さて、以上の引用に目を通したら休日を取ろう。その間、できれば二回ほど読み返しておくほうが良いかも知れない。そうでないと小説を「単なるストーリー」として読むことはできても、カフカ作品の価値を理解する方向で読解したことには全然繋がらないからである。そんなことではハーバード、ケンブリッジ、エコール・ノルマル、北京、モスクワなどの超名門大学では相手にされない。
「これらの若い女たちのおのおのがそれぞれのセリーのなかで占めている顕著な役割は、彼女たち全部がひとつの異常なセリーを構成するようにさせている。この異常なセリーは、それ自体で増殖し、またあらゆる分節を横切り、それに衝突する。彼女たちのひとりひとりが、いくつかの分節の蝶番のところにいる(たとえば、弁護士と被告ブロックとKとを同時に愛撫するレーニ)だけではなくそれ以上のものがある。彼女たちのひとりひとりが、特定の分節の視点からは、本質的なもの、つまり、連続したものの無限の力としての『城』、『訴訟』と《接触》し、《関係》があり、それらに《隣接》している。(オルガは次のように言う。《私は単に従僕たちを通じて城と繋がりがあるだけでなく──父の努力を引き続きうけついでいることによっても城と繋がりがあるんです。こうした事情を察したら、世間の人は、私が従僕たちからお金を受け取って、それを私たち一家のために使っていることも赦してくれるかもしれぬでしょう》)。したがって、これらの若い女たちのおのおのが、Kに援助を申し出ることができる。彼女らに活気を与えている欲求においても、彼女たちが惹起する欲求においても、《彼女たちは、司法・欲求・若い女・娘のアイデンティティの最も深いものに対して証言する》。若い女は司法に似ていて、原則がなく、偶然である。《裁判所は君が来れば君を迎え入れるし、君が行けば君を去らせるのだ》。また、《役所の決定は若い娘みたいに内気だ》という、『城』の村で語られるきまり文句がある」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.130」法政大学出版局)
「裁判官たちは、《子どものように》ふるまい、考える。ちょっとした冗談が、抑圧の方向を変えることがある。司法は必然ではなく、むしろ偶然であり、ティトレリは司法のアレゴリーを盲目的な運命、翼のある欲求として描いている。司法は安定した意志ではなく、動く欲求である。それは奇妙だ、正義の女神は秤がゆれないようにと、じっとしているはずだから、とKは言う。しかし聖職者は別のところで次のように説明する。《裁判所はお前には何も要求しない。裁判所はお前が来ればお前を迎え入れるし、そしてお前が行くならばお前を去らせるのだ》。若い女たちは、その裁判所の補助員という身分を秘密にしているから正体がはっきりしないのではなく、彼女たちが全く同一の多原子価的な欲求のなかで、同じように裁判官と弁護士と被告の意のままになっていることによって、まさしくおのれが補助員たることを明らかにしているのだ。『訴訟』全体に欲求の多原子価性が貫流しているのであって、これがこの作品にエロチックな力を与えている」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.100~101」法政大学出版局)
「抑圧は、抑圧する側においても抑圧される側においても、司法に属するときはそれ自体がかならず欲求である。そして司法の当局は、罪をさがすのではなく《罪によって引き寄せられて、われわれ監視人を派遣せざるをえない》のである。当局は穿鑿し、探しまわり、踏査する。彼らは盲目であり、いかなる証拠も認めない。彼らが特に考慮するのは、廊下で起こった事件、広間のなかのひそひそばなし、アトリエのなかでの打ち明けばなし、ドアのうしろの物音、舞台裏のつぶやき、欲求とその偶然を表現するすべてのミクロな事件である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.101」法政大学出版局)
「Kは、紳士荘へと走るイェレミーアにつぎのように言うだろう。《気の心を突然つかまえたのはフリーダへの思慕からい。私もその点では君に劣らない、だから足なみをそろえて行こうよ》。Kは、或るばあいには淫奔な者として、或るばあいには貪欲なまたは関心のある者として否認されうる。そしてそれは、それ自体における司法のアイデンティティである。社会的投資はそれ自体がエロチックであり、逆に最もエロチックな欲求が政治的・社会的な投資を行ない、社会的な領野全体を求める。これ以上に適切な言い方はできない。そして、娘または若い女の役割は、彼女がひとつの分節を断ち切り、それを並ばせ、彼女が属している社会的領野を逃走させ、欲求の限りのない方向で、限りのない線上に逃走させるときに、頂点に達する。学生が洗濯女に暴行しようとする裁判所の扉を通して、彼女はK・裁判所・傍聴人、それを裁判全体を逃走させる。レーニは、伯父と弁護士と事務局長とが話をしていた部屋からKを逃走させるが、しかし、彼は逃げてもまだ自分の訴訟から離れることはできない。裏口を見つける者、つまり、遠くにあると思われていたものの隣接性を明らかにし、連続したものの力を復活させるか作り出すのは、ほとんど常に若い女である。実際『訴訟』の聖職者は、このことについてKを次のように非難する。《君はあまりにも他人に助けを求めすぎる、それも特に女こどもにな》」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.130」法政大学出版局)
「それでは、黒く悲しげな眼をした若い女はどういうタイプなのか。彼女たちは、しどけなくくびのあたりをあらわにしている。彼女たちはあなたに呼びかけ、あなたに身をすり寄せ、あなたのひざに坐り、あなたの手を取り、あなたを愛撫し、また愛撫され、あなたを抱き、あなたに歯形を残し、あるいは反対にあなたの歯形を残し、あなたを暴行し、あなたに暴行され、ときにはあなたを押さえつけ、あなたを殴りさえし、暴君的である。しかし彼女たちは、あなたが立ち去るままにしており、あるいはあなたを立ち去らせさえし、あなたを永久にほかの場所へ送ることによって、あなたを追い払う。レーニは、動物への名残りとして、水かきのある指を持っている。しかし彼女たちは、もっと特殊な混交を示している。つまり彼女たちは、一部は姉妹であり、一部は女中であり、一部は娼婦である。彼女たちは、結婚生活・家庭生活に反対であって、そのことはすでにカフカの物語に見えている」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.131~132」法政大学出版局)
さて、「審判」でも「城」でも、どちらでも「司法の可動性」が重要問題とされた。なぜ「可動的」なのか。それは司法の「欲求」であり、もっぱら「欲求」である以上、それは動くものだ。という単純ではあるが、実際に適用されれば途方もなく危険なものともなる、「勝手気ままな司法」が、カフカがまだ生きていた時代(一八八三〜一九二四年)に、既にどくどく胎動し始めていたということ、少なくともカフカはその動きを目の当たりにしているという点に注意を払いたいと思う。なおトランプ政権が打ち出して批判を浴びている政策、なかでも保護主義的経済政策はグルーバル資本主義に逆行している、という批判がある。けれども、白人低所得者層の大量失業に伴う保護主義的経済政策という選択は、グローバル資本主義に逆行するのではまったくなく、むしろ逆に、グローバル資本主義の側の当り前の要請として、逆説的には見えても不自然ではない「流れ」として、当然出てくるべくして出てきた経済政策にほかならないことははっきりさせておかねばならないだろう。緊張が続き過ぎたかも知れない。頭を休ませておこう。
