■歴史読物■
▲川瀬巴水・作「池上本門寺」
【連載】池上本門寺と近代朝鮮
東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。
▲日本統治時代の朝鮮全図
■最終回■日韓政財界に人脈を広げた最強の黒幕
町井久之 (まちい ひさゆき 1923~2002)
田中秀雄 (近現代史研究家)
町井久之は在日朝鮮人の息子として、東京で生まれている。本名は鄭建永(チョン・ゴニョン)という。半島で生まれた力道山は1歳年下である。しかし町井も体が大きかった。身長180センチを超えていた。力道山と腕相撲をやって勝ったというから、その成長環境によっては格闘系の職業に就いていてもおかしくなかった。
子供の頃から喧嘩に強かった町井が、青年となって出会ったのは石原莞爾の東亜聯盟思想だった。昭和18(1943)年、彼がちょうど専修大学に入学した頃である。彼にそれを教えたのは曺寧柱――後に民団の団長を二度務めることになる石原莞爾の高弟である。
東亜聯盟の思想の根底にあるのは、「日本は東洋の盟主と自画自賛するな」「東洋の諸民族は相互に平等である」ということであった。聯盟を構成する3国(日本、中国、満洲国)は、経済と国防は共同だが、政治的に独立するのである。当時日本に併合されていた朝鮮人として、これが魅力的でないはずはなかった。ならば朝鮮も独立できるではないか。
しかし同時に、東亜聯盟は反共産主義であった。石原は昭和15(1940)年、東亜聯盟会員のある朝鮮人宛てに「独立はソ連の力に頼るしかない、独立は考えない方がいい」と手紙を書いている。
ただ日本が敗戦すると、朝鮮は独立が可能となった。しかし38度線で自由主義と共産主義とに分断された。この分断が日本国内でもあった。戦後すぐに在日朝鮮人の団体として朝鮮人聯盟が結成されたが、すぐに分裂した。何しろ結成大会で副委員長となっていた権逸が暴力を振るわれ、瀕死の重傷を負ったほどである。彼もまた石原莞爾を尊敬する人物で、後に民団の団長を二度務めている。
結局、朝鮮人聯盟は共産主義者を中心にした組織となり、右派は別の組織を結成した。曺寧柱や権逸は新朝鮮建設同盟を結成し、町井は朝鮮建国促進青年聯盟に入った。この2団体がまもなく民団という形に合体する。当然ながらこちらは反共団体である。
そして朝鮮人聯盟(後の朝鮮総聯)と民団は拳銃や日本刀で相互に闘争する市街戦を展開するようになる。その最前線で戦い、その度胸と腕力で、またたくまに組織の中心人物としてのし上がっていったのが町井久之である。彼を慕う部下もできる。
朝鮮人聯盟との戦いは思想面だけでなく、つまるところ生活基盤をめぐる戦いでもある。町井は民団系の人物が行なう商売や事業の用心棒をするようになり、それは日本側のやくざとの付き合い、あるいはトラブルともなっていく。自然に彼は「町井組」という組織のリーダーとなって名を売っていった。
この過程で数限りない暴力沙汰、死傷事件を起こしてしまう。そのたびに弁護を買って出たのが弁護士資格を持つ権逸である。さすがに権逸は町井に真面目な反共団体を作るようにいさめた。そうして町井が作ったのが「東声会」である。昭和32(1957)年のことで、「東洋の声に耳を傾ける」という意味が込められていた。
しかし暴力団というイメージは変わることはなく、一時は構成員が1000名を超えた。昭和38(1963)年には東声会員が田中清玄襲撃事件を起こしてしまう。有名な政治運動家、実業家の襲撃はスキャンダルとなった。
同じ年に町井は「東亜相互企業」を設立する。「東洋の声に耳を傾ける」には「東亜聯盟」を連想させるものがあり、今度はそのまま「東亜」という言葉を町井は使用してきた。若い時の初心に帰ろう、真面目な実業家の道を歩もうという考えが根底にあったのだろう。六本木に立てた本社には、曺寧柱が主宰する「アジア新生会議」という団体も事務所を置いた。東声会を解散させたのは昭和41(1966)年である。
町井が力道山の紹介で、児玉誉士夫と交際し始めるのは昭和34(1959)年頃からのようだ。たちまち彼は児玉に私淑する。児玉は防共の意味からも韓国との国交正常化を目指していた。
1961年に朴正熙がクーデターで政権を握ると、翌年に町井は戦後初めて故国に帰り、またその翌年にも里帰りした。日韓基本条約が締結された1965年とその翌年、町井は児玉と一緒に韓国を訪問し、朴正熙を筆頭に、政財界に様々な人脈を作った。1968年には韓国政府から冬柏章を授与された。
この頃の町井は、那須白河高原の開発に力を注いでいた。しかし暴力団という過去を持つ彼には、資金調達に難があった。それを支援してくれたのが韓国政府系の韓国外換銀行である。
那須の開発に町井は壮大な夢を掲げた。石原莞爾の農政方面の顧問だった池本喜三夫を農業部門の長に迎え、「東亜農公園」を作った。設立宣言には「東亜農公園の成功こそは親愛なる亜細亜(アジア)諸民族に次代文明の高き理想とその達成手段を提示して、豊かな亜細亜と平和な世界建設への創造的方向であることを確信し事業完遂を誓う」とある。
東亜相互には、満洲事変当時からの石原の側近だった和田勁の息子・獅郎も入社していた。石原莞爾は昭和24(1949)年に亡くなっており、彼の思想を受け継ぐ者は物故したりして、数少なくなっていた。まさにここに町井は若い自分が東亜聯盟の理想を実現するつもりだったのだ。
東京でも六本木にTSK・CCCというホテル・レジャー施設などを盛り込んだ壮大なプロジェクトを始動させた。完成したのが昭和48(1973)年で、これがまさに彼の絶頂期だった。しかし那須白河の計画は進行せず、資金繰りは滞り、返済が問題となって韓国でも騒がれた。ロッキード事件が3年後に発覚すると、〝児玉の子分〟の夢はスキャンダル諸共に崩れ去った。韓国での後ろ盾となる朴正熙大統領も銃弾に斃れた(1979年)。
心臓の病や糖尿病を抱えていた彼が亡くなったのは平成14(2002)年のことである。池上本門寺の児玉誉士夫の墓の斜め後ろに控えるように、町井の墓はある。彼だけでなく東声会員の墓も並ぶ。彼らの享年を見ると、皆若い。どのように死んだのか、想像すらできない。ただ手を合わせるのみである。
本項の執筆には、城内康伸氏の秀逸な町井久之の伝記『猛牛と呼ばれた男』(新潮文庫)に多くを負っている。感謝申し上げたい。
▲町井家の墓
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田中秀雄(たなか ひでお)さんの略歴】
昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。
●朝鮮で聖者と呼ばれた日本人・重松髜修[桜H22/3/29]
https://www.youtube.com/watch?v=bvoGKbTVv8M
●中国共産党の罠
https://www.youtube.com/watch?v=MvlX6zFl_FY