白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月十七日(2)

2017年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

めりはりを付けよう。

「たとえば、プロレタリア文化についてあまりに多くのことを、あまりに軽々しく弁じたてる人々にたいしては、われわれは心ならずも、不信と懐疑の念をいだきがちである。われわれにとっては、手はじめには、真のブルジョア文化で十分であろう。手はじめには、とりわけまぎれもない前ブルジョア形の文化、すなわち、官僚的、農奴的などの文化なしにやっていければ、まずまずであろう。文化の問題では、性急と奔放は、なによりも百害がある」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.508」大月書店)

「時を失わずに、正気にかえらなければならない。──われわれはとにかくなにかを知っているとか、あるいは真に新しい機構を、真に社会主義的、ソヴェト的等々と呼ぶにあたいする機構を建設するための要素を、われわれはかなり大量にもっているとか、考えることは、なによりも有害であろう」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.509」大月書店)

「われわれは、もう五年間もわれわれの国家機構に空騒ぎしてきたが、それはまさに空騒ぎであって、五年たって立証されたことは、それが役にたたぬこと、あるいはそれが無益なこと、あるいはそれが害になることだけであった。それは空騒ぎであって、仕事をしているようにみせかけてきたが、実際にはわれわれの施設やわれわれの頭脳をだめにしてしまったのである。いまや、事態をかえるべき時である。量はすくなくても、質の高いものを、という準則をとらなければならない。しっかりした人材があたえられる見込みがすこしもないのにいそぐよりは、二年あとでも、あるいは三年あとでもよい、という準則をとらなければならない」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.511」大月書店)

「率直に言おう。労農監督部は、現在のところ、いささかも権威をもっていない。わが労農監督部の機関ほどわるくつくられている機関はなく、また、現在の条件のもとではこの人民委員部の責任を問うことができないことは、だれでも知っている。──私の考えでは、職員の定員のあらゆる一般的な基準は、ただちに、また決定的に、一掃すべきである。労農監督部の職員は、まったく特別にえらび、もっとも厳重な審査にもとづいたうえでなければ、えらんではならない。仕事がいいかげんにおこなわれ、これまたなんの信頼の念もおこさせないような人民委員部、またその言葉が無限に小さな権威しか持ちえないような人民委員部をつくったところで、実際になんの役にたとうか?このようなことから抜けでることが、われわれがいま念頭においているような種類の改造における、われわれのおもな任務であるとおもう」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.512」大月書店)

「私は、労農監督部の現在の指導者またはこの部に関係している人のうちのだれにむかっても、労農監督部のような人民委員部は、実際になんの必要があるのかを、彼が良心にしたがって私に告げることができるかどうか、聞きたい。私がおもうには、この質問は、彼が節度感を見いだす助けになるであろう。わが国でずいぶんたくさんおこなわれた改組の一つ、つまり、労農監督部のような見込みのない事がらの改組には携わりがいがないか、あらゆる人に尊敬の念をおこさせる(その等級や称号がそれを要求するからというだけでなしに)ことのできるようなものを創出することを、真にその任務として設定するか、どちらかである。もし忍耐する覚悟がなく、この問題に何年かをかけないのなら、全然これに取りかからないほうがよい」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.513」大月書店)

「私の考えでは、われわれが最高労働研究所その他のような、きわめて急ごしらえのいろいろの施設のうちから、最小限のものをえらび、それが適当に組織されているかどうかを検討すべきであり、それが真に現代科学の任にたえ、われわれに科学の保障するものをすべてあたえうるようになっているときにのみ活動をつづけることをゆするべきである。そうすれば、何年かのうちに、その仕事を適当にすることができるようになる施設を、──言いかえれば、労働者階級、ロシア共産党、わが共和国の全住民大衆の信頼を博しながら、系統的に、確固として、われわれの国家機構の改善のために活動することのできる施設をもつことを期待するのは、けっして空想的ではないであろう。その準備活動は、いますぐにもはじめることができよう。もし労農監督部が、いまの改造案に同意するならば、同部は、ただちに準備に取りかかり、いそがずまた必要なばあいには、かつてやったことをやりかえるのを拒否することなく、その任務を完了するまで一貫して活動することができるであろう」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.513~514」大月書店)