「『あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそう仰しゃるの』『へえ元は何だったんです』『何でも天璋院様(てんしょういんさま)の御祐筆(ごゆうひつ)の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥(おい)の娘なんだって』『何ですって?』『あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいつた──』『成程。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の──』『あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の──』『よろしい分りました天璋院様のでしょう』『ええ』『御祐筆のでしょう』『そうよ』『御嫁に行った』『妹の御嫁に行ったですよ』『そうそう間違った。妹の御嫁に入(い)った先きの』『御っかさんの甥の娘なんですとさ』『御っかさんの甥の娘なんですか』『ええ。分ったでしょう』『いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか』『あなたも余っ程分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか』『それはすっかり分っているんですがね』『それが分りさえすればいいんでしょう』『ええ』と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言(うそ)を吐(つ)かねばならぬ事がある」(夏目漱石「吾輩は猫である・P.38」新潮文庫)
「少女は聞き返すと極端に大きく口を開け、彼がなにか突拍子もないことかおかしなことでも言ったというように手で軽くKを叩(たた)き、そうでなくても短かすぎるスカートを両手でたくしあげると、すでに上のほうでがやがや叫びが聞えるだけになったほかの少女のあとを一目散に追っかけていった。しかし次の踊り場のところでKはまた全部の少女と会うことになった。背の曲った子からKの意図を教えられて、彼を待ちうけていたのは明らかだった。全員が階段の両側に立ち、Kがそのあいだを楽に通りぬけられるようぴたっと壁にはりついて、手でエプロンのしわをのばしていた。こうやって人垣(ひとがき)をつくることといい、どの顔もが子供っぽさとふしだらさとの混合をあらわしていた。Kが通りすぎると少女たちはきゃっきゃっと笑いながらまた集って、先頭にはあの背の曲った子が立ち案内役を引きうけていた。Kが迷わずに行けたのは彼女のおかげだった。彼がさらにまっすぐ上っていこうとしたとき、彼女は階段の分れ道を示して、ティトレリさんのとこに行くにはこっちを通らなければだめだと教えた。画家のところへ行く階段は特に狭く、非常に長く、曲り角がなく、上まで全部見渡せて、上りつめたところがティトレリの部屋のドアだった。ドアの斜め上に小さな天窓がついているのでこれまでの階段と違い比較的明るく照らしだされているこのドアは、剥(む)きだしの角材を組合せたもので、その上に太い筆でティトレリという名前が赤く描きだされていた。Kがお供を従えて階段の中途に達するか達しないうちに、大勢の足音に誘われたのか上のほうでドアがちょっと開けられ、どうやら寝巻しか着てないらしい男がその隙間(すきま)に顔を出した。『おお!』、と彼は大勢が来るのを見ると叫び姿を消した。背の曲った子はうれしがって手を叩き、ほかの少女たちももっと早くKを上らせようとうしろからせきたてた」(カフカ「審判・P.196~197」新潮文庫)
「しかし、一行がまだ上りつめないうちに上のほうで画家はドアをすっかり開け放って、ふかぶかとお辞儀しながらKに入るよううながしていた。けれども少女たちは拒まれ、彼は一人として入れようとしなかった。いくら頼んでもだめで、許しがない以上彼の意志に逆らってどんなに入ろうと試みてもむだだった。ひとりあの背の曲った子が伸ばした彼の腕の下をかいくぐることに成功したが、画家は彼女を追っかけ、スカートをひっ摑(つか)むと、一度だけ自分のまわりをぐるっと回転させてやってから、ほかの少女たちがいるドアの外におろした。その間少女たちは、彼が持場を離れているあいだでも、一歩でも敷居を越して中に入ろうとしなかった。こういったことをどう判断していいのかKにはわからなかった。全体が仲のいい馴(な)れ合いのうちに行われているようにも見えた。ドアのそばの少女たちはかわるがわる首を伸ばしては、Kには理解できないさまざまなふざけた言葉を画家に投げつけていたし、背の曲った少女が彼につかまって飛んでいるあいだ画家のほうも大声で笑っていたのだ」(カフカ「審判・P.197~198」新潮文庫)
「Kはそのあいだに部屋を見まわした。こんなにみじめでちっぽけな部屋をアトリエと呼ぶなんて、彼一人では考えつかなかったろう。間口奥行きとも大股(おおまた)で二歩以上は歩けまい」(カフカ「審判・P.199」新潮文庫)
「しかし彼を不快にしたのは実は暖さでなく、むしろそのほとんど息もつけないような澱(よど)んだ空気なのだった。部屋はおそらくもう長いあいだ喚起されたことがないのだ。画家が自分は部屋に一つしかない画架の前の椅子に坐って、Kにはベッドに腰かけるよう頼んだことも、Kの不快感をさらに強めることになった。しかもKがベッドの端にしか坐らないのを画家は誤解したらしく、もっと楽にしてくれとすすめ、Kが躇(ためら)っているとご本人が出むいてきて、むりやり彼をベッドとふとんの奥深く坐らせてしまった」(カフカ「審判・P.205」新潮文庫)
ティトレリの「アトリエ」での対話。「城」と重なる部分が大いに読み取れるに違いない。
「『では、そうなればわたしは自由なんですか』、とKはためらいがちに言った。『そうです』、と画家は言った、『しかしそれは見せかけだけの自由、もっと正確に言えば、一時的な自由です。というわけは、わたしの知人たちがその一人である最下級の裁判官には、最終的な無罪宣告を下す権限がないのです。この権限を持つのは、あなたにもわたしにも、いやわれわれすべてにまったく手のとどかない一番上の裁判所だけです。それがどういうところか、われわれは知らないし、ついでに言えば、知りたいとも思いません。そんなわけで、告訴から自由にするという大きな権限はわれわれの裁判官にはないのですが、しかしかれらは告訴から外すという権限は持っています。すなわち、あなたがこんなふうにして無罪の判決をうけると、あなたは当座はたしかに告訴から離されるのですが、それはその後もずっとあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第すぐさままた効力を発揮するというわけです。わたしは裁判所と深い結びつきがあるのでこんなことも申しあげられるんですが、裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされているんです。真の無罪の場合には訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます。が、見せかけの無罪の場合は事情が違う。書類についていえば、潔白の証明書、無罪の判決、無罪判決の理由の分だけそれがふえたという以上の変化は起っていません。その他の点ではしかしそれは依然として手続の中にあって、裁判所事務局間のたえまのない交渉にうながされるまま、上級裁判所に送付されたり、下級裁判所に差し戻されたりしながら、大小さまざまの振幅、大小さまざまの渋滞をへつつ、上に下に揺れ動いているわけです。