白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月二十五日(2)

2017年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコールとフィッツジェラルド。センチメンタルな読解は何も生まない。比較的若年層にとって、このことは大変重要な意義を持ってくるに違いない。アルコールや薬物と、脳内分泌物質の化学合成並びにその効果。デリダによるプラトン読解における「治療薬/毒薬」について。デリダの論考では、古代ギリシアにおける「治療薬/毒薬」の間の境界線は極めて濃い政治的=イデオロギー的な色彩を持つと指摘されている。カフカに言わせればこの境界線は「移動する」と言うだろうし、ドゥルーズ&ガタリなら境界線の消滅とは言わず、境界線はその都度その都度で「可動的」だと述べるに違いない。実を言うと医学的な臨床現場においても「治療薬/毒薬」の間の境界線などほとんど何も解明されてなどいないに等しい。第一、作用の変化が余りにも多彩過ぎる。無数に等しい。しかし無数に等しいということは究極の多様性を現わしている。要するに一般的に遍在することと同じである。究極の多様性は逆に一般的なもの、例えば「空気」など、と同一であるということだ。「多頭は無頭である」。だから、とりわけアルコールから薬物への需要の移動、また同時にアルコールと薬物の需要の混交、さらにはアルコール/薬物から切り離された場所に行けば当然のように遥かに高く要求されてくる新しい薬物への欲望。分泌される無数の脳内分泌物質の諸作用について、関心を持たない化学者はどこにもいないに違いない。

「『ずいぶん何年もお会いしませんでしたわね』と、デイズィが言った。いかにもさりげない声である。『この十一月で五年です』そう言ったギャツビー」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.142」新潮文庫)

「ぼくは中にはいった──はいる前に、台所で、調理用の焜炉(こんろ)をひっくりかえさぬ程度に、できうるかぎりの物音をたてた──けれども、彼らの耳には一つとして聞えなかったにちがいない。二人は寝椅子に両端をおろし、どちらかが何かをたずねたところ、二人とも何かを考えているところか、お互いに顔を見合わせている。狼狽(ろうばい)の色は、二人から跡形もなく消え失(う)せていた。デイズィの顔は涙によごれていたが、ぼくがはいって行くと、彼女はひょいと立ちあがって、鏡の前に行き、ハンケチで顔を拭(ふ)きはじめた。ギャツビーのほうにはしかし、なんとも不思議な変化が現われていた。顔は文字どおり輝くばかり。歓喜の身ぶり一つ見せずとも、いままではなかった幸福感が、彼の身体(からだ)から放射してその小さな居間にあふれている」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.145」新潮文庫)

「狼狽と、理不尽な歓喜を通り抜けて、いまは、彼女が姿を現わしたことに対する驚異に心を奪われているのだ。彼は長いあいだこのことばかりを思い描いてきた。結末に行きつくまでの過程をそっくり夢に描き、いわば、思考を絶する激しさで歯をくいしばって待っていたのだ。いまはその反動で、巻きすぎた時計のように、ゼンマイがほぐれているところだろう」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.150」新潮文庫)

「家を見たあとでは、庭や、プールや、高速モーターボートや夏の花々を見る予定だった──ところが、窓から見ると外はまた雨が降りだしていた。それでぼくたちは一列にならんで波立つ『海峡』の水面を眺めた。『霧がなければ、入江のむこうにあなたの家が見えたんですがね』ギャツビーが言った。『お宅の桟橋(さんばし)の突端のとこに、いつも夜どおし緑色の電燈(でんとう)がついてるでしょう』デイズィはいきなりギャツビーと腕を組んだ。しかし彼は、いま言った自分の言葉に心を奪われているらしかった。その光の持っていた巨大な意義が、いまは永遠に消滅してしまったと、ふと思ったのかもしれぬ。自分とデイズィを隔てている大きな距離に比べれば、いままでその光は彼女のすぐそばに、ほとんど彼女にふれることもできる距離にまたたいているように思われていた。月と星との仲のように、彼女の身近な存在とそれは感じられていた。それがいまでは、また単なる埠頭(ふとう)に輝く緑の灯(ひ)にすぎなくなった」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.151~152」新潮文庫)

