白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月二十五日(3)

2017年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

資本主義はどのようにしてロシア革命を消化することができたか。消化したことで何を得ることができたか。順を追って見ていこう。

「資本主義が始まるのはコードによってではなくて、公理系によってであるとしても、資本主義が社会体を⦅あるいは社会機械を⦆まとまった一群の技術的諸機械にとりかえたのだと考えてはならない。社会機械と技術機械というこの二つの型の機械は、正確にいって、両者とも、隠喩ではなしにまさしく二つの機械であるが、この両者の間の本性の相違は依然として存在する。資本主義の独自性は、社会機械が不変資本としての技術機械を部品としており、人間を部品としているのではないということである。不変資本は、社会体の充実身体の上にとりつき付着しているものなのであり、人間は技術機械に付属しているものなのである(この点から、原理的に登記はもはや直接的には人間を対象としないあるいは少なくとも対象とする必要はないであろうということになる)。ところが、もともと、公理系というものは、それだけでひとつの単純な技術機械なのでは全くない。自動的な、あるいはサイバネティックな技術機械でさえもない。ブルバキは科学の種々の公理系について、このことをはっきりとこう語っている。それらの公理系は、テーラー体系を構成するものでも、孤立した諸公式のメカニックな機能を構成するものでもない。それらは、むしろ種々の構造の反響や連接と結びついた〔全体把握的な〕『直観』を含むものなのである。ただし、これらの直観が、技術の『強力なテコ』によって補助されているというだけのことである、と」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.301」河出書房新社)

「こうしたことは、社会の公理系については、いかにいっそう真実であることか。すなわち、この社会の公理系が自分自身の内部を充実する仕方、この公理系がその極限を押し返し拡大する仕方、この公理系がみずから体系の飽和化を防いで、さらに種々の公理を付け加える仕方、この公理系がきしみを生じ調子の狂いを通じて復調することによってしか作動しない仕方、こうした仕方はすべて、決定し管理し反応し登記する社会諸器官を前提としている。つまり、種々の技術機械の作用には還元されないテクノクラシーや官僚制を前提としている。要するに、種々の脱コード化した流れの連接や、これらの間の微分の比や、さらにこれらの流れの多様な分裂や裂け目、こういったものはすべて全面的に調整を要求するものであり、この調整の主要器官が《国家》なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.301~302」河出書房新社)

「資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)

「資本主義《国家》は、まさに<具体的なるものになる>ということを成就しているということになる。つまり、抽象的な専制君主《原国家》が〔歴史の中で〕発展してゆく過程で、われわれには重要な役割を演じたように思われたあの<具体的なるものになる>ということを。資本主義的《国家》は、超越的統一体の立場から、社会的諸力の場に内在するものとなり、これらの諸力に奉仕するものとなって、脱コード化し公理系化した種々の流れに対して調整者の役割を果しているからである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)

「《原国家》は超コード化によって規定されていた。ところが、この《原国家》から派生したものは古代ポリスから王制《国家》に至るまで、既に、脱コード化した、あるいは脱コード化しつつある種々の流れに現前しており、これらの流れは、確実に《国家》を次第に現実の種々の力の場に内在させ従属させていったのである。しかし、まさに、これらの流れが連接の関係に入るための状況が与えられなかったために、《国家》は、超コード化の断片や種々のコードの断片を残存させるなり、あるいはそれに見合う別のものを発明することに満足して、全力をもって連接の働きが起ることを妨げることさえしていた(そして、その他のことといえば、できうる限り《原国家》を甦らせることを目標としていたのだ)」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)

村落共同体/交換の始まり/局地的=コード化。超コード化=君主制社会。この二つとはまったく形態の異なる資本主義社会=脱コード化とその流れを調整し社会内部へ取り込みながら剰余を延長し続ける公理系の採用。

「ところが、資本主義《国家》は、これとは異なる状況の中にある。この《国家》が生みだされるのは、脱コード化しあるいは脱土地化した種々の流れが連接することによってである。そしてこの『国家』が<内在的なるものになること>を最高度に実現することになるのは、この《国家》が種々のコードや超コード化の普遍的破綻を承認する限りにおいてであり、またこの《国家》が、これまでには知られていない性質をもった新しい連接公理系の中で全面的に展開する限りにおいてである。さらにかさねていえば、この《国家》が、あの公理系というものを発明したのではないのだ。何故なら、この公理系は資本そのものと一体をなしているからである。逆に、この《国家》はこの公理系から生まれ、この公理系の結果であり、この公理系の調整を保証するものにすぎないのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302~303」河出書房新社)

「国家」= 「公理系の調整を保証するものにすぎない」。日本では、例えば、原発事業がそうだ。代替エネルギー開発などと言ってはいても、実際のところでは原発はいつでも稼動できるし、稼動する。原発が動いている限り、代替エネルギーは原発の代りに用いられるわけではない。そうではなく、原発を主軸としたエネルギー政策の補助として用意されているにすぎない。そしてそういうエネルギー開発事業をどこまでも延長させるための経済政策の「公理」を、国会で過半数を取れば合法的に、過半数を取れなければ暴力的に貫徹させて「付け加える」のはほかでもない「国家」である。