この道筋は予測もつきません。外から見れば、すべてはとうに忘却され、書類は紛失し、無罪判決は完璧(かんぺき)である、という外見を呈していることがよくあります。事情に通じている者ならそんな外見に欺(だま)されやしません。一つの書類でもなくなったわけでなく、裁判所には忘却なんてことは存在しないのです。そしてある日──だれにも予期できません──どこかの裁判官が書類をいつもより注意深く手にとって、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、ただちに逮捕せよと命じるわけです。いま申し上げたのは、見せかけの無罪判決と新しい逮捕のあいだには長い時間が経過すると仮定した場合の話で、事実それはありうることだし、わたしもそんな場合をいくつも知っています。しかしそれとまったく同様に、無罪判決された者が自宅に帰ってみると、もうそこに彼をふたたび逮捕せよと命令を受けた者が待っている、といったこともありうるのです。そのときはむろん自由な生活はそれで終りです』。『そしてまた訴訟は新規まき直しというわけですか?』、とKは信じられぬというように言った。『もちろんです』、と画家は言った、『訴訟が新たに始まります。しかし前と同じようにふたたび見せかけの無罪判決をかちとる可能性はあるわけです。ふたたび全力を集中しなければならず、降参するわけにはいきません』。このあとの言葉を画家が言ったのは、もしかしたらKがいささかがっくりきたといった印象を彼に与えたためかもしれなかった」(カフカ「審判・P.220~222」新潮文庫)
「『それではしかし』、とKは、なにかを暴露しそうな画家に先回りして言った、『第二の無罪判決を手に入れるのは初めよりむずかしいんじゃありませんか?』『その点については』、と画家は答えた、『はっきりしたことは何も言えません。あなたが言われるのは、二回目の逮捕ということで裁判官が被告にたいし不利な影響をうけてるんじゃないか、ということでしょう?そんなことはありません。裁判官はすでに無罪を言いわたすときこの逮捕を予見していたのです。従ってこの事情はほとんど影響しません。けれどもその他無数の理由からして、裁判官の気分とか、事件にたいする法律的な判断が違ったものになっているということはあります。だから二回目の無罪判決をかちとる努力はその変化した状況に適応するものでなければならず、最初の無罪判決を得たときと同様強力なものでなければなりません』。『しかしこの第二の無罪判決もまた決定的なものではないわけでしょう?』、とKは言って、何か拒むように頭をまわした。『もちろんです』、と画家は言った、『第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕がというわけです。すでに見せかけの無罪という言葉の中にこういった事情が含まれていたわけです』。Kは黙っていた。『見せかけの無罪はどうやらあなたにはあまりお気に入らないようですね』、と画家は言った、『もしかするとあなたには引延しのほうが向いてるかもしれない。引延しの本質を説明しましょうか?』Kはうなずいた。椅子の背に大々とよりかかっていた画家は、すっかり寝巻の襟(えり)をはだけて、中につっこんだ片方の手で胸や脇腹(わきばら)をさすっていた」(カフカ「審判・P.222~223」新潮文庫)
「引き延ばし」。延長という措置が設けられている。この延長は手続き面での延長という形を取る。が、実質的には時間的な延長でもある限り、刻一刻と様々な剰余を生む。
「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・P.223~225」新潮文庫)
「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・P.228~229」新潮文庫)
「つねに用心していること、決して不意を襲われぬこと、裁判官が自分の左に立っているのにうっかり右を見つめたりしないことこそ、被告のとるべき態度の根本原則だと彼は思っていたのに──なんどでもまた彼が破るのは、まさにその根本原則だったのだ。彼の前には長い廊下がひろがり、そこから空気が動いて来たが、それにくらべればアトリエの空気のほうがまださわやかだった。廊下の両側にベンチがおかれている点も、Kの関(かかわ)っている事務局の待合室と正確に同じだった。事務局の設備は詳細な規定で定められているようだった。見たところここでは訴訟当事者の行き来はそれほどではなかった。一人の男がそこになかば横になって坐(すわ)っていたが、これはベンチの上の腕の中に顔をうずめ、眠っているらしかった。廊下のはしの薄暗がりにも男が一人立っていた。Kはベッドを越え、絵を持った画家がそれにつづいた。まもなく一人の廷吏に出会うと──私服のふつうのボタンにまじっている金ボタンで、Kはいまやすべての廷吏の見分けがついた──画家はその男に絵を持ってKのお供をしてくれと頼んだ。ハンケチを口にあて、Kは歩くというよりむしろよろめいていった」(カフカ「審判・P.229~230」新潮文庫)
「『おまえは事実を誤解している。判決は一度も下るものではないのだ、訴訟手続が次第に判決に移行してゆくのだ』。『やっぱりそういうことですか』、とKは言って頭を垂れた。『さしあたりおまえはおまえの件で何をするつもりかね?』『もっと援助を探してみるつもりです』、とKは言って僧がこの意見をどう判断するか見るために頭をあげた、『ぼくが充分に活用していないある種の可能性がまだあるんです』。『おまえは他人の援助を求めすぎる』、と僧は非難するように言った、『しかも特に女に、そんなのが真の援助でないことがわからないのか?』」(カフカ「審判・P.298」新潮文庫)
「訴訟手続が次第に判決に移行してゆく」。おそらくその逆、「判決が(反対に)訴訟手続きへ移行してゆく(始めからやり直し)」。この「移行」。「判決」と「訴訟手続き」の間に、かつてあったはずの境界線の消滅。訴訟当事者は混乱に陥る。いま進んでいる時間と言葉は現実的な意味で「判決」なのかそれとも「訴訟手続き」を待っているに過ぎないのか。訴訟当事者にもはっきりわからなくなってくる。だがそれもまたグローバル資本主義が以前から持っていた側面の一つに過ぎない。欧米では六〇年代後半から、少し遅れて日本でも八〇年代後半にはしばしば議論されていた。それはそれとして、この「移行」は、「城」における「可動的」な「柵」の動きに、余りにも似ている。決定権は当事者に「ある」と同時に「ない」という逆説的状況が生じてくる。決して意図的にではなくても生じてくるし、また、生じてこないわけにもいかない。
「『だからわたしは裁判所の者だ』、と僧は言った、『だとしたらなぜおまえになぞ用があろう。裁判所はおまえにたいし何も求めない。おまえが来れば迎え入れ、おまえが行くなら去らせるまでだ』」(カフカ「審判・P.313」新潮文庫)
引き続きカフカ。「城」は一端措いて、ここでは「審判」(「訴訟」とも言う)。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女が──あまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは<グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ>という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・P.84」新潮文庫)
