番祖することになるので、アメリカにはほとんど出向くことはなくなった。

 親としての娘は、現地校、毎日曜の日本語学校、教会、と毎日のスケジュールを子供たちに敢行させるために奔走する日々を過ごす。加えて娘自身も平日の仕事をするようにもなり、日本語学校で高校生に数学を教えることで、八面六臂の生活をしていたようである。

 日本とはかなり離れてはいたが、そのうちパソコンでスカイプをしながら、まるでテレビ電話のように話せるようになった。時間帯の違いはあるものの、何の違和感もなく距離感も感じることなく、お互いの現状を知ることができた。

 アメリカの長い夏休みが始まると、孫は娘と共に6月半ばには日本に一時帰国する。一番の目的は、日本の小学校への体験入学をすることだ。日本の公立の学校では、アメリカなど諸外国の日本語学校の校長の依頼書があれば、入学の拒否は出来ない。しかし、事前に私が近くの小学校にお願いに上がると、必ず言われたことがある。「お子さんたちは、日本語は話せるのですか?」と。何より、そのことが心配らしい。「はい、大丈夫です」と、答えると、顔もホッとした表情をされる。

 子供たちが小さい頃は、街中を歩いたり買い物に出かけたりすると、やたらと注目を浴びた。売り場の店員さんがわざわざ近づいてきて、つくづくと顔を眺めて「可愛い!」などと。孫たちは困った顔をしていた。時には子供(ハーフ)タレントの事務所から声を掛けられたこともあった。

 年数が経ち、長女は日本の大学を選んで寮生活をするようになった。何か変わったことがあると、家族のグループLINEで知らせてくれるし、時には画像も送ってくれる。ある時、学校の行事の時にやって来たモデルの事務所の人に誘われたという。怖いので日本人の友達と一緒に話を聞いたところ、ハーフの人ばかりを扱っているらしく、まともな事務所だったようだ。そして桜の季節発売の、ある旅行雑誌に起用されて載った、との報には驚いた。もちろん私はその雑誌の購入をした。

 実際の撮影は寒い時に撮ったというが、桜満開の名所の写真としてうまく構成されていた。他には結婚式場などの広告写真や、時にはテレビタレントが化粧品の広告やコマーシャルに出る時の前撮りを手伝ったりもするらしい。このことは、ボソッと我が家に来た時に話してくれた。

 本人も私たちも一番嬉しく思ったのは、「日本会議通訳者協会」が主催の「同時通訳」の予選を通過したことである。社会人部門・学生部門とある中での出来事に、本人も相当びっくり。結局、狭き門の本選でグランプリにはなれなかったが、「学生生活の今後の指針になる」と言っていた。あちこちの国から来ている寮生たちとの生活、勉強、ゴスペルの部活、これからも励んで欲しいものだ。

 一方、次女はこの秋からアメリカの大学での学生生活が始まる。今までは、夏休みの半分ほどを日本で過ごし、後半はアメリカでいろいろあるキャンプに参加していた。が、今年からはそのキャンプには行かないので、日本で過ごす時間が長くなっている。

 長女も次女も、今回の日本滞在で一番の目的としたが「ヒロシマ」行きだった。今まではディズニーランド行きが優先されてきたのだが……。「戦争」「ヒロシマ」について、日本語学校で学ぶことと、現地校で学ぶことには違いがある。日本語学校で第2次世界大戦での日本人が受けた悲惨な出来事を知れば、「アメリカは何と非情なことを」と思う。

 ところが、現地校ではアメリカが受けた真珠湾攻撃の話が多い。「戦争を終わらせるための手段として、原爆も仕方がないことであった」という考えを教えられたのである。子ども心に、どちらを、何を信じれば良いのか、と。その後もいろいろな観点を知り、人それぞれの視点の違いを学んだようだ。

