NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

アニー・ホール

2010-05-02 | 休み
『(500)日のサマー』(以下『サマー』)が見たかったけれど、渋谷まで行くのも面倒だ。そもそももうすでに公開も終わっている。かといってDVDもまだ出ていないので、似ていると評判のウディ・アレンの『アニー・ホール』(以下『アニー』)を観る。7月まで待てるか!


アニー・ホール


要は一組のカップル(ウディ・アレンとダイアン・キートン)の出会いから別れまでを描いた映画。そこに運命の出会いも不治の病も死別も劇的な別れも無い。友人の紹介で会うべくしてであった出会った男女が好きあって、互いに欠かせない存在になり些細なことが幸せなこととして描写される。そして皆が経験するように次第にその関係性の熱は冷め、あれだけ好きあっていたのに一緒に居ることが苦痛になり分かれてしまう。

『サマー』のラストを妹から聞いてしまったので、『アニー』と『サマー』をやはり比べて考えてしまう。こういった大まかなプロットは『アニー』と『サマー』はよく似ている。『サマー』も、予告編を見る限り、映像的にもアニメを挿入したりとシュールな演出をしていて、同様にアニメを挿入したり、過去の現場に現在の人物が存在するというメタ的でシュールな演出をしていた『アニー』はよく似ているのかもしれない。

けれでも決定的に違うの運命というキーワード。『サマー』の主人公の男の子はいつか運命の人と出会えると信じて疑わないが、彼が運命の女の子だと思ったサマーは運命の相手だなんて信じていない。500日の付き合いの後、二人は分かれてしまうが、後に主人公がサマーに再会した際、サマーは結婚していた。そしてサマーは運命の人に出会ったのだと、だからその運命の男の子と結婚したのだと主人公に告げる。

対して、『アニー』における二人は非常に現実的。分かれた数年後、再会した二人にはそれぞれにパートナーが居るがウディ・アレンはダイアン・キートンへの未練を覚えてしまった。今一度やり直せないかと彼女に迫るが無碍なく断られてしまう。過去の恋愛を引きずる女々しさという点では『サマー』の主人公も『アニー』のウディ・アレンも変わらない。でも『サマー』の主人公は、そしてサマーまでも実は運命論者だった。


運命論ってとってもロマンチックなようでいて、実際にはとっても個人的で、グロテスクな独善のような気がする。見方によってはとっても気持ちの悪い考え方だなぁと思う。逃避だったり、自己満足でしかなかったりするし。そう感じるのは、そういった安っぽい運命論がはびこってるからだろうけど。その点で言うと、誰もが共感できて納得できる”っぽさ”が『アニー』はとっても心地良い。『サマー』は面白く見せているのかもしれないけど。まぁ『サマー』にいたってはあらすじを聞いただけであった観てい無いので早く観たい。


中身以外ではカポーティーやマクルーハン、ポール・サイモンなんかの著名人が出演しているのがお得。俳優のカメオ出演じゃなくて作家や学者というのがなんとも。カポーティーはともかくマクルーハンなんて本でしか見たこと無いよ。そういえば『愛のむきだし』に宮台真司が新興宗教の神父役で出ていたが、あれは違うか。