「『もちろん』、と女は言った、『あなたに助力を申しでたときだって、一番最初にあの人のことを考えたくらいよ。彼がそんな身分の低い役人だなんて知らなかったけど、でもあなたが言うんだからきっとそうなんでしょうね。それでも、彼が上に差しだす報告書には、やはりなにがしかの影響力はあるんだと思うわ。それに彼は実にたくさん報告書を書くのよ。役人どもはみな怠け者だとあなたは言うけど、みんながそうというわけじゃない、とくにこの予審判事はそうじゃない、彼は非常にたくさん書くのよ。たとえばこの前の日曜なんか、裁判が夕方までつづいて、全員が帰ってしまっても、予審判事はホールに残っているんで、わたしがランプを持ってってやらなくちゃならなかった、うちには小さな台所用ランプしかないんだけど、彼はそれで満足してくれて、すぐ物を書きはじめたわ。そうこうするうちわたしの夫も帰ってきました、あの日曜日はちょうど休暇をとっていたんです、そこで二人で家具を運んできて、部屋を元通りにした、それからこんどはおとなりの人がきて、わたしたちはロウソクの光でおしゃべりをしたわ、要するに、わたしたち予審判事のことなどすっかり忘れて、そのまま寝てしまったんです。突然夜中に、あれはもうずいぶん夜更(よふけ)だったにちがいないわね、目を醒(さ)ますと、ベッドのわきに予審判事が立ってるんです、片手でランプをさえぎって、光が夫の顔に落ちないようにしているんです、そんな用心する必要はないのに、わたしの夫は、光が落ちたくらいじゃ目を醒まさないくらい眠りが深いのよ。わたしあんまりびっくりしたから、あやうく叫び声をあげそうになったけど、予審判事はとてもやさしかった、声をたてないようにって注意して、わたしの耳にささやくんです、いままで書きものをしていたんだ、いまランプを返しにきたところだ、おまえの寝姿を見たことは決して忘れないだろうって。わたしこんなことをすっかりお話したのも、予審判事が本当にたくさんの報告書を書くってことを、あなたに知ってもらいたかったからよ、とくにあなたのことについてね、なぜって、あなたの訊問は日曜日の法廷の主要題目の一つだったんですものね。あれくらい長い報告書がまるっきり意味がないなんてことはありえないわ。でもそればかりではなしに、いまの話からもあなたにわかったでしょうけど、予審判事はわたしに言いよろうとしてるのよ、だからまさにこの最初の時にこそ──だいたい彼がわたしなんかに気づいたのはこれが初めてにちがいないんだから──わたしは彼に大きな影響力を持つことができるわけよ。彼がわたしに気があるっていう証拠なら、まだほかにもいくつもあるわ。たとえばきのう彼はわたしに絹の靴下(くつした)を贈ってくれたわ、彼がたいへん信用して自分の協力者にしている例の大学生を通じて、わたしがいつも集会室の掃除をしてくれるからっていう口実でね、でもそんなのはただの口実よ、だってこの仕事はわたしの役目にすぎないんだもの、そして夫はそのためにお給金をもらってるんですもの。ともかくきれいな靴下なのよ、見て』──そう言って彼女は脚をのばし、スカートの膝(ひざ)までたくしあげて、自分でも靴下をしげしげと見つめた──『たしかにきれいな靴下だわ、でもだいたい上等すぎて、わたしには向かないみたいね』」(カフカ「審判・P.88~89」新潮文庫)
「突然彼女は話を中断して、彼を落着かせようとするように手をKの手に重ねて、ささやいた、『しっ、ベルトルトがわたしたちを見てるわ』。Kはゆるゆる視線をあげた。会議室のドアのところに一人の若い男が立っていた、小さな男だった、真直ぐとはいいかねる脚の持主で、短くてまばらで赤っぽい総(そう)ひげを、ひっきりなしに指でいじりまわしては、威厳をつけようと試みていた。Kはその男を強い好奇心で見つめた、これこそ彼がいわば初めて目(ま)のあたりに見た、法律学という得体のしれぬものを学んでいる学生、いずれいつか高い地位の役人になるであろう男であった。ところが大学生のほうは一見Kのことなぞ少しも気にかけている様子ではなかった、彼はひげのなかからちょっと指を一本抜きだして女に合図しただけで、そのまま窓ぎわに歩いていった。女はKのほうに身をかがめて、ささやいた。『気をわるくしないでね、おねがい、わたしのことをひどい女だなんて考えないで、あいつのとこへいかなくちゃいけないのよ、ほんとにいけすかないったらありゃしない、あのひん曲がった脚を見てよ。でも、すぐ戻ってくるわ、そしてあなたと一緒に出ていくわ、あなたが連れてってくれるんだったらどこへだってついてゆくわ。そうしたらわたしにどんなことをしてもかまわない、ここからできるだけ長いあいだ離れてさえいられたら、どれで幸福なんだもの、むろん永久におさらばできればそれに越したことはないけど』」(カフカ「審判・P.90」新潮文庫)
「彼女はまだKの手をさすっていたが、ふいに跳びあがると窓のほうへ駆け出した。Kは思わず女の手をとろうとして空を摑んだ。女は本当に彼の気を唆(そそ)った、なぜ女の誘惑に乗ってはいけないのか、いろいろ考えてみたけれどももっともな理由が見つからなかった。女は裁判所のためにおれをひっかけようとしてるんだ、という気もちらと頭をかすめたが、そんな異議も彼は苦もなくはねのけてしまった。どんな具合にして女に彼をひっかけることができるというのか?彼はいつだって、少くともこと彼に関する限り、この裁判機構全体をだって即座にぶちこわせるほどにも、自由でありつづけてきたではなかったか。こんな自分へのわずかな信頼さえ、彼は持つことができないのか?それに助けたいという女の申しこみには真正らしいひびきがあったし、おそらくまた価値のないものではなかった。そして予審判事やその一味にたいしては、かれらからこの女を奪いとって自分のものにしてしまうくらい効果的な復讐(ふくしゅう)はないに違いなかった。そうなればいつかきっと、予審判事がKについての嘘(うそ)八百の報告書づくりに骨折ったあと、深夜女のベッドが空(から)なのを発見する、といった事態だって起らぬものでもない。そしてそれが空なのは、女がKのものとなったからなのだ、窓ぎわにいるあの女、粗い重い布地の黒服につつまれたあのあたたかいからだが、ただもうKだけのものとなったためなのだ」(カフカ「審判・P.90~91」新潮文庫)
「こんな具合にして女についてのかずかずの疑念をふりはらってしまうと、彼には窓ぎわの二人のひそひそ話がいささか長すぎるような気がしてきだした、彼は初めは指の関節で、それから拳骨(げんこつ)で、演壇を叩いた。大学生は女の肩ごしにちらと彼のほうを見たが、べつに気にもしなかったどころか、ぐいとからだを女に押しつけてみせさえして、彼女を抱きしめた。彼女は男の言い分に注意深く聞きいっているかのように、深ぶかと頭をしずめていた。彼女がかがむと、男はそれで話をとくに中断させることもなしに、音たかく彼女の首筋にキスした。女の言い分では大学生が彼女に横暴をはたらいていて困るということだったが、これで彼の横暴ぶりは証明されたと思い、Kは立上がって、部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。大学生のほうを横目で見やりながら、どうやったら出来るだけ早くきゃつをおんだせようか、とそればかり思いめぐらしていたので、大学生が、明らかにKの徘徊(はいかい)──それはもうときとしてどしんどしん足踏みしているに近かった──に気を乱されて、こう文句を言ったのは、Kにはまんざらでないこともなかった。『いらいらしてるんだったら、出てったっていいんだぜ。本当ならきみはもっと早く出ていってよかったんだ、だれもひきとめやしないんだから。そうだとも、きみは出てゆくべきでさえあったんだよ、むろんぼくが入って来たときすぐに、それもできるだけ早く』。この言葉のなかにありとあらゆる憤激が爆発しているらしかったが、いずれにしろしかしそのなかにはまた、気にくわぬ被告に話しかける未来の司法官の傲慢(ごうまん)もふくまれていたのだった」(カフカ「審判・P.91~92」新潮文庫)
