【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑫
水を飲むのも命がけ
エレファンタ島(インド)
休日のある日、小さな船で1時間ゆられて石窟寺院で有名なエレファンタ島を訪れた。前回紹介したムンバイのインド門から東に10キロほど東にある島である。目的は言うまでもなく石窟寺院。グプタ朝時代(4~6世紀)に建設が始まったとされる圧倒的な存在感を放つこの寺院は、シヴァ信仰の中心地で、1987年にユネスコ(UNESCO、国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に登録された。
▲エレファンタ島の石窟寺院
エレファンタ島に船が到着すると、船着き場には、物乞いや物売りに混じって、乳飲み子や幼児を連れた大勢の女たちが、小道の両脇にびっしりと並んでいた。皆必死の形相で何やら叫んでいる。
ある女と目が合った。どうやら、私が手に持っているまだ半分も飲んでいないミネラルウォーターのペットボトルをくれと訴えているらしい。炎天下、水なしでは困るので断ると、身振り手振りで、飲み終わったら空のボトルが欲しいと言う。
「いいよ、では帰りにね」
そう軽い気持ちで答えると、周りの女たちが一斉に叫び出す。
「私にちょうだい」
「いや、私に!」
「彼は、私にくれると言ったのよ!」
たぶん、そんなことを言っているのだろう。女たちが口々に叫ぶ。空のペットボトル一本をめぐって凄まじい争奪戦が始まり、最早収拾がつかない。私は咄嗟に状況が把握できなかった。だから呆然として、逃げるようにその場を去るしかなかった。
しかし、空のペットボトルをどうするのだろう。売るのだろうか、それとも生活用水を貯めておくのだろうか。
帰りにあげると言ったが、どの女に渡せばいいだろうか、誰にあげても騒動は避けられないだろうな……どうしよう⁉
様々な考えが錯綜し、船中で思いを馳せていた古代文明の世界から一気に現実のインドに引き戻されてしまった。
▲母親に抱かれた幼児が地下水を飲もうとしている
今ではペットボトルは日常から切り離せない容器になっている。私が大学生の頃、ペットボトルなんかなかった。自販機でコーラを買うと、瓶詰のコーラがガタガタゴロゴロという音を立てて取り出し口から勢いよく出てきたものだ。
一体、ペットボトルはいつごろ世の中に登場したのか。1973年にデュポン社のナザニエル・ワイエスという科学者がポリエチレンテレフタラート (PET) という樹脂を開発して特許を取得、翌年にはペットボトル入りのペプシコーラが売り出される。これが世界初のペットボトル入りの清涼飲料水となった。
日本では1983年にコカ・コーラがペットボトルで売り出され、その軽さにみんな喜んだものだ。こうして瞬く間に瓶詰が自販機から消え去った。登場したのは、たかだか40年前に登場したペットボトルだが、今では缶入りと並ぶ双璧である。もう瓶のボトルなんか自販機から出てこない。
それはともかく、話を戻そう。
インド人の5人に4人が地下水を飲料水として飲んでいるのだそうだ。が、地方によっては地下水にヒ素が多く含まれているので、飲み続けると危険この上ない。それに水道管も老朽化などで破損し、大腸菌などの汚染が問題になっているという。
ペットボトルの水は、'Packed water'と称される水道水や地下水を単に滅菌処理しただけである。けっして安全とは言えないが、滅菌処理してるだけマシかもしれない。というのは、滅菌処理をしていない水をペットボトルに入れて販売している悪徳業者がいるからだ。
なぜエレファンタ島の女たちは、私に空のペットボトルをねだったのか。その理由はもうお分かりだろう。そう、旅行者が飲んで空っぽになったペットボトルを悪徳業者に売るためである。
それを買った悪徳業者が汚染された水道水をペットボトルに入れてPacked waterに仕立て、また別の旅行者に売りつけるというわけだ。そんなことも知らずに買って飲むと、七転八倒するハメに。最悪の場合、命を落とすかも。いずれにしても、腸内フローラが「インド仕様」になっていない外国人は、Packed waterではなく、少々値は張るが、外国製のミネラルウォーターを買う方が無難である。
さて、このPacked waterの短所は、腹をこわすだけではない。じつに扱いづらいのだ。とても薄いペコペコのペットボトルに目一杯充填されているので、中の水を一滴もこぼさずにキャップを開けるのには相当の慣れを要する。面倒なこと、この上ない。
最後に、インド式ペットボトルの飲み方を伝授しよう。
インドでは一般に、ペットボトルの水を飲むとき、上を向いて、ボトルに口から離し、器用に口に流し込む。サッカー選手がピッチ上で水を飲むのと同じやり方だ。この飲み方を「インド飲み」「戦場飲み」或いは「滝飲み」などと言うらしい。
なぜ、そんな飲み方をするのか―。
一つ、ヒンドゥ教では、人が口をつけたものは不浄であると考えられているから。二つ、暑い国なので飲み口から雑菌が繁殖するのを防ぐため。三つ、貴重な水をみんなで共有するため。うー、インドは面白い。じつに奥が深い。そして、なんて危険でメンド―なのか。だから、面白い!
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。