「わが国の新しい労農監督部は、フランス人がpruderie〔猫かぶり〕と呼び、われわれが笑うべき気取り、または笑うべきもったいぶりと呼んでさしつかえない性質、また、われわれの官僚主義に、すなわちソヴェト官僚主義にも党官僚主義にも極度に有利な性質からは、へだたっているものとおもう。ついでに言っておけば、われわれの官僚主義は、ソヴェト機関だけでなく、党機関にもある」(レーニン「量はすくなくても、質のよいものを」・「レーニン全集33・P.516」大月書店)

「スターリンは粗暴すぎる。そして、この欠点は、われわれ共産主義者のあいだや彼らの相互の交際では十分がまんできるものであるが、書記長の職務にあってはがまんできないものとなる。だから、スターリンをこの地位からほかにうつして、すべての点でただ一つの長所によって同志スターリンにまさっている別の人物、すなわち、もっと忍耐づよく、もっと忠実で、もっと丁重で、同志にたいしてもっと思いやりがあり、彼ほど気まぐれでない、等々の人物を、この地位に任命するという方法をよく考えてみるよう、同志諸君に提案する。この事情は、とるにたりない、些細なことのようにおもえるかもしれない。しかし、分裂をふせぐ見地からすれば、また、まえに書いたスターリンとトロツキーの間柄の見地からすれば、これは些細なことではないとおもう。あるいは、些細なことだとしても、決定的な意義をもつようになりかねないそういう種類の些細なことだとおもう」(レーニン「大会への手紙~覚え書のつづき~・一九二二年十二月二十四日付の手紙への追記・一九二三年一月四日」・「レーニン全集36・P.704~705」大月書店)

コジェーヴ。ヘーゲル「パロディ化」(ギャグ化ではない)大作戦の続き。

「ところで、すでに見て来たように、《実在する世界》における(《未来》が優位を占める)《時間》の現前が(他者の《欲望》に向かう)《欲望》と呼ばれ、それを実現する《行動》が《人間》の存在そのものである以上、この《欲望》は人間特有の《欲望》であった。したがって、《世界》における《時間》の実在的現前が、《人間》と呼ばれることになる。《時間》は《人間》《であり》、《人間》は《時間》《である》。『精神現象学』において、ヘーゲルは『人間』という語を避けており文字でもってはっきりとこう述べているわけではない。だが、『イエナの講義』では彼は『《精神》は《時間》である』と述べている。ところで、『《精神》』はヘーゲルにおいて(そしてとくにこの文脈では)『《人間の》《精神》』或いは《人間》を、ことに集団としての《人間》を、つまり《国民》ないしは《国家》を意味し、結局は《全人類》、すなわち時間的-空間的に現存在する総体における、つまりは《世界史》の総体における《人類》を意味する」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.205」国文社)

「《時間》(むろん、《歴史的時間》、それも《未来→過去→現在→》という律動をもつ《時間》)は経験的、すなわち空間的な全実在における《人間》《である》。すなわち、《時間》は《世界-内-人間》-の-《歴史》《である》。実際、《人間》が存在しなければ《世界》の中に《時間》は存在しないであろうし、《人間》を宿さぬ《自然》は《実在する》《空間》でしかないであろう。動物もまたたしかに欲望をもっており、自己の欲望に基づき行動し、実在するものを否定する。すなわち、人間とまったく同じように飲みかつ食べる。だが、動物の欲望は《自然的》である。それは《存在する》ものに向かい、したがって存在するものによって《限定され》ている。したがって、《このような》欲望に基づき遂行される否定する行動は《本質的な》否定を行うことができず、存在するものの《本質》を変えることができない。したがって、その《全体》において、すなわちその《実在》において、《存在》はこのような『自然的』欲望によっては変様されず、それに基づいて本質的に変化するわけでもない。《存在》は自己《同一》に留まり、そのようなわけで《空間》であり、《時間》ではない。たしかに動物も自己の生きる《自然的世界》の様相を変貌せしめるが、しかしその動物は大地から受け取ったものを大地に返し死んで行く。その子孫もこれを《同じように》反復する以上、《世界》の内に生ずる変化もまた同じように反復される。したがって、《自然》全体としては、或るがままに留まる。それに反し、《人間》は自己の《闘争》と《労働》という《否定する行動》によって、すなわち他者の《欲望》に向かう、つまり《自然的世界》には実際に現存在していない何物かに向かう《非》-自然的な《人間的欲望》から生まれる《行動》によって、《本質的に》《世界》を変貌せしめる。ただ《人間》だけが《本質的に》創造し破壊する。したがって、自然的実在は、人間的実在を含まぬ限り《時間》を含まぬことになる。ところが、人間はみずから作り上げた《未来》の観念に基づき本質的に創造し破壊する。この《未来》の観念は、実在的現在において、他者の《欲望》に向かう《欲望》の形で、すなわち《社会的》《承認》を求める《欲望》の形で現われる。そもそも、《このような》《欲望》から生まれる《行動》が《歴史》を生み出すのであり、したがって、《歴史》の存在しないところに《時間》は存在しないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.205~206」国文社)