「Kは男のすぐそばに立ちどまって、微笑しながら言った。『いらいらしている、それは本当だ、しかしこのいらいらは、きみが出てってくれさえすれば、それで容易に方がつくんでね。しかしひょっとしてきみが──学生さんだそうだから──ここへ勉強しに来たっていうんなら、よろこんでこの場を明けわたすさ、そしてそのご婦人と出ていきましょうよ。ともかく、裁判官にでもなろうっていうんなら、もっともっと勉強しなくちゃならないやね。ぼくは司法制度なんてとくに精(くわ)しい者でもなんでもないが、きみがいまからもう破廉恥(はれんち)に使いこなすことを心得てる、そのきみの乱暴なしゃべり方じゃ、まだまだ充分とは言えんくらいのことはわかるよ』。『こいつをこんなふうに勝手に歩きまわらしといちゃいけなかったんだ』、とKの侮蔑(ぶべつ)的な言辞への解説を女にしようというように、大学生は言った、『失敗だったな。予審判事にはちゃんと言っといたのに。せめて訊問(じんもん)のあいだはこの男を部屋に閉じこめとくべきだったんだ。あの予審判事はときどきわけのわからぬことをするよ』。『くだらんおしゃべりだね』、とKは言って、女のほうに手をのばした、『さあ行こう』。『ははん、そういうわけか』、と大学生は言った、『だめ、だめ、この人を渡すわけにいかないんだ』。そして、見かけによらぬ馬鹿力(ばかぢから)を出して女を片手で抱きあげると、背をまるめとろんとした目で女を見あげながら、ドアのほうに駆けだした。そのさいKにたいするある種の怖れが、見誤りようもなくうかがえたにもかかわらず、彼はさらにKを刺戟(しげき)しようとして、空いたほうの手で女の腕を撫(な)でたり押したりしてみせた。Kは、彼をひっつかまえて、事と次第では絞め殺してやるくらいのつもりで、並んで二、三歩走りだしたが、女が言った。『むだだからよして、予審判事が迎えによこしたのよ、あなたと行くわけにいかなくなったわ、このちびの乱暴者が』、と言って彼女は大学生の顔を手で撫でまわした、『このちびの乱暴者がわたしを放しっこないわ』。『そしてあなたも放されたがっていないんだ!』、とKが叫んで、大学生の肩に手をかけると、その手に彼はいきなり噛(か)みついてきた。『やめて!』、と女は叫んで、Kを両手で押しのけた、『やめて、やめて、それだけはやめてよ、一体何を考えてるの!そんなことしたら、わたしが破滅しちゃう!放してやって、おねがい、彼を放してやって!この人は予審判事の命令に従ってるだけ、わたしを判事のとこへ連れていくだけなのよ』」(カフカ「審判・P.92~94」新潮文庫)
「腰をおろすかおろさぬうちにKはあたりを見まわした。天井の高い大きな部屋で、こんなところに入れられたら弁護士の依頼人たる貧乏人たちはみなおろおろしてしまうに違いなかった。お客が巨大な机に向うときの小刻みの足どりが目に見えるようだった。Kはしかしまもなくそんなことを忘れ、ぴったりとからだを寄せて彼を脇凭(わきもた)れに押しつけんばかりにしている看護婦のことしか眼中になくなった。『わたしのほうから呼ばなくても』、と彼女は言った、『あんたのほうから出て来てくれるだろうと思ってたのよ。だって変だったじゃないの。初めは入ってくるなりわたしのことをじろじろ見つめていたくせに、それからこんなに待たせておくなんて。ところでわたしのことレーニって呼んでね』。この話しあいのときを一瞬でもむだにしたくないというように、早口に、やぶから棒に彼女はつけ加えた。『よろこんで』、とKは言った、『しかしその変だという点に関していうと、レーニ、それはすぐ説明がつく。第一に、年寄りたちのおしゃべりを聞いていて理由なくとび出すことができなかった、第二に、ぼくが向う見ずな人間じゃなくてむしろ内気だということ、それにきみだって、レーニ、一跳びで手に入りそうには見えなかったしね』。『それはうそよ』、とレーニは言って、背凭れに腕をのせKを見つめた。『そうじゃなくてわたしが気に入らなかったんでしょう、いまだってきっと気に入らないんでしょう』。『気に入るなんて大したことじゃないさ』、とKは逃げの返事をした。『まあ』、とほほえんでみせ、Kの言葉とこの小さな叫びによって彼女が一種の優位を得ることになった。そのためKはしばらく黙っていた。いまは暗がりに目が慣れたので調度の細部の見わけもつくようになった。とくに目をひいたのはドアの右手にかかっている大きな絵で、彼はもっとよく見ようと少しからだを前にかがめた。法官服を着た男の絵だった。高い玉座のような椅子に坐っていて、椅子の金色が絵からきわだって見えた。ただその絵の奇妙なところは、この裁判官は落着きと威厳をもってそこに坐っているのではなくて、左腕は背と脇の凭れにしっかと押しつけているが、右腕はしかしまったく宙に浮き手先だけが脇凭れを摑(つか)んでいることで、それはまるで次の瞬間にもたぶん激昂(げきこう)して猛烈な勢いでとびあがり、なにか決定的なことを言うか、判決を下すかしようとしているかのようだった。被告はたぶん階段の足許(あしもと)にいるのだろうが、絵には黄色い絨緞をしいた階段の上の部分しか描かれていなかった」(カフカ「審判・P.149~150」新潮文庫)
「『ひょっとするとこれがぼくの裁判官かもしれないな』、とKは指で絵を指しながら言った。『あの人なら知ってるわ』、とレーニは言って絵を見上げた、『ここへもよく来るのよ、若いときの絵だと思うけど、でも、あの人がこの絵にちょっとでも似てたことがあるなんて考えられないわ。なにしろまるでちびなんだから。それでも絵にはあんなふうに寸法を拡大して描かせたのよ、彼もここのみなさんと同じく見栄(みえ)っぱりなんだから。わたしだって見栄っぱりで、だからあんたに気に入られないのが非常に不満だわ』。この最後の意見にたいしKはただレーニを抱いて引きよせることで答え、彼女はおとなしく頭を彼の肩にのせた。しかし前半のことについてはこう言った。『どんな身分の人だい?』『予審判事よ』、と彼女は言い、彼女を抱いているKの手をとって指をもてあそび始めた。『またしても予審判事か』、とKはがっかりして言った、『身分の高い役人は隠れているんだな。でもやつは玉座のような椅子に坐ってるじゃないか』。『みんな作りごとよ』、とレーニは顔をKの手の上にかがめてかがめて言い、『本当は古い鞍覆(くらおお)いをかぶせた台所の椅子に坐ってるのよ。でもあんたはそんなふうにいつも訴訟のことばかり考えてなくちゃいけないの?』、とゆっくりつけ加えた。『いや、そうじゃない』、とKは言った、『どうやらぼくはあまりにも考えなさすぎるらしいんだ』。『あんたの犯してる過ちはそれではないわね』、とレーニは言った、『わたしが耳にしたところではあんたは非常に強情なんですって』。『誰がそんなこと言った?』彼女のからだを胸に感じ、そのゆたかで黒い、きつく巻いた髪を見下しながらKはきいた」(カフカ「審判・P.150~152」新潮文庫)