「この公理系においては、不調がこの公理系の作動する条件をなしているが、この《国家》は、こうした条件としての種々の不調を調整したり、あるいは組織したりさえする。この公理系は飽和を進行させ、それに応じて自分の極限〔境界線〕を拡大するが、この《国家》はこうした進行や拡大を監視し指導するのだ。ひとつの《国家》が、経済力の兆候に奉仕するために、これほどまでに力を費やしたことは、これまでにはなかったことである。だから、資本主義《国家》は、何といわれようと、始めから⦅つまり、まだ半ば封建的、あるいは半ば君主制的な形態の中にそれがはぐくまれていたときから⦆、こうした役割を極めて早々ともっていたのだ。すなわち、『自由な』労働者の流れの見地からいえば、人手と賃金との統制がそうであるし、商工業生産の流れの見地からいえば、資本蓄積の好条件となる専売特権の付与や過剰生産の弾圧といったものが、そうである。自由な資本主義というものは、決して存在したことがなかったのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303」河出書房新社)

「種々の専売特権に対する抵抗運動といったものは、〔端的な自由の要求ではなくて〕何よりも商業資本、金融資本が、まだ古い生産体系と同盟関係にある時機と、そしてまた生まれつつある産業資本主義が、これらの専売特権の廃止を獲得することによってしか生産や市場を確保しえないといった時機とかかわりがあるのだ。《国家》が適切に行動するということを前提とすれば、専売特権に抵抗する行動の中には、国家による統制という原理そのものに対する闘争は何ら含まれてはいない。このことは、重商主義が次のようなものである限りにおいて、この重商主義の中に明らかに見てとれることである。つまり、これまでは生産の中で直接的に利益を確保するものであった資本に対して、重商主義は、この資本が新しい商業的な機能をもつに至ったことを表現している限りにおいて。一般的にいえば、国家による統制や調整が消滅したり減少したりすることになるのは、人手〔労働力〕が豊富に供給され、市場が常になく拡張する場合においてのみである。すなわち、《資本主義が、十分に大きい種々の相対的極限の中で、極めて少数の公理によって作動している場合においてのみである》。こうした状況は、ずっと以前から存在しなくなってきた。このような事態になってきた決定的因子と見なされなければならないのは、強力な労働階級の組織化である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303」河出書房新社)

「この階級は、安定した高度の雇用水準を要求し、資本主義にその公理を増加することを強制するからであり、これと同時に資本主義はたえず拡大する規模において自分の種々の極限を再生産しなければならなかったからである(中心から周辺へと向かうおきかえの公理)。資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)

資本主義はロシア革命に代表される労働者の団結と抵抗に直面した。けれども、「労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々」を敢えて「付け加える」ことによって、逆に資本主義は新しい「公理」をたえず付け加える術を学んだ。この進化は測り知れないほど大きい。ロシア革命を消化した資本主義はそれまでになかった堂々たる自信を付けるに至った。そして今や「常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている」。

マルクスから少し引いておこう。

「富を創造する活動の抽象的一般性とともに、こんどはまた、富として規定される対象の一般性、生産物一般、もしくは、やはり労働一般ではあるがしかし過去の対象化された労働としての労働一般〔というカテゴリーが生じてきた〕」(マルクス「経済学批判序説」・「経済学批判・P.317~318」岩波文庫)

マルクスのほんの一節を見た。従って今や、ドゥルーズ&ガタリが述べる、「資本主義/脱コード化/公理系」の仕組みについての理解は容易である。

「マルクスは資本主義の定義が問題となったとき、包括的で無規定のただ一つの<主体性>というものの登場を語ることから始め、それが主体化のあらゆるプロセス、『あらゆる活動を無差別に』資本化するとした。つまり『生産に携わる活動全体』、『富の唯一の主体的本質──』を資本化するのだ。そしてこの唯一の<主体>は、もはや個々の質的状態においてではなく、任意の<客体>においてえずからを表現する。『富を作り出す活動の抽象的な普遍性とともに、富という対象の普遍性が現われる。それこそが生産物や労働と呼ばれるものであり、過去の物質化された労働にほかならない』。資本は循環することによって、社会全体に十全に適合する主体として構成される。さて新たな社会的主体性はまさに、脱コード化した流れがそれらを接合する作用から溢れ出て、国家装置がもはや追いつくことのできない脱コード化のレベルに達するとき初めて構成される。《一方で》、労働の流れは、もはや奴隷制や役務として定義されるのではなく、自由な裸の労働とならなければならない。《もう一方で》、富とはもはや土地、商品、金銭といったものではなく、等質で独立した純粋資本とならなければならない。そしておそらく、最低限のこの二つの生成は(というのはこの他の流れも合流するのだから)、それぞれの線の上に多くのさまざまな偶然と要因を介入させることだろう。だがこれらがただ一度抽象的に接合されれば、たがいに普遍的主体と任意の客体とを与え合い、資本を構成するだろう。資本主義は、質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.207~208」河出文庫)

「言いかえるなら、資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成されるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)