再びドゥルーズへ戻ろう。ドゥルーズがどれほどアルコール飲みで有名だったかはもはや言うまでもない。依存症だったかどうかまでは知りようもないが、かなり込み入った事情の下でもアルコールをあおっていたようだ。次の文章を見ると、ドゥルーズがドゥルーズ自身の身体を検体としてアルコールと自分自身をピンセットで試す返すテストしてみた形跡をありありと窺うことができる。

「アルコリスムは、快楽を探求しているのではなく、効果を探求しているように見える。その効果は、主として、現在が異常に硬化することである。だから、同時に二つの時間〔時制〕に生き、同時に二つの時期〔契機〕に生きることになる。プルースト流ではないが。〔硬化する現在と〕別の時期は、将来の素面の生活の計画にも、過去の素面の生活の想起にも、帰せられることがありうる。しかしそれでも、この別の時期はまったく別の深く変更されたやり方で実在するのであって、これは、硬化した肉の中で柔らかい吹出物を捉えるように、固められた現在の中で別の時期を捉えるやり方である。したがって、この別の時期たる柔弱な中心で、アルコール飲みは、自分の愛の対象、『嫌悪と憐憫』の対象に自己同一化できることになるし、他方では、アルコール飲みが意志し体験する現在の固さのおかげで、実生活との距離を保てることになる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.274~275」河出文庫)

「そして、アルコール飲みは、この硬直が隠匿する柔らかさを愛するのと同様に、自分を捕える硬直も愛するのである。一方の時期が他方の時期の中にあり、現在がこれほど固くなり硬直するのは、破裂しそうな柔らかな点を占拠するためにほかならない。同時的な二つの時期は、奇妙な仕方で複合される。すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、《複合過去》しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)。これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全-能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の《中で》経験するやり方を表現する。ここにおいて、複合過去は隔たりや完遂をまったく表現していない。現在の時期は、動詞・持つの時期であるが、すべての存在者は、『過去』として、《同時的な》別の時期の中に、分有の時期、分詞の固定の時期の中にある。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.275~276」河出文庫)

「しかしながら、さらに別のものになるために、緊張は解けてしまう。というのは、当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する。そして、この逃走の効果が、たぶん、フィッツジェラルドの作品の最大の力になっているものであり、フィッツジェラルドが最も深く表現したものである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.276~277」河出文庫)

「興味深いのは、フィッツジェラルドは、作中人物が飲んでいるところや飲もうとしているところを提示しないということ、欠如や欲求の形態としてアルコリスムを見てはいないのである。慎み深かったのだろう。あるいは、いつでも飲めたのかもしれない。あるいは、アルコリスムには多くの形態があるのかもしれない。ともかく、アルコリスムの一形態は数分前の過去をも自分の過去として振り返る。(ラウリーは反対に──。しかし、欲求の激しい形態としてアルコリスムが生きられるときにも、時間の深い変形が現出する。今度は、将来のすべてが《前-未》来として生きられてしまう。そして、この複合未来は恐ろしいほどに加速し、死に到る効果の効果を生み出す)。フィッツジェラルドの主人公にとって、アルコリスムとは、崩壊の過程そのものであり、この過程が過去の逃走の効果を決定するのである。こうして、素面だった過去が、主人公から切り離されるだけではなく(『わが神よ、十年間も酩酊』)、先ほど飲んでいた近い過去や、一次効果の幻想的な過去も、主人公から切り離されるのである。すべては等しく遠ざかってしまうので、また飲むのが必要だと、あるいはむしろ、飲み直してしまったことを持っているのが必要だと決定される。硬化して色褪せた現在、唯一存続し死を意義する現在に勝利するためには必要だと決定されるのである。この点で、アルコリスムが範例的になる。というのは、金銭の喪失、愛の喪失、祖国の喪失、成功の喪失といった他の出来事は、それぞれの仕方でアルコール-効果を与えるからである。それらは、アルコールから独立に外在的な仕方でアルコール-効果を与えるが、アルコールの結末に似ているのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.277~278」河出文庫)