「以上のことから、『《時間》は経験的に現存在する《概念》そのものである』という文は、《時間》が《世界-内-人間》及びその《実在する歴史》《である》、ということを意味することになる。だが、ヘーゲルはまた『《精神》は《時間》である』とも述べている。すなわち、《人間》は《時間》《である》とも述べている。我々はこれが意味するものを今しがた見て来たばかりであった。それによれば、《人間》は他者の《欲望》に向かう《欲望》、すなわち《承認》を求める《欲望》であり、すなわちこの《承認》を求める《欲望》を充足せしめるために遂行される否定する《行動》、すなわち尊厳を求める血の《闘争》、すなわち《主》と《奴》との関係、すなわち《労働》であり、すなわち終局において普遍的で等質な《国家》と、この《国家》において、そしてこの《国家》により実現される《全人類》を開示する《絶対知》とに至る歴史的発展である。要するに、《人間》が《時間》《である》と述べることは、ヘーゲルが『精神現象学』において《人間》に関して述べたことをすべて述べることにほかならない。それはまた、現存在する《宇宙》、及び《存在》それ自身が、このように捉えられた《人間》が存在《可能》であり自己《実現》できるようなものでなければならない、と述べることである。したがって、前に挙げられた他の図式的な定式がプラトンやアリストテレス等の全哲学を要約しているように、《精神》と《時間》とを同一化するこの一文は、ヘーゲルの全哲学を要約しているわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.206」国文社)

「だが、このような図式的な定式においては、《概念》が問題となっていた。ここでヘーゲルもまた単に『《精神》は《時間》である』と述べるばかりか、『《時間》は〔経験的に〕現存在する《概念》である』とも述べている。たしかに、これは同一の事態を二つの異なった表現で述べたものである。《人間》が《時間》《である》ならば、そして《時間》が『経験的に現存在する《概念》』《である》ならば、《人間》は『経験的に現存在する《概念》』《である》と述べることが可能となるし、実際《人間》はそうである。すなわち、《世界》において言葉を話す唯一の存在者である以上、人間は受肉した《ロゴス》(或いは《言説》)、つまり肉となりそれによって《自然的世界》において経験的な実在として現存在する《ロゴス》《である》。《人間》は《概念》の〔経験的〕《現存在》であり、『経験的に現存在する《概念》』は《人間》である。したがって、《時間》が『経験的に現存在する《概念》』であると述べることは、──とりもなおさず、ヘーゲル『精神現象学』において捉えたように《人間》を捉える限り、《時間》が《人間》である、と述べることである。したがって、『精神現象学』においてヘーゲルが《人間》について述べていることは、すべて《時間》についても妥当することになる。逆に、《世界》における《時間》(すなわち《精神》)の『現われ』ないし『現象学』に関して述べうることは、──すべてヘーゲルが『精神現象学』において述べていることになる。以上のことから、《時間》と《概念》との逆説的な同一化を把握するためには、『精神現象学』全体を知らねばならぬことになる。一方において、問題となっている《時間》がそこでは《過去》を通り《現在》を限定する《未来》が優位を占める《人間的、歴史的な時間》であると知らねばならず、他方では、ヘーゲルがどのように《概念》を定義しているかを知らねばならない。したがって、私には、ヘーゲルにとり《概念》が何であったかを手短に述べることが残されているわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.206~207」国文社)