「『それまで言っちゃしゃべりすぎることになるわね』、とレーニは答えた、『だから名前はきかないでちょうだい、それよりあんたの欠点を直して、これからはそんなに強情を張らないようにしたらどうなの。この裁判所にたいしてはだれも逆らうことができないのよ、みんな結局は白状してしまうのよ。この次のときはだから白状しなさいな。そうやって初めて逃れる可能性も与えられるのよ、白状して初めて。もっともそれだって他人の助けがなければできっこないけれど、この助けのことなら心配しなくてもいいわ、わたしが自分でしてあげるから』。『きみは裁判所のことも、裁判所で必要な嘘(うそ)のこともよく知ってるね』、とKは言って、彼女があまりにも強くからだを押しつけてくるので彼女を膝に抱きあげた。『このほうがいいわ』、と彼女は言って、膝の上でスカートを直したりブラウスのしわを伸ばしたりして居ずまいを直した。それから両手で彼の首っ玉にしがみつき、からだをそらし、しげしげと彼を見つめた。『するとぼくが白状しないかぎりきみは助けることができないっていうの?』とKは小当りに聞いてみた。おれにはどうも女の助力者ばかり集まるようだぞ、初めはビュルストナー、それから廷吏の細君、それからこの小娘だ、と彼はほとんどいぶかる思いで考えた。この娘はどうやらおれにたいしわけのわからぬ欲求を感じているらしい。膝の上に坐っているようすはどうだ、まるでここしかちゃんとした居場所はないというようじゃないか!『そうよ』、とレーニは答えゆっくり首を振った、『そうでなければ助けることはできないわ。でもあんたはわたしの助力なんかいらない、そんなものはどうでもいいと思ってるんでしょう、あんたは強情我慢で、ひとの意見なんか聞かない人だから』。それから間をおいて彼女はこう訊ねた。『あんたには恋人があって?』『いや』、とKは言った。『まさか、そんな』、と彼女は言った。『うん、本当はいるんだ』、とKは言った、『まあ考えてもみてくれよ、ぼくは彼女を捨てたのにまだその娘の写真を持ち歩いている始末さ』。せがまれて彼がエルザの写真をみせると、彼女は膝の上でからだをまるめて写真をじっくりと眺(なが)めた」(カフカ「審判・P.152~153」新潮文庫)
「それはスナップ写真でエルザが酒場で好んで踊る旋回ダンスの瞬間をとったものだった。スカートがまだ回転したひだのままひろがっていて、彼女は両手をひき締まった腰にあてがい、首筋をのばし横を向いて笑っていた。笑いがだれにむけてのものかは写真からはわからなかった。『コルセットを強く締めすぎてるわね』、とレーニは言って、彼女の考えではそれらしく見えるところを示した、『この人、わたしには気に入らないわ、鈍感で粗野な感じね。ひょっとしたらあんたにはやさしくて親切なのかもしれないけど、写真で見るとどうもそうらしいわね。こんなに大きくて強い娘はやさしく親切にするしかしようがないものよ。しかしこの人あんたのために自分を投げだせるかしら?』『しないだろう』、とKは言った、『彼女はやさしくも親切でもないし、ぼくのために自分を投げだしもしないだろう。ぼくのほうもこれまでそのどっちも求めたことはないんだ。実を言えばこの写真をきみみたいにじっくり見たことさえないんだよ』。『つまりあんたはこの人をあんまり問題にしてないってことね』、とレーニは言った、『つまり彼女は恋人なんかじゃないってことね』。『いや』、とKは言った、『ぼくは前言を撤回はしないよ』。『じゃあ彼女は恋人だってことにしときましょう』、とレーニは言った、『でもあんたは彼女を失うとか、あるいはほかのだれか、たとえばこのわたしと取り換えることになっても、別に惜しいとは思わないんでしょうね』。『なるほど』、とKは微笑(ほほえ)んで言った、『それも考えられないことじゃない。しかし彼女はきみにくらべて一つだけ大きな長所があるんだ。つまり、ぼくの訴訟のことをぜんぜん知らないって点だよ。仮に知ったとしても彼女は訴訟のことなんか考えようともしないだろうけどね。彼女ならぼくに譲歩しろとすすめたりしないと思う』。『そんなこと長所とは言えないわ』、とレーニは言った、『彼女にそのほかの長所がないんだったらわたしは勇気をなくさないわ。どこか肉体的な欠陥はないの、その人?』『肉体的な欠陥だって?』、とKはきき返した。『ええ』、とレーニは言った、『というのはわたしにはちょっとした欠陥があるのよ、ほら』。彼女が右手の中指と薬指をひろげてみせると、そのあいだにほとんど短い指の一番上の関節まえ水掻(みずか)きがついているのだった」(カフカ「審判・P.153~155」新潮文庫)
「暗いため彼女が何を見せようとしたのかKがすぐにはわからないでいると、彼女は彼の指をもっていって、じかに触らせた。『なんという自然のたわむれだ』、とKは言って、手全体を一瞥(いちべつ)してからこう付加えた、『なんてかわいらしいけづめだ!』Kが驚嘆しながら二本の指をひらいたり閉じたりしているのをレーニは一種の誇りがましい様子で眺めていたが、やがてKが彼女にすばやくキスして手を放すと、『まあ!』、と彼女はすかさず叫んだ、『あんたはわたしにキスしたのね!』口をあけたまま急いで彼女は膝頭で彼の膝によじのぼった。Kはなかば呆(あき)れかえって彼女のするのを見ていたが、いまこれほど身近になると、彼女から胡椒(こしょう)のようなぴりっとする刺戟臭(しげきしゅう)がただよった。彼女は彼の頭を抱きよせ、彼の上にかがみこんで首にキスしたり噛(か)んだりし、ついに彼の髪にまで噛みついた。『あんたはわたしに乗りかえたのね!』、と彼女はときおり叫びをあげた、『よくって、あんたはわたしに乗りかえたのよ!』そのとき彼女の膝がすべって、かすかな悲鳴とともに彼女はあやうく絨緞(じゅうたん)の上に落ちかかったが、Kが支えようとして抱きあげると、逆に彼女によって引きおろされた。『もうあんたはわたしのものよ』、と彼女は言った」(カフカ「審判・P.155~156」新潮文庫)
二〇一七年二月十九日作。
(1)沖縄が消えそうなテレビ談笑している
(2)死ねば復讐できない卒業
(3)素晴らしい脚がパートだ
(4)盛りのついた住人に防音壁が要る
(5)制服わんさか吸い込んで行った静かな駅舎
(6)生きててよかった殺せる
☞「歩けば歩く程到底抜け出る事の出来ない曇った世界の中へ段々深く潜(もぐ)り込んで行く様な気がする」(夏目漱石「坑夫・P.8」新潮文庫
漱石の小説の主人公は価値観の異なる世界へ移動する時、いつも奇妙な感覚を覚えている。この特異な時間感覚について漱石はほとんど常に次のような描写を差し挟む。
「不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、已(やむ)を得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埒(らち)が明く筈がない。生涯片付かない不安の中を歩いて行くんだ。とてもの事に曇ったものが、一層(いっそ)段々暗くなってくれればいい。暗くなった所を又暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇暗くなって、自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろう。そうなれば気楽なものだ。意地の悪い事に自分の行く路は明るくなってもくれず、と云って暗くもなってくれない」(夏目漱石「坑夫・P.8」新潮文庫)
「その時一種妙な心持になった。この心持ちも自分の生涯中にあって新しいものであるから、序(ついで)に此処(ここ)に書いて置く。自分は肺の底が抜けて魂が逃げ出しそうな所を、漸く呼びとめて、多少人間らしい了簡になって、宿(しゅく)の中へ顔を出したばかりであるから、魂が吸(ひ)く息につれて、やっと胎内に舞い戻っただけで、まだふわふわしている。少しも落ち附かない。だからこの世にいても、この汽車から降りても、この停車場(ステーション)から出ても、又この宿の真中に立っても、云わば魂がいやいやながら、義理に働いてくれた様なもので、決して本気の沙汰(さた)で、自分の仕事として引き受けた専門の職責とは心得られなかった位、鈍い意識の所有者であった。そこで、ふらついている、気の遠くなっている、凡(すべ)てに興味を失った、かなつぼ眼(まなこ)を開いて見ると、今までは汽車の箱に詰め込まれて、上下四方とも四角に仕切られていた眼界が、はっと云う間に、一本筋の往還(おうかん)を沿うて、十丁ばかり飛んで行った。しかもその突当りに滴(したた)る程の山が、自分の眼を遮(さえぎ)りながらも、邪魔にならぬ距離を有(たも)って、どろんとしたわが眸(ひとみ)を翠(みどり)の裡(うち)に吸寄せている。──そこで今云った様な心持になっちまったのである」(夏目漱石「坑夫・P.47~48」新潮文庫)