「例えば、フィッツジェラルドは、金銭のことを『私は富んでいた』こととして生きる。こうして、フィッツジェラルドは、富んでいなかった時期からも、富むようになった時期からも切り離され、そして、当時身を委ねていた『真の富者』への同一化からも切り離される。ギャツビーの有名な恋の場面がある。ギャツビーは、愛し愛される時期に、『とんでもない感傷』に浸って、酔いどれ男のように振る舞う。ギャツビーは、全力でこの現在を固めて、固い現在によって最も柔らかな同一化を締め付けようと意志する。それは複合過去への同一化、すなわち、ギャツビーが、同じ女性によって、絶対的に、排他的に、独占的に愛されていたということを持っていたであろう時期として複合された過去(十年の酩酊のような五年の不在)への同一化である。この同一化の絶頂で、ギャツビーは、グラスのごとく割れ、一切を、近い恋も古い恋も幻想の恋も失う。フィッツジェラルドは、同一化の絶頂について、それは『一切の実行の死』に等価であると述べていた。しかしながら、同タイプの出来事の中で、アルコリスムに範例的等価を与えているのは、アルコールが、同時に愛と愛の喪失であり、金銭と金銭の喪失であり、祖国と祖国の喪失であるということである。アルコールは、同時に、《対象》、《対象喪失》、予め準備された崩壊の過程(『もちろん』)における《喪失の法則》である」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.278」河出文庫)

「アルコールは、同時に、《対象》、《対象喪失》、予め準備された崩壊の過程(『もちろん』)における《喪失の法則》である」、とある。アルコールの哲学とでも呼べそうな記述だ。「アルコリスムは、快楽を探求しているのではなく、効果を探求しているように見える」。すべてのアルコール依存症者がそうだとは言えない。むしろ、このタイプの依存症者はほとんどいない。ごく僅かな少数派だろう。だが時折、このタイプの依存症者、自分で自分自身の身体をピンセットでアルコールに浸してみたり、また干してみたりを繰り返し、何かテストでもして測定値を眺めつつ比較検討することに没頭するのを無上の悦びとしているかのような依存症者はなるほどいる。

だからといって、しかしそれがどうしたと言うのだろう。もはやアルコールや薬物だけが問題なのではない。それらが無いところでも脳内分泌物質は幾らでも放出される。多分、カジノとその周辺から湧いて出てくる様々な場所は、これまで測定不可能だった何かをもっと大量にもたらすに違いない。そしてそれは国家の質を急変させるだろう。そのようなシーンを頭に思い浮かべつつ、──どこかで誰かの舌なめずりが──零れ落ち、滲み広がる卑猥な音を聞かなかっただろうか。聞かずにいられただろうか。


自由律俳句──二〇一七年二月二十五日(1)

2017年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年二月二十五日作。

(1)頸動脈はこの辺り患者は切るでもなく

(2)笑えば笑うほど淋しさ

(3)テレビ局から埃ばかり棚上げ

(4)春の芽見つけたどんどん見つけた

(5)除染へぶらぶら女が居る

(6)折り目正しく水をやる狂人

☞「もちろん生涯はひとつの崩壊の過程であるが、そこでドラマチックな役割を果たす打撃なら──外側からやってくるか、少なくともやってくると思われる不意の大打撃なら──覚えていて文句を言ったり、気弱になったときに友達に言えるような打撃なら、被害の深刻さは一度に現われることはない。ところが内側からの打撃もある──気がついてみると何もかも手遅れだし、自分はもう二度とまともな人間になれないと、決定的に悟らせてしまうような打撃である。第一の種類の崩壊作用はてきぱきと運ぶ──第二のものだと、起ってもまず気がつかないかわりに、まったくだしぬけに致命傷をつきつける」(フィッツジェラルド「崩壊」・「フィッツジェラルド作品集3・P.184」荒地出版社)

