二〇一七年二月七日作。
(1)被災者いびり雪降る
(2)もう生きてきました刺してください
(3) 流した遺書が流されてきたシスター
☞「鉄の行使がすでにしつこく暗示していたように、筋肉と鉄との関係は相対的であり、われわれと世界との関係によく似ていた。すなわち、力が対象を持たなければ力でありえないような存在感覚が、われわれと世界との基本的な関係であり、そのかぎりにおいてわれわれは世界に依存し、私は鉄塊に依存していたのである。そして私の筋肉が徐々に鉄との相似を増すように、われわれは世界によって造られてゆくのであるが、鉄も世界もそれ自身存在感覚を持っている筈もないのに、愚かな類推から、しらずしらず鉄や世界も存在感覚を持っているようにわれわれは錯覚してしまう」(三島由紀夫「太陽と鉄・P.37」中公文庫)
「彼は三千代と自分の関係を、天意によって、──彼はそれを天意としか考え得られなかった。──醗酵(はっこう)させる事の社会的危険を承知していた。天意には叶(かな)うが、人の掟(おきて)に背(そむ)く恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然(りつぜん)とした」(夏目漱石「それから・P.211」新潮文庫)
「ここで問題としているのは蜂起(ほうき)の『日時』のこと、狭い意味での蜂起の『時機』のことではない。そういうことは、労働者や兵士との、《大衆》との接触をたもっている人々の一致した発言だけがきめることである」(レーニン「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない・一九一七年九月十二~十四日」・「レーニン全集26・P.5」大月書店)
「ブルジョアとしての《労働する者》は、人間的現存在の《断念》を前提とし、──それを条件づける。《人間》は《私有財産》や《資本》の観念に自己を投企する。この私有財産や資本は──まったく《財産家》が生み出した仕事でありながら──この財産家から独立した存在となり、《奴》を隷属せしめた《主》のように、彼を隷属せしめる。がその際、隷属が今後は《労働する者》自身によって意識され自由に受け容れられている点が異なっている。(付言するならば、マルクスにとってもそうであったが、ヘーゲルにとっても、《ブルジョア》の世界の中核の現象は、富裕なブルジョアによる労働者すなわち《貧乏な》ブルジョアの隷属ではなく、《資本》による《双方》の隷属であることがここに見て取れる)」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.83~84」国文社)
「犠牲者たちも、状況に応じて浮浪者、ユダヤ人、プロテスタント、カトリック教徒というふうに、つぎつぎに入れかわることがあるのと同様に、そのうちのどれかが、自分こそ規範としての力を持つと感じるようになれば、今度は、同じやみくもの殺人への欲求へとかられて、殺人者の地位にとってかわることもありうるのだ。天性の反ユダヤ主義というものはありえず、生れつきの反ユダヤ主義者などはもちろん存在しない。ユダヤ人の血を求める呼び声が第二の天性になってしまった大人たちは、ユダヤ人の血を流すことを命じられている若者同様に、なぜにユダヤ人を血祭にあげなければならないか、ほとんどわかっていない。それを弁えている上層部の黒幕たちは、もちろんユダヤ人を憎んでもいないし、彼らの命令に従うものを愛しているわけでもない。しかし経済的にも性的にも満足できない追随者たちははてしなく憎み続ける。彼らは充足を知らないが故に、緊張を解くことを耐えがたく思うのだ。こう見てくれば、じっさいこの組織的な殺人強盗の輩を鼓舞しているのは、一種の動的な理想主義なのである。彼らは掠奪するために出かけて行くくせに、それにごりっぱなイデオロギーを結びつけ、家族や祖国や人類を救うためなどと駄弁を弄する。しかししょせん彼らは欺かれた者にすぎないので──そしてこのことを彼らはすでにうすうす感づいてはいたのだが──、彼らの哀れな合理的動機、つまり合理化がそれに奉仕するはずの掠奪〔という目的〕は、結局はまったく抜け落ちてしまい、〔正当化の手段だった〕合理化自体が本来の意志に反して大真面目なものになってゆく。この合理化がはじめから理性によりも親近性を持っていた暗い衝動が彼らをあます所なく占有する」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.357~358」岩波文庫)