「前に云った通り自分の魂は二日酔(ふつかえい)の体(てい)たらくで、何処までもとろんとしていた。ところへ停車場(ステーション)を出るや否や断りなしにこの明瞭な──盲目(めくら)にさえ明瞭なこの景色にばったり打(ぶ)つかったのである。魂の方では驚かなくっちゃならない。又実際驚いた。驚いたには違いないが、今まであやふやに不精々々に徘徊(はいかい)していた堕性を一変して屹(きっ)となるには、多少の時間がかかる。自分の前(さき)に云った一種妙な心持ちと云うのは、魂が寝返りを打たないさき、景色が如何(いか)にも明瞭であるなと心附いたあと、──その際(きわ)どい中間に起った心持ちである。この景色は斯様(かよう)に暢達(のびのび)して、斯様に明白で、今までの自分の情緒(じょうちょ)とは、まるで似つかない、景色のいいものであったが、自身の魂がおやと思って、本気にこの外界(げかい)に対(むか)い出したが最後、いくら明かでも、いくら暢(のん)びりしていても、全く実世界の事実となってしまう。実世界の事実となると如何な後光(ごこう)でも有難味(ありがたみ)が薄くなる。仕合せな事に、自分は自分の魂が、ある特殊の状態に居た為──明かなりと感受する程の能力は持ちながら、これは実感であると自覚する程作用が鋭くなかった為──この真直な道、この真直な軒を、事実に等しい明らかな夢と見たのである。この世でなければ見る事の出来ない明瞭な程度と、これに伴う爽涼(はっきり)した快感を以て、他界の幻影(まぼろし)に接したと同様の心持になったのである。自分は大きな往来(おうらい)の真中に立っている。その往来は飽くまでも長くって、飽くまでも一本筋に通っている。歩いて行けばその外(はずれ)まで行かれる。慥(たしか)にこの宿(しゅく)を通り抜ける事は出来る。左右の家は触(さわ)れば触る事が出来る。二階へ上(のぼ)れば上る事が出来る。出来ると云う事はちゃんと心得ていながらも、出来ると云う観念を全く遺失して、単に切実なる感能(かんのう)の印象だけを眸(ひとみ)のなかに受けながら立っていた」(夏目漱石「坑夫・P.49~50」新潮文庫)
「その山は距離から云うと大分(だいぶん)ある様に思われた。高さも決して低くはない。色は真蒼(まっさお)で、横から日の差す所だけが光る所為(せい)か、陰の方は蒼(あお)い底が黒ずんで見えた。尤もこれは日の加減と云うよりも杉檜(すぎひのき)の多い為かも知れない。ともかくも蓊鬱(こんもり)として、奥深い様子であった。自分は傾(かたぶ)きかけた太陽から、眼を移してこの蒼い山を眺めた時、あの山は一本立(いっぽんだち)だろうか、又は続きが奥の方にあるんだろうかと考えた。長蔵さんと並んで、段々山の方へ歩いて行くと、どうあっても、向うに見える山の奥の又その奥が果しもなく続いていて、そうしてその山々は悉(ことごと)く北へ北へと連なっているとしか思われなかった。これは自分達が山の方へ歩いて行くけれど、只行くだけで中々麓(ふもと)へ足が届かないから、山の方で奥へ奥へと引き込んでいく様な気がする結果とも云われるし、日が段々傾(かたぶい)て陰の方は蒼い山の上皮(うわかわ)と、蒼い空の下層(したがわ)とが、双方で本分を忘れて、好い加減に他(ひと)の領分を犯し合ってるんで、眺める自分の眼にも、山と空の区画が判然(はんぜん)しないものだから、山から空へ眼が移る時、つい山を離れたと云う意識を忘却して、やはり山の続きとして空を見るからだとも云われる。そうしてその空は大変広い。そうして際限なく北へ延びている。そうして自分と長蔵さんは北へ行くんである」(夏目漱石「坑夫・P.51」新潮文庫)
「際限なく北へ延びている」。とすれば出発点へ戻ってくるはずだ。しかし漱石作品はそこまで馬鹿ではない。資本主義社会における「延びている」こととは何か。延長とはどういうことか。漱石は既に英国留学を経て世界を、グローバル世界を経験している。延長は「いくら歩いてもいくら歩いても埒(らち)が明く筈がない。生涯片付かない不安の中を歩いて行く」という言葉で言い表わされている。この延長可能な機構の可動性を増殖させる力が、西欧資本主義の神髄であることも漱石は黙ってではあるが実は的確に把握している。ただ経済的な仕組みについて、研究対象を定めて絞り込み、その限りでのみ精密に理論化して発表し得たのはマルクスだが、漱石は小説という方法で近代日本資本主義に課せられた試練とその悲喜劇を語らせる方向へ向ったとも言える。その側面を見ればドストエフスキーに近いと言える。だがさらに漱石は性愛について、経済力あるいは階級問題を交わらせたり、あえてすれ違わせてみたりと様々な実験を行った。この実験的な方法を突き詰めていくうちに時々思いがけずエロティックな場面となって現われてこざるを得ないことにはっきり気づいたのは恐らく「虞美人草」執筆中だろう。
さて、カフカ。官僚主義的機構分析。ここからはより本格的にドゥルーズ&ガタリから引用しようと思う。なので、先にカフカから次の部分に目を通しておきたい。カフカ論読解のため引用にしては数が多過ぎると思うかもしれない。実は少な過ぎるのだが。順々に見ていこう。
「『彼らも、自分の値打ちをよく知っていて、掟(おきて)のもとで出所進退をするお城では、静かに、上品にかまえています。これは、何度も確かめたことですから、まちがいありません。この村へやってきても、従僕たちのあいだにその名残(なご)りがかすかにみとめられることがあります。もっとも、名残りにすぎませんけれども。普通は、お城の掟が村ではあの人たちにとって完全に通用しないとわかっていますから、まったく人が変ったようになります。もはや掟ではなく、飽くことを知らぬ衝動に支配された、乱暴で手に負えない烏合(うごう)の衆になってしまうのです。彼らの破廉恥さかげんは、とどまるところを知りません。村にとってなによりもありがたいことに、あの人たちは、許可がなければ縉紳館から出ていけないのです。けれども、縉紳館では、なんとかして彼らと仲よくやっていこうとしなくてはなりません。フリーダは、それに手を焼きました。それで、従僕たちをおとなしくさせるのにわたしを使えるということは、フリーダにとって願ったり叶(なか)ったりだったわけです。こうして、わたしは、二年以上もまえから、すくなくとも週に二度は従僕たちといっしょに馬小屋で夜をすごします」(カフカ「城・P.366~367」新潮文庫)
「馬小屋で夜を」。言うまでもなく一般家庭の「若い美人」は「官僚機構の中間管理職付近」の人間と少しでも近づこうとして体を捧げる。そうでないと一家は食べていくことができない。その中間項の役割を取り持つのは官僚主義的民間有力資本の言葉である。