「人生には別の破壊があるという本題に戻るわけだが、壊れたと悟るのは打撃をうけたのと同時ではなくて、小康状態に入ってからである」(フィッツジェラルド「崩壊」・「フィッツジェラルド作品集3・P.185~186」荒地出版社)

「──そして、それを知ったときには、古い皿のように壊れていた」(フィッツジェラルド「崩壊」・「フィッツジェラルド作品集3・P.186」荒地出版社)

「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もない──ただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」・「フィッツジェラルド作品集3・P.192」荒地出版社)

「ぼくはただ完全に静かなところで考えぬいてみたかった。なぜぼくは悲しみに対しては悲しい姿勢、憂鬱に対しては憂鬱な姿勢、悲劇に対しては悲劇的な姿勢をとるようになったのか。《恐怖や同情の対象と自己との区別が、なぜつかなくなってしまったのか》と。こんなことはどうでもいい区別と思うかもしれないが、そうではない。こういう区別を見失うことは、何ひとつできなくなってしまうようなものだ。気狂いが仕事ができなくなるのはこういう問題だ。レーニンはプロレタリアの苦しみを苦しもうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを、ディケンズはロンドンの貧乏人の苦しみを経験しようとはしなかった。そしてトルストイは、同情の対象にとけこもうとしたが、その努力は本物ではなく失敗に終った」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.196~197」荒地出版社)

訳文は無数にある。とはいえ、ドゥルーズによる訳文は大変示唆的であると考えられるので参照しておく。「私はただ絶対的な静謐がほしかった。どうして、悲しみを前にすると悲しくなり、メランコリーを前にするとメランコリックになり、悲劇を前にすると悲劇的になり始めたのかを決するためにである。また、どうして、嫌悪と憐憫の対象に自己同一化し始めたのかを──。この類の同一化は、実生活での一切の実行の死に等しい。この類のことのせいで、狂人は労働することを妨げられるわけだが。レーニンは、善き意図でと言えようが、プロレタリアートの苦悩を背負い込まなかった。ジョージ・ワシントンも軍隊の苦悩を、ディケンズもロンドンの貧民の苦悩を背負い込まなかった。トルストイは、配慮の対象に溶け込もうとしたが、欺瞞と挫折に終わった──」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.281」河出文庫)。既訳でも理解できると思われるが、トルストイにせよディケンズにせよレーニンにせよ共通している態度がある。社会的には対象の側に立っていながら、しかし対象にどっぷり同一化してしまうと「客観性」に揺れが生じて論理的一貫性は失われてしまう。その危険性について彼らは非常に敏感だった。或る種の「酔い」から距離を置くことの重要性。フィッツジェラルドから見れば、トルストイやディケンズやレーニンは、彼ら自身が持ち得た方法論にあくまで忠実でいることが可能だったのはなぜかという問いにこうして答えているのだ。良い悪いの問題ではないと。

「ぼくの自己犠牲ぶりは底なしだった」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.197」荒地出版社)

「自己犠牲」。確かに。アルコール症者がアルコールに対して払う「犠牲」は「自己犠牲」にほかならず、その形態はまるっきりお笑いを見ているかのようだ。経験者(γ-GTP=最高で700〜1000前後。今は12〜17前後に回復)として言うと、死ぬことなしに、生きていくことができただけでも「儲けもの」の世界である。にもかかわらず大阪府が中心となって推進されている「カジノ構想」。止めるつもりはない。賭博行為そのものはどうでもいい。問題はその周辺に蓄積される。とことん落魄して行き場を失うことになる人々の群れの創出に伴う受け入れ施設の不十分さについて、なぜ日本政府並びに大阪府は適切かつ妥当と考えられる数字を堂々と上げてこないのか。さらに、売買春依存症者の創出に伴う受け入れ施設がまったくとことん不十分であること。これら多重債務的かつ莫大な犠牲者の創出から得られるものは具体的に何なのか、具体的で計画的な経済的指標がまったく未知数であること、などなど。当り前といえば当り前。カジノ客目当ての売春で儲けた資金を資本化しようと考えている女子中高生らが今の日本だけでも一体どれくらいの数にのぼっているか。考えたことがあるだろうか。カジノ周辺で資本化できる貨幣とその使い方の「適法」な方法は、ネット(特にスマートフォン経由で)社会全体へどんどん広がることには疑う余地がない。一度「実験」すれば身に沁みてよくわかるだろうと思われる。売買春依存の場合、血液検査では数値化できないという理由もある。脳内分泌物質の質量などの細かな分析から少しずつデータ化していくほか有効な資料はまだない。もしマスコミのスポンサーに不利な数値とその条件が特定されれば、ただちにマスコミは報道しなくなることはわかりきった話だ。旧ソ連も腰を抜かすほど厳重な報道規制。事実の隠蔽。偽情報の垂れ流し。スポンサーに食わせてもらっているマスコミはスポンサーが関係するカジノのためならいついかなる時でもスポンサーのために「言論の自由」を楯とした「機動隊」と化す準備を整えつつある。無意識のうちにではあっても方向は明らかにその方向へ急傾斜している。従って、今の日本でカジノを、という初体験。経験からしか得られないものは大変多い。その意味では貴重だろう。