 ということで、この夏のメインな家族行動として、娘と孫たち、私たち老夫婦の5人で松山と広島旅行を決行した。松山は俳句が盛んである。また城下町でもあり、しっとりと落ち着いた風情があった。でも、宮島・厳島神社は工事中。しかも雨にもたたられたのが、返す返す残念である。広島では市内を走る路面電車に乗った。何十年も前に東京に出てきたときに、憧れの「銀座」に電車で行って以来の経験だろうか。

「ヒロシマ」の原爆ドームは、画像などで何度も見ているが、実際に目の前にしてみると、感慨深いものがある。歩いて「広島平和記念資料館」に向かう。まわりの公園は整備されていて美しい。毎年、テレビで観る記念式典を行う所を通った。

 この春4月にリニューアルされたばかりの近代的で立派なつくりの資料館には、外国人や子供たちの団体も来ていた。被爆者の惨状を訴える膨大な写真や資料、数々の遺品。改めて原爆の恐ろしさと悲惨さがひしひしと伝わり、胸に痛みが走る。見る人の心にはどのように反映し、残るのだろうか。核廃絶が叫ばれていることを、世界中の人に理解して欲しい。

 アメリカで子供たちがお世話になっている教会の牧師さんは広島出身の方だ。お互いの子供たちが同年齢という事もあって、懇意にしている。牧師さんとは広島で会う約束も出来ていた。孫の姉妹もそうだが、子供たち同士の会話になると、英語で話すことが多い。別にひがむわけではないが、なんとも楽しそう。

 さて、娘家族が日本に来ると、衣料品・食料品・雑貨品などをあれこれと購入することに奔走する。食べ物でも寿司や鰻などの他にも、リクエストが少なくない。日本の様々な情報を逐一把握しているのが、驚きと言えば驚きでもあるが、東へ西へと忙しい日々だ。娘は仕事のこともあって、一足先にアメリカに戻った。仕事先の夏休みはもっと長期だったのが、2週間しか取れないことになったという。

 残された孫姉妹を見ていて思う事がある。小さい頃の長女はのろま、というか、何かの購入の列に並んでいても、友達に先を越させてしまうような子だった。見ていて少し歯がゆい思いで、心配もしたものだ。今も些細なことは気にしなくて、明るくて人当たりが良い。次女はというと、要領が良く、素早く行動していた。今はどちらかというと、寡黙なほうで、慌てず堅実型になっているように思う。

 姉妹は仲が良く、あれこれと友達との交流なども話し合っているようだ。先日は台湾の共通の友達を頼って出かけ、何日かを楽しんで来た。次女はその後も浅草の親戚の所に来ている友達(アメリカの)と、格安のホテルに滞在して、数日間を東京のあちこちに出かけていた。

 この秋からアメリカでの大学の寮生活が始まる次女だが、長女の通う日本の大学の寮とは違って、日常生活に必要な物の大半を、個人で整えなくてはならない。寝具などは別として、まずは、食べるための諸道具、キッチン用品など、日本の製品の中から幾つかを選んでいた。

 日本の夏の風物詩?とでもいうのか、子供の頃からしていた花火を楽しむことも忘れない。ちなみに、手で持ってする線香花火などは、アメリカでは禁止なのだそうだ。年々賑やかになる白井駅前の夏祭りでは、盆踊りを眺めたり、夜店を見て回ったりもしていた。二人そろって浴衣を着て都内にも出かけたが、「下駄で足を痛くしてくるのでは」と、心配もしたのだが……。

 長女も次女も、都内や近辺のどこに出かけたとしても、言葉に困ることはない。慣れない所に行っても大丈夫。スマホで検索すれば、路線や乗り換え、それに近辺の様子もすべてを把握できるからだ。だから、よほど夜遅くならない限りは、余計な詮索も心配もしないことにしている。朝起きる時間、寝る時間、シャワーの時間、そして食事など、若者と老夫婦のライフスタイルは大きく違う。日々戸惑いながら、彼女たちの世話が出来るのも、今のうちだと思っている。孫の話をすると、キリがない。この辺で打ち止めとするか。


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