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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月九日

2017年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年二月九日作。

(1)代りに死んでくれる転校生を待つ心

(2)求人欄も屈折した底冷え

(3)捨てに行こう誰が

☞「批判が同調へと変身を遂げることによって、理論の内容もそのままではありえず、そこに含まれていた真理は霧消してしまう。現代ではもちろん、自動的に運動する歴史は、そういう思想的な発展の先廻りをする。そして公権の代弁者たちにはまた別の憂慮があって、彼らは、かつて自分たちを助けて陽の当る場所につけてくれた理論を、それがまだ現実に他の陣営に身を売り始めないうちに、清算してしまおうとする」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.9」岩波文庫)

「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則というものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造というと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない」(「文芸の哲学的基礎」・「漱石文芸論集・P.48」岩波文庫)

「権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.38」岩波文庫)

「全権力をソヴェトに移せというスローガンは、革命を平和的に発展させるためのスローガンであって、この平和的な発展は、四月、五月、六月、七月五~九日まで、すなわち実際の権力が軍事的独裁の手に移るまでは可能であった。いまではこのスローガンはもはや正しくない。なぜなら、それは、このように権力の移行がおこなわれ、現にエス・エルとメンシェヴィキが革命を完全に裏切ったことを考慮にいれていないからである。役にたつことができるのは、冒険でも、一揆でも、部分的な抵抗でも、反動に対抗しようとする部分的なむなしい企てでもなく、労働者の前衛が情勢をはっきりと理解し、堅忍不抜の毅然たる態度をとることだけであり、武装蜂起の勢力を準備することだけである。そして武装蜂起が勝利する条件は、いまではおそろしく困難であるが、それにしても、このテーゼの本文中に指摘した諸事実と諸潮流が時を同じくするばあいには、可能である」(レーニン「政治情勢・一九一七年七月十日」・「レーニン全集41・P.564」大月書店)

「一見すると、《主》は主として存在するために自己の現実的現存在において、そして現実的現存在によりあますところなく充足している人間であり、そのため人間的現存在を最高度に実現しているように見える。だが実際はそうではない。この人間は、《主》でないならば、何であり、何であることを《欲する》のであろうか。彼が自己の生命を危険に晒したのは《主》になるため、《主》であるためであり、快楽に生きるためではなかった。そもそも、闘争を開始するときに彼が望んでいたものは、自己を《他者》に承認させること、すなわち自己以外の《他者》、だが《彼と同じように》人間である《他者》に、《別の人間》に自己を承認させることであった。だが実際には、《闘争》の果てに、彼は《奴》に承認されているにすぎない。彼は《人間》であろうとして他の人間に自己を承認させることを望んだ。だが、人間であることが《主》であることであるならば、《奴》は人間ではなく、《奴》に自己を承認させることは《人間》に承認されることではない。したがって、彼はもう一人の《主》に自己を承認させねばなるまいが、これは不可能である。なぜならば──定義上──《主》は、他者の優位を奴として承認するよりは死のほうを選ぶからである。要するに、《主》は決して自己の目的、自己の生命そのものを危険に晒した当の目的を実現するには至らない。《主》は、死すなわち《彼の》死か敵対者の死において、そしてそれによらなければ充足せしめられえない。だが人間は《死》において、そして《死》によって《存在する》ものや、《死》において、そして《死》によって《在る》がままの自己によりあますところなく充足せしめられることはありえない。なぜならば、死は《存在》せず、死者も《存在》していないからである。《存在》するもの、生きているもの、それは《奴》でしかない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.61~62」国文社)

「いったい、自己が《奴》によって承認されたと知るために自己の生命を危険に晒すことは、それだけの価値に値するものであろうか。明白に否である。そのため、自己の快楽と享受との中で愚鈍とならない限り、自己の《真の》目的と自己の《行動》すなわち自己の戦闘行動の動機とが何であったかを自覚するやいなや、主は《存在する》ものや、在るがままの《自己》によって充足せしめられないであろう、《決して》充足せしめられないであろう。換言するならば、《主であること》は現存在の袋小路である。《主》は快楽の中で《愚鈍となる》か、《主》として戦場に《死ぬ》かはできようが、《在る》がままの自己により自己が《充足せしめられている》と知り、そしてこの《意識をもって生きること》はできない。ところで、《歴史》を仕上げることができるものは意識された充足だけである。なぜならば、自分が在るがままの自己に《充足せしめられている》と《知る》ものは《人間》だけであり、そしてそのときもはや人間は、《自然》を変貌せしめる《行動》により、また《歴史》を創造する《行動》により、自己を乗り超えよう、在るがままの自己と存在するものとを乗り超えようとはしなくなるからである。もしも《歴史》が《仕上がる》べきものならば、もしも《絶対知》が可能であるべきものならば、これを為し遂げ《充足》に至りうるものは、ただ《奴》だけである。《主》の『真理』(すなわち開示された実在性)は《奴》である、とヘーゲルが述べるのはそのためである。《主》の中に生まれた人間の理想は《隷属》において、そして《隷属》によらなければ《実現されず》、開示されず、真理になることができないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.62」国文社)

「自己の歩みを止め自己を把握しうるためには《充足して》いなければならず、そのためには、たしかに、《奴》であることを《やめ》ねばならない。だが《奴》であることをやめることができるためには、以前《奴》であったことが必要である。そうして、《主》のいるところを除いて《奴》は存在しない以上、《主であること》は、それ自体が一つの《袋小路》でありながら、ヘーゲルの絶対的な《学》に至る歴史的現存在に《必然的な》段階として『正当化』される。《主》は《奴》を生み出すために現われるにすぎず、その奴が《主》としての主を『廃棄』し、──それにより《奴》としての自己自身をも『廃棄』するのである。《在る》がままの自己に充足し、かつまたヘーゲル哲学の中で、そしてこの哲学により、すなわちここでは『精神現象学』の中で、そしてそれにより充足したものとして自己を把握するものは、このようにして『廃棄された』《奴》である。《主》は《歴史》の『触媒』でしかなく、その歴史が《奴》すなわち《公民》となったかつての《奴》により実現され、仕上げられ、『開示』されていくのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.62~63」国文社)

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができる──でも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)