「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.197」荒地出版社)

「過去においてぼく自身の幸福はしばしば恍惚状態に近づき、最も親しい人たちと分ちあうこともできず、静かな街や小道を歩いて発散しなければならず、そのうちのわずかな断片が本のごく一部となって結晶したにすぎない──ぼくの幸福自己欺瞞の才能でも、何でもかまわない例外だと思っている。それは自然ではなくて不自然なもの──好景気と同じように不自然だった。ぼくのその後の経験は、好景気がすんだときに国民をのみこんだ絶望の波と同じだった。この事実を見きわめるのに数ヶ月をかけているけれどもぼくはこの新しい運命の中で何とか生きてゆくことだろう。アメリカの黒人たちは快活な禁欲主義によってたえがたい生存条件に耐えることができたが、真実への感覚を失ったように──ぼくの場合も代償を支払わなければならない。もうぼくは郵便屋や八百屋や編集者や従妹の夫に好意を持ったりしない。好意を持てば、彼らはぼくを嫌うだろうしそうなると人生はもうそんなに楽しくはなくなるだろう。ぼくのドアの上には『猛犬注意』の看板がいつもかかっていることになる。ぼくは正真正銘の犬になるつもりだけれども、もしきみがたっぷり肉のついた骨を投げれば、ぼくはきみの手までなめるかもしれない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.200」荒地出版社)

さて、今幾つかのセンテンスを上げた。ようやく次の文章に取り組むことができる。

「『もちろん、人生全体は崩壊の過程である』。これほどハンマー音をわれわれの頭の中に響かせる文はほとんどない。フィッツジェラルドの短編小説ほど、沈黙を課し、恐怖にかられた承服を強いるという、抗い難い傑作の特徴を持つテクストはほとんどない。フィッツジェラルドの全作品は、この命題、とりわけ『もちろん』の唯一無比な展開である。こちらに男と女がいる。あちらに何組かのカップルがいる(何故カップルか。運動が、対合の過程として定められる過程が既に肝要であるからである)。みんなが幸福であるためのすべてを持っている。美しく、魅力的で、富裕、軽薄、才気に満ちていると言われる。次いで、何ものかが通り過ぎて、みんなが、まさに皿やグラスのように割れていく。死によって二人ともども連れ去られるのでなければ、分裂病者とアルコホリック〔アルコール中毒者・依存者・アルコール飲み〕の恐ろしい差し向かいである。有名な自己-破壊というものであろうか。それにしても、正確には、何が通り過ぎたのか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.268」河出文庫)