「父は、以前まだわたしといっしょに縉紳館へ来れたころは、酒場のどこかで居眠りをして、あくる朝わたしがもっていく報告を待っていました。報告することは、あまりありませんでした。わたしたちは、あの朝の使者をいままでのところまだ見つけだしていません。彼は、彼を非常に高く買っているソルティーニにいまでも仕えているそうで、ソルティーニがさらに遠くの官房へ引っこんだとき、いっしょについていったということです。たいていの従僕たちは、わたしたちとおなじように、あれ以来ずっとその使者に会っていないのです。その後彼を見かけたという者もいますが、たぶん、思い違いでしょう。こういうわけで、わたしの計画は、ほんとうは失敗におわったことになるのですが、それでも、完全な失敗だったわけではありません。確かに、わたしたちは、まだあの使者を見つけてはいません。それに、父は、何度も縉紳館へ出かけては、そこで夜をあかし、おそらくわたしにたいする同情もそれに加わって(もっとも、父がまだ他人に同情心を起すことができるかぎりにおいてのことですけれども)、最後のとどめを刺されるような気の毒な結果になってしまいました。父は、もうほとんど二年近くまえから、さっきごらんになったとおりの容態です。それでも、どうやら母よりも父の容態のほうがまだもっているのは、まったくアマーリアのたいへんな努力のおかげです。それでも、わたしが縉紳館で手に入れることができたものは、お城とのある種のつながりです。わたしが自分のしたことを後悔していないと申しあげても、どうか軽蔑なさらないでください」(カフカ「城・P.367」新潮文庫)
「たぶんあなたは、たいしたつながりもあったもんだ、と考えていらっしゃるでしょう。お考えのとおり、たいしたつながりではありません。わたしは、いまではたくさんの従僕たち、この二年間にお城から村へお見えになったほとんどすべての人たちの従僕を知っています。いつかわたしがお城へ出かけていくようなことがあったとしても、知らないところへ迷いこんだというようなことにはならないでしょう。もちろん、わたしが知っているのは、村にいるときの従僕にすぎません。あの人たちは、お城ではまったく別人になってしまって、もうだれのことも見わけがつかないでしょす。村でつきあった相手となると、なおさらそうにちがいありません。馬小屋のなかでは、お城で会えるときを楽しみにしている、などと調子のいいことを何百回も言っていたくせにね。おまけに、わたしは、そういう約束があの人たちにとってなんの意味ももっていないということをとっくに経験ずみでした。けれども、いちばん大事なのは、そういうことではありません」(カフカ「城・P.367~368」新潮文庫)
「わたしは、従僕たちを通じてお城とつながりがあるだけでなく、たぶんつぎのような可能性もあるかもしれないし、また、それに期待をかけているのです。つまりね、わたしとわたしのすることを上から見ていらっしゃる人がいて──いうまでもなく、あの大勢の従僕たちを監督するのは、お役所の仕事のなかでもきわめて重要な、苦心の多い部分ですわ──とにかく、わたしをそうして見ていてくださる人は、おそらくわたしのことをほかの人たちよりもやさしく判断してくださるだろうし、また、わたしが細々ながらも自分の家族のために戦い、父の苦労や努力を受けついでいることもわかってくださるだろう。わたしが期待をかけているつながりというのは、こういうことなのです。そんなふうに見てくださっていると、わたしが従僕たちからお金を受けとって、家計の足しにしているということも許してくださるかもしれません』」(カフカ「城・P.368」新潮文庫)
何か途轍もなく低劣なエピソードであるかのように見える。が、今の日本政府が打ち出しており、野党共闘にはとてもではないが打破できない状況を、実際に支持している日本の有権者/納税者/市民が、上から見下ろして嘲笑しつつつひと言たりとも口を差し挟めるような社会ではなかった。しかし結果的にこのような無惨な情況を最終的に崩壊させたのは何であったか。ロシア革命と第二次世界大戦である。だからといって「人間は愚かな生きものだ」と大袈裟に嘆いて見せても、嘆いている人もまた人間であることには何ら変りはない。むしろ逆に自分だけは違うと言いたがっているかのようで、周囲から見れば顰蹙この上ない。
「『ところで、わたしたちは、お城では、わたしたちにあたえられるものだけで満足しなくてはなりませんが、こちらの村では、わたしたちの手でやれることもあるかもしれません。ほかでもありません、あなたのご好意を確保しておくこと、すくなくとも、あなたに忌避されないように用心することが、それです。あるいは、これがいちばん大事なことなのですが、あなたとお城とのつながりがなくなってしまわないように(わたしたちは、それがあってこそ生きていけるのですもの)、わたしたちの力と経験を生かしてあなたを守ってあげることです。ところで、そのためには、どうやるのが最善の方法でしょうか。わたしたちがあなたに近づいても、あなたに疑われないようにするには、どうやったらいいのでしょうか。と言いますのは、あなたは、ここではよそ者なので、あらゆる方面に疑いの眼を光らせておいでにちがいないし、また、そうなさるのが当然だからです。おまけに、わたしどもは、世間から軽蔑されていますし、あなたは、世間の人たちの考えに影響されていらっしゃいます。とりわけ、許嫁者(いいなずけ)のフリーダを通じてね」(カフカ「城・P.380~381」新潮文庫)
「たとえばですよ、わたしどもに毛頭そういうつもりがなくても、あなたに近づいていくと、フリーダと対立してしまって、そのことであなたの感情を傷つけるかもしれません。そうならないようにするには、どうしたらよいのでしょうか。バルナバスがおとどけした手紙のことになりますが、わたしには、それがあなたの手に渡るまえに、くわしく読んでおきました。もちろん、バルナバスは、読んでいません。使者にはそういうことが許されないのです。この手紙は、最初見たところ、古びたものですし、さして重要なものでないとおもわれたのですが、あなたに村長のところへ行くようにと指示してありますので、重要なものだということがわかりました。ところで、わたしたちは、この手紙のことであなたにたいしてどういう態度をとればよかったのでしょうか。わたしたちがこの手紙の重要さを強調すれば、あきらかに重要でないものを過大に評価し、手紙をとどけるだけが役目のくせにわざとあなたに嘘(うそ)を教え、自分たちの利益ばかり追求して、あなたのことはないがしろにした、と疑いの眼で見られたことでしょう。それどころか、そのことによって、あの手紙が価値の低いものだとあなたに思いこませ、こころならずもあなたをだますようなことになったかもしれません」(カフカ「城・P.381」新潮文庫)
「他方、わたしたちがこの手紙にたいした価値をあたえなくても、おなじように疑われたことでしょう。と言いますのは、それならそんなつまらない手紙をとどけるような仕事になぜ汲々(きゅうきゅう)としているのか、なぜ言葉と行動が矛盾したようなことをしているのか、なぜこの手紙の受取人であるあなただけでなく、手紙を託した差出人までもあざむくのか、そもそも差出人が手紙を託したのは、受取人にわざわざ要(い)らぬ説明なんかして、手紙の価値を下げてもらうためではなかったはずだ、ということになってしまうからです。そして、この両極端の中道を歩むこと、つまり、手紙を正しく判断することは、まったく不可能なのです。手紙は、たえずその価値を自分で変えるものです。それがきっかけで、こちらはいろいろと思案をかさねるわけですが、これには際限がありません。思案をどこで打切るかは、偶然によってきまるだけです。したがって、そこから出てきた意見も、偶然のものでしかありません』」(カフカ「城・P.381~382」新潮文庫)
「当地には、こんなことわざがあります。おそらくもうご存じかもしれませんが、<お役所の決裁は、若い娘っこの返事のように煮えきらない>というんです」(カフカ「城・P.289」新潮文庫)