少し休憩しよう。身も心も持ちそうにない。

「元来人間というものは自己の力量に慢じて皆な増長している。少し人間より強いものが出て来て窘(いじ)めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない」(夏目漱石「吾輩は猫である・P.12」新潮文庫)


自由律俳句──二〇一七年二月十七日(1)

2017年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年二月十七日作。

(1)求人広告ふやけている駅ビル前の水溜まり

(2)葬式出せそうにない恐縮している

(3)干されても干されても死んだ

(4)売りに行ったきり探しに出る花街

(5)髪もてあます新学期バケツを運ぶ

(6)謝罪に行った殺された

☞「デヴィッド・ヒューム。バークレーが出て物だけは打崩したが、心と神だけは依然として存在を認識せられていた。しかるにここに蘇格蘭地(スコットランド)からデヴィッド・ヒュームなる豪傑が出て来て研究に一層歩を進めて遂に心も神も一棒に敲(たた)き壊したのは痛快の至りである。彼の第一の著書は『人性論』(倫理問題に向って実験的方法を試みたるもの)で、これは彼の大著述であってしかも彼の二十五、六歳の時の製産物である所を見ればよほど頭脳の勝(すぐ)れた人に相違ない。不幸にしてこの大著述は、折角(せっかく)の労力にも関せず、世間の人から一向注意を惹(ひ)かなかった。彼は後年自家の学説を『死生児』と評したのはこれがためである。そこで彼はこの著述を書き直して一般の人にも解るようにした。それが『人間の堕性に関する研究』となり、『情感論』となり、また『道徳原理に関する研究』となった」(夏目漱石「文学評論(上)・P.75~76」岩波文庫)

「彼の説によると、吾人が平生(へいぜい)『我』(イゴー)と名づけつつある実体は、まるで幻影のようなもので、決して実在するのではないのだそうである。吾人の知る所はただ印象と観念の連続に過ぎない。ただこの印象や観念の同種類が何遍となく起って来るので、修練の結果として、これらの錯雑紛糾するものを纏め得るために、遂に渾成(こんせい)統一の境界に達するのである。だから心などいう者は別段にそれ自身に一個の実体として存在するものでないというのがヒュームの主張の一つである。次に、因果の概念というのもまた習慣の産物として出現するに過ぎないのである。吾人はここの甲という印象を受ける。次に乙という印象を受ける。かくして甲乙従伴する印象を何遍(なんべん)となく同一の順序に経験するうちには、甲の印象を受けるや否や習慣の結果として自ずから乙の印象を期待するようになるのが自然の数(すう)である。かくの如く因果の念という者は習慣から出て来るものだから、もしこれを応用しようとするならその習慣を構成する経験の範囲内に限られるるのは当然の話である。経験的に与えられた己知件(きちけん)から出立して漫(みだ)りに経験の領域以外に逸出して、徒(いたず)らに超絶的の議論に移るのは明かに不法である。従って神とか不滅とかを口にするのは不法である。これがヒュームが世人からして懐疑派といわるる所以(ゆえん)である」(夏目漱石「文学評論(上)・P.76~77」岩波文庫)