「二人は、自分たちの力に余る特別なことをやってみたわけではない。ところが、二人が、自分たちには余りに大きな《戦闘》から目覚めてみると、身体は割れ、筋肉は捻挫し、魂は死んでいるのだ。『弾丸のない銃を手にしながら、標的も降ろされて使われなくなった夕暮れの射撃場に立っている感じだった。解くべき問題はなく、静寂だけ。私の呼吸音だけが──私の自己犠牲は、暗く湿った信管でしかなかった』。たしかに内でも外でも、沢山のことが通り過ぎた。戦争、株価暴落、老化、抑鬱、病気、才気の枯渇。ただし、これら騒々しい事故は、即座に効果を発揮し終わる。事故だけで事に十分であるためには、まったく別の本性の何ものかを穿って深くしなければならないだろう。しかるに、その何ものかは、事故から隔たって、遅すぎた時になって、明かされるのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.268~269」河出文庫)

「沈黙した裂け目。『何故、われわれは、平和・愛・健康を順番に失ってきたのか』。沈黙の知覚不可能な裂け目が表面にあったのだ。それは表面の<唯一無比の出来事>、事故にぶら下がり自己を見下ろし、自己自身の場の上を飛ぶ出来事である。真の差異は、内と外の間にはない。裂け目は内でも外でもない。裂け目は、境界にあり、無感覚で非物体的で観念的である。だから、裂け目は外と内に到来するものと、衝突・交差の複雑な関係、リズムの異なる二つの歩調の間歇的合流の複雑な関係を持っている。到来する騒々しいものは、裂け目の縁に到来し、裂け目がなければ何ものでもない。逆に、到来するものの打撃の下でなければ、裂け目は、その道を静かにたどることはできないし、最小抵抗線に沿って方角を変えその巣を広げることもできない。こうして、二人は、そして、騒音と沈黙は、婚姻を親密に続けて、最期にはバリバリと破裂してしまう。いまやその意義はこうなる。内と外での労働が裂け目の縁を緩めると同時に、裂け目の動きは身体の深層で受肉されてきたのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.269~270」河出文庫)

フィッツジェラルド。だからといって、注意しておきたいことは、「感傷的な」フィッツジェラルドというものはどこを探しても存在しない、ということだ。もしフィッツジェラルドの後期短編小説群に接して何か僅かでも「感傷的な」印象を持ったとすれば、それは読者失格とまでは行かないにしても、少なくとも「アメリカでのみ有効なフィッツジェラルド」あるいは「アメリカ化された日韓中露、等々でのみ有効なフィッツジェラルドに関する読み」、と言うべき範囲に留まるほかない。しかしこのようなことをわざわざ述べておこうとするのはなぜだろうか。要するに国公立大学の受験日程もほぼ終わりに差し掛かったからに過ぎない。

「ブスケが傷の永遠性について話すとき、自分の身体が抱える忌まわしい個人的な傷の名において話しているのである。フィッツジェラルドやラウリーが非物質的な形而上学的裂け目について話すとき、また、思考の場所と支障、思考の源泉と涸渇、意味と無-意味をそこに同時に見出すとき、二人は、飲み干されて身体の中に裂け目を実現させたアルコールのすべてをもってそうしているのである。アルトーが、思考の侵食について同時に本質的で偶然的な何ごとかとして話すとき、また、根底的な無力でありながら高度の力であることとして話すとき、既に分裂病のどん底から話しているのである。各人が、何らかのリスクを冒し、リスクの果てまで行って、そこから不可侵の権利を引き出す」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273」河出文庫)

「抽象的に思考する者が智恵と分別の忠告を与えるとき、与える者の側に何が残っているだろうか。忠告を与えるときには何時でも、波打ち際に留まったままで、ブスケ《の》傷について、フィッツジェラルド《の》アルコリスム(アルコール中毒・依存)とラウリー《の》アルコリスムについて、ニーチェ《の》狂気とアルトー《の》狂気について話しているのだろうか。そんなお喋りの専門家になるのか。やられた者が深入りしないことだけを願うのか。募金をしたり特集号を組んだりするのか。それとも、裂け目を伸ばす程度には、少しだけ自分で見に行き、少しアルコリスムになり、少し狂気になり、少し自殺願望になり、少しゲリラ兵になるが、裂け目を治癒不可能になるまで深くしない程度にしておくというのか。どこを向いても、すべてが悲しげに見える」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273~274」河出文庫)