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ジャニー喜多川、逝く  「ジャニーズ帝国」に一役買った作家

2019-07-18 06:59:55 | 特別記事

ジャニー喜多川、逝く

「ジャニーズ帝国」に一役買った作家

▲上皇陛下の御学友で、メリー喜多川の夫だった藤島泰輔氏

 

「ジャニーズ帝国」を築き、日本の芸能界に大きな足跡を残したジャニー喜多川さんが7月9日に亡くなりました。このジャニーさんの成功物語に欠かせない人物はというと、姉のメリー喜多川さんでしょう。ジャニーズ事務所の副社長として弟のジャニーさんを支えてきた功労者です。が、もう一人の人物を忘れてはなりません。作家の藤島泰輔さん(故人)です。
 ここで上皇が皇太子だった頃の話をしましょう。高等科時代のある夜、級友の悪ガキ数人が、皇太子と示し合わせて、東宮御所の塀の外で待ち合わせました。口笛の合図で皇太子が塀を乗り越えます。そして、一同は夜の銀座へ。皇太子が何処かに消えたから、もう大変な騒ぎになったのは言うまでもありません。私にこの話をしてくれたのは、藤島泰輔さんです。大学卒業後に私が勤めた雑誌『浪曼』の編集長でした。
 さて、藤島泰輔さんとは、一体どんな人だったのでしょうか。
 昭和8(1933)年に藤島敏男(日銀監事)と孝子(三菱造船参事・川原五郎の娘)との間に生まれた藤島さん。母方の曽祖父は海軍中将の東郷正路、父方の祖父は日本郵船専務の藤島範平という日本のエリート家系に育った、正真正銘のボンボンです。
 母親の孝子さんの死後、父親が再婚したことで、藤島さんは継母に育てられました。初等科から大学まで学習院で学ぶことになります。皇太子(明仁上皇)のご学友でもありました。ちなみに、皇太子の家庭教師だったヴァイニング夫人から藤島さんは英語を教わっています。
 昭和31(1956)年に学習院大学を卒業した藤島さんは、東京新聞社会部に記者として入社しました。当時、藤島さんが毎晩のように通ったバーが、四谷三丁目の「スポット」という名のカウンター・バー。店を取り仕切っていたのは、ロサンゼルス生まれの日系アメリカ人の女性でした。高野山米国別院第三代主監だった僧侶、喜多川諦道さんの長女、メリー喜多川さんです。
 弟のジャニーさんが昭和38(1962)年にジャニーズ事務所を設立したのを機に、メリーさんは四谷のバーを畳み、経理を担当するなどして弟を手伝うことになりました。その翌年、藤島さんが俳人・高浜虚子の孫娘、朋子さんと結婚します。
 最初の頃こそ仲睦ましかったものの、結婚生活はいつしか破綻、藤島さんは以前から親しかったメリーさんとの愛を育みます。早い話が「不倫」です。しかし、朋子さんとはまだ籍を抜いていなかったので、ふたりは内縁関係を続けるしかありませんでした。
 内縁関係とはいえ、実質的にジャニー喜多川さんの義理の兄となった藤島さんは、ジャニーズ事務所を金銭的に支援したと言われています。また、顔も広かったので、マスコミや政財界の大物も大勢紹介しました。今日のジャニーズ事務所をつくり上げた陰の功労者と言ってもいいでしょう。もっと言えば、藤島さんがメリーさんと知り合っていなければ、少年隊もSMAPも嵐も関ジャニも世に出ていなかったかも知れません。
 藤島さんは昭和41(1966)年、メリーさんとの間に長女をもうけます。後にジャニーズ事務所の副社長となり、母親のメリーさんと共にジャニーさんを盛り立てたジュリー景子さんです。嬉しいことはまだ続きました。学習院時代の皇太子やヴァイニング夫人らをモデルにして書いた小説『孤獨の人』が注目され、翌年には『週刊読売』に日系アメリカ人の強制収容をテーマにした『忠誠登録』の連載も始まりました。
「よし作家一筋でやるぞ!」と心に決めた藤島さんは東京新聞を退社します。昭和45(1970)年にエベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤ山脈に遠征。昭和47(1972)年、朋子さんとの離婚が成立しました。こうして晴れてメリーさんと再婚することができたのです。
 ちなみに、藤島さんは別の名前でもベストセラーを出しました。在日フランス人のポール・ボネという名前で著した『不思議の国ニッポン』シリーズです。一時、アメリカ・フロリダ州に移り住み、日本に帰国後、私が勤めていた月刊誌『浪曼』の編集長に就任。残念ながら、この雑誌を出していた出版社は設立2年で倒産しました。倒産の直前でしたか、編集作業に追われていた私に一本の電話が入りました。学生時代から懇意にしてもらっていた大阪の代議士からです。
「キミとこの編集長、参議院選挙に出ないかな?」
 話はとんとん拍子に進み、藤島さんは昭和52(1977)年、第11回参議院議員選に自由民主党公認で全国区に立候補します。結果は、19万票近く獲得しましたが、惜しくも落選。平成9(1997)年、ガンでこの世を去りました。ジャニーさん亡き後、ジュリーさんが社長として後を継ぐそうですが、まだまだ一波乱ありそうです。叔父のジャニーさんも、実父の藤島さんも、あの世で気が気ではないでしょう。(文・山本徳造)
 


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