「さてこの懐疑という態度は英国人全体の態度としては受取り難いかも知れぬが、十八世紀の英国人の態度としては調和している所がないでもないように思われる。なるほどヒュームのように哲学的に理論的にここまで押し詰めた者は沢山あるまい。また多くの人間のいる事だからその中には信心家も無論あったろう。忠実なる基督教信者もあったろう。しかしながら概して社会の調子が懐疑的ではあるまいかと察せられる。信仰が余り強くなって、世の中はこんな者だと中途で妙に悟(さと)ったような所からいっても、根本的の事は分らなくても構わんというような調子のある処からいっても、むやみに物に熱中するのを軽侮するような気風からいっても皆この懐疑的な態度を具えているように見える。さて全体の社会にこんな空気が充満しているというと哲学的に物を研究するにもこんな気風で手を著(つ)け出す。こんな気風で手を著け出して、こんな方面から物を見、物を考えて煎(せん)じ詰(つ)めて行くと、やはりヒュームのような結論に達しはせぬだろうか。しかも一度学説的に此処(ここ)まで到達して見ると、一時の臭味に感染した感情的なそもそもの始まりは綺麗(きれい)に消えて、全く普遍的に効力のあるような、古今東西に通ずるような、抽象的な理論となってあらわるるのではなかろうか。この出来上がった所だけを見てヒュームの考は一代の気風を反射しておらぬという事はいえまいと思う。果してそうであるとすればこんな哲学者のような、普通の人に直接の興味を与えぬ事でも何らかの興味があるのみならず、文学を述べる前にヒュームの哲学を一言述べるのはかえって適切なことと思われる。ヒュームの感染したような気風が同じく文学の上にもあらわれて来ればなお更面白い事だと思う」(夏目漱石「文学評論(上)・P.77~78」岩波文庫)

今上げたセンテンスをもう少し要領よくまとめたものが次に相当する。

「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則というものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造というと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない」(「文芸の哲学的基礎」・「漱石文芸論集・P.48」岩波文庫)

しかし漱石に課せられた課題はそれだけではない。勿論、当時の東京帝国大学の教壇に立って論じるだけでも特にこれといった問題はなかったばかりか、それだけでも相当大した成果であった。だが漱石は、その論理をただ単に披露して見せるだけでは物足らず、また、それだけでは何か本来の学問の姿とは違っていると考えていたふしがある。そしてこの「ふし」は折れているわけだが、折れた「ふし」なら折れた「ふし」のそのままを描くにはどうすればよいか。漱石がぶつかった問いは埋めようにも埋め切ることができない不可能な問いでもあった。だが、差し当たり実際に小説の中に溶かし込んで「実演して見せねばならない」と思っていたに違いない。次のようにこっそりとではあるが、しかし決定的な文章を拾うことができる。

「人間のうちで纏(まとま)ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片付いたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはり故(もと)の通りの自分だと平気で済ましているものが大分ある。のみならず一旦責任問題が持ち上がって、自分の反覆を詰(なじ)られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのは何故(なぜ)だろう」(夏目漱石「坑夫・P.23~24」新潮文庫)

「代助は人と対応している時、どうしても論理を離れる事の出来ない場合がある。それが為め、よく人から、相手を遣り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云うと、彼程人を遣り込める事の嫌いな男はないのである」(夏目漱石「それから・P.130」新潮文庫)

とはいえ、代助は性格的に「やさしい」ので「人を遣り込める事」が「嫌い」なのだ、と解しては途方もない誤解である。代助は学問を知っている。ゆえに論理をないがしろにする議論は、たとえ冗談といえども「感情的/飛躍的/暴力過剰」に映るほかない。粗雑な論理は余りにも馬鹿っぽく思えて疲労ばかり蓄積されるため、ただ単に避けるに過ぎない。むしろ代助の倫理的態度はこうだ。

「彼は元来が何方(どっち)付かずの男であった。誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にも露(むき)に抵抗した試(ためし)がなかった。解釈のしようでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付とも思われる遣口(やりくち)であった。彼自身さえ、この二つの非難の何(いず)れかを聞いた時、そうかも知れないと、腹の中で首を捩(ひね)らぬ訳には行かなかった。然しその原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く両(ふた)つの眼が付いていて、双方を一時に見る便宜を有していたからであった。かれはこの能力の為(ため)に、今日まで一図に物に向って突進する勇気を挫(くじ)かれた。即(つ)かず離れず現状に立ち竦(すく)んでいる事が屢(しばしば)あった。この現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのではなくて、却(かえ)って明白な判断に本(もとづ)いて起ると云う事実は、彼が犯すべからざる敢為(かんい)の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて解ったのである」(夏目漱石「それから・P.251~252」新潮文庫)

ひと言で強引にまとめれば「代助=近現代の知識人=第二次大戦後の日本人」ということになろう。だからといって、何も古いタイプの評論家・批評家のように「決められない日本人から決められる日本人へ変わらなければならない」という論理は本当に現実的だろうか。逆に大いに疑問なのだ。というのは、余りにも単純過ぎるその種の議論は、ともすればいとも安易に軍事大国への再武装へ傾斜していくばかりで、傾斜すればするほど、他の諸大国から様々な暴圧を甘受しないわけにはいかなくなる。第一、貨幣流通も石油輸入も遮断されてしまう。日本人は全員死ぬか、できる限り早いうちに間違いを認めるほかない。それでもなお覚吾の上で再武装路線を決定したとしよう。それが決定されるや否や世界中で、どこへ行く時もどこへ行っても、ありとあらゆる軍事大国からすべての日本人が厳重な身体検査の対象になる。七十年以上も米軍の下でとことん「つかいぱしり」扱いされてきた隷属者根性に満ち満ちた奴隷精神の塊と化した国家だ。武装して軍事独立を果たせば一体どんなことを考え始めるだろうか。他の諸国民は、もちろん同盟国の一般市民も含めて、そんなふうに考えるのは極めて妥当かつ普通だろう。日本はもう長い間ずっと「去勢されて」きた。が、軍事大国への意志を完全に失ってしまったわけではまったくない。いろいろな形で残されている。アメリカを含めて世界が恐れていることは、余りにも長い間、実際に奴隷扱いしてきてしまった国民国家に対して、国際法上、軍事武装の権限をあっけなく与えてしまうことだ。完全に死んだわけではない「のら犬」に再武装の権限を与える。北朝鮮をもう一つこしらえる。誰がそんなことを許すのか。そのようなわかり切った条件は、空前絶後、いっさい与えられることはない。だが、どうしてもと言うのなら、何が何でも欲しければ、先にこっそり再武装して全世界に向けて単独で奇襲でも掛けるよりほか方法がないだろう。しかし一体どのような理由でか。

「彼の今の気分は、彼に時々起る如く、総体の上に一種の暗調を帯びていた。だから余りに明る過ぎるものに接すると、その矛盾に堪えがたかった」(夏目漱石「それから・P.132」新潮文庫)

「その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。その不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であった。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質(たち)であった。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じていた。相互が疑い合うときの苦しみを解脱(げだつ)する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈していた。だから、神のある国では、人が嘘を吐(つ)くものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるという事を発見した。そうして、彼はこれを一(いつ)に日本の経済事情に帰着せしめた」(夏目漱石「それから・P.132~133」新潮文庫)

「神にも人にも信仰のない国柄である」、ゆえに「神にも人にも信仰のある国柄へ」変えようとして実際に変わった。変えるに耐えるだけのエネルギーがあった。しかし結果的に完成したのは「大日本帝国」並びに「大東亜共栄圏構想」であった。強大な軍事力を背景にして近隣諸国から遠く欧米に対してもどんどん脅迫し始めた。どうなったか。完膚なきまでに叩きのめされた。原爆投下に至ってはほとんど「巨大な人体実験」という有り様。しかしなぜ、そういう事態を発生させることができたのか。様々な条件が、ほとんど無数といってもいいくらいの諸条件が、徐々にではあるがきちんと整え上げられなければならない。それを可能にしたのは何か。とてもではないが「精神論」だけでは語れない条件があり余るほどあったのだ。なかでも、群を抜いて整備整頓されていた官僚主義的機構の問題。江戸時代から続く学問のための諸機関が果たしてきた役割の中にも、決して見逃すことのできない大きな価値が見い出される。手際の良過ぎる「反省なき習慣付け」という奇妙な作法。二〇世紀の戦争でも革命でも反革命でも、あらゆる軍事行動に伴って必ず要求されてくるのは常にそのことだ。戦争という行為は、何も強者だけの特権ではなく、むしろ弱者あるいは弱者に成りつつある人々が、現在置かれている境遇から脱却して立場を逆転させようとする巨大なエネルギーを一身に引き受け集中させる「魅力」を与え得る。ニーチェのいう「ルサンチマン」(劣等感/復讐欲)という「負の感情」をその精神的支柱とする。だから今や情報は金になる。いつ、どこで、誰が、どのようなことを考え、実施しようとしているか、あるいは実際に実施したか、その結果と影響はどうであるか、等々。価値が高く質も高い情報は高価で貨幣と交換される。資本主義社会の鉄の掟の一つである。

官僚主義的機構研究。カフカの続き。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができる──でも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)

「柵」。この「柵」は動く。可動性を持つ。ドゥルーズ&ガタリはこう言う。

「司法は、むしろたえず伝わって来る音(言表)のようなものである。《法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法の機械状鎖列の内在性のなかにのみ存在する》。『訴訟』とは、あらゆる先験的な正当化をこなごなにすることである。欲求のなかには裁くべきものは何もない。裁判官自身が欲求で充満している。司法も単に欲求に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。隣接したものは、連続したものに対立するのではない。むしろその逆で、前者は後者の部分となる構築物、しかも無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある。──つまりそれはいつでも、隣りにある事務室、隣りの部屋である。バルナバスは《事務局に入って行きます。でもそこはやはり全事務局の一部分でしかなく、さらに柵がいくつもあるし、その先にはまだ別の事務局がいくつもあります。彼はかならずしもさらに先へ行くことを禁じられているというわけではありません──こうした柵をあなたもある決まった境界のように思ってはいけません──だから彼が通りすぎる柵もありますし、そうした柵は彼のまだ通り抜けていない柵と違っているようには見えません》。司法とは、可動的でいつでも位置が動く境界線を持った、欲求のこの連続体である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.103~104」法政大学出版局)

「鎖列には二つの面があるだけではない。一方で鎖列は分節的であり、隣接したいくつかの分節に拡がるか、あるいはそれ自体がいくつかの鎖列である分節にわかれている。この分節性は、多かれ少なかれ固いかしなやかなものでありうるが、しかしこのしなやかさは固さと同じように束縛するものであり、固さよりも窒息させる作用を持っている。たとえば、『城』では、隣接する事務局のあいだには可動的な柵しかなく、バルナバスの野心はそれによって一層狂気的になる。入って行く事務局のうしろに、かならずもうひとつの事務局があり、誰かが見たクラムのうしろには、いつももうひとりのクラムがいる。分節は権力であると同時に領域である。また分節は、欲求を領域化し、固定し、写真にし、写真またはぴったりあった衣服にはりつけ、欲求にひとつの使命を与え、そこからこの欲求と結びつく超越性のイメージを抽出することによって──このイメージと欲求自体が対立するほどに──、欲求を把握する。われわれはこの意味において、いかにそれぞれのブロック=分節が、超越的な法の抽象化によって規制されている、権力・欲求・領域性・領域回復の具体化であったかを知った」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.176~177」法政大学出版局)

「しかし他方では、同じように、ひとつの鎖列には《非領域化のいくつかの点》があると言わなくてはならない。あるいは、これと同じことになるが、鎖列にはいつも《逃走の線》があると言わなくてはならない。この逃走の線によって鎖列自身が逃走し、おのれを脱出させるその言表行為またはその表現と、デフォルメしたり、変貌したりするその内容とを、同じように消失させると言わなくてはならない。あるいはまた、これも同じことになるが、鎖列は、分節を溶解させ、欲求をそのあらゆる具体化・抽象化から解放させるか、少なくともそういう具体化・抽象化に対抗し、あるいはそれらを破壊するために積極的に闘う、《限界のない内在性の領域》のなかに拡がるか浸透すると言わなくてはならない。この三つは、まったく同じことである。つまり、司法の領域は超越的な法に対立し、連続した逃走の線はブロックの分節性に対立する。また、非領域化の二つの大きな先端があるが、そのひとつは拡がって行く音または強度を持つ言語のなかへと表現をもたらし(写真に対して)、もうひとつの先端は(欲求のうなだれた頭に対して)、《ひっくり返りながらまっさかさまになって逃走する》という内容をもたらす。内在的な司法、連続した線、それに先端または特異性がきわめて能動的・創造的であるということは、それら自体が鎖列化され、機械を作るその仕方によって理解される」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.177~178」法政大学出版局)