白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年四月一日(4)

2017年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

安易にカルトへ入信する者の中に占める比率は圧倒的に若年層が多い。世間知らずが多過ぎるからなのだが、これまでの経験則上、熱心な「オカルト」趣味者が入信する危険は今なお数多い。アドルノから次の文章を上げておこう。

「オカルティズム愛好は意識の退化の徴候である。意識は、無条件なものを考えながら、条件つきの事態に耐える力を失った。両者を一体性と差異性の両面から規定するのが概念的把握の本来の姿であろうが、両者を無差別に混同するのが退化した意識のやり方である。かくして無条件なものは事実となり、条件づけられたものには無媒介に実体が認められる。一神論が崩壊して、第二の神話が生み出される。『わたしは神を信じないので、占星術を信じているのです』──アメリカで社会心理学畠のある調査が行われたさいに、回答者の一人はこう答えたものであった。のぼりつめて審判者の座につき、唯一神の観念をつかんだ理性は、唯一神の失墜とともにその巻き添えを食ったものらしい。精神(ガイスト)は分裂を起こしてもろもろの妖怪(ガイスター)となり、そのために妖怪などというものが存在しないことを認識する力を失ってしまったのだ。巧みに偽装された社会の不吉な動向はいかさまの啓示や幻覚現象でその犠牲者たちをたぶらかす。幻覚現象の断片的なもっともらしさは、まがまがしい世の成り行きを直視し、それに耐えて行けるような錯覚を彼らに抱かせるのである。数千年にわたる啓蒙の実績がありながら人類はいまふたたび大きなパニックに見舞われていると言っていいので、人間支配という形を取った人類の自然支配にはかつて人間が自然から受けた脅威の怖ろしさをはるかに上廻るものがあるのだ」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.377」法政大学出版局)

続く三箇所は、ただ単なる「迷信」に過ぎないオカルティズムに、なぜ、そこまで熱中する人々が出現してくるのかという点にも踏み込んで書かれている。

「第二の神話は第一の神話のそれより真実性に乏しい。どの時代にも、それなりの認識の段階というものがあり、人間の認識は時代の進展につれて盲目的な自然との関連から解き放たれていくわけだが、第一の神話はそうした意味でそれぞれの時代の認識の結晶だった。ところが偏見と障害の産物である第二の神話はいったん手中に入れた認識を自ら放擲しているのであり、こうした神話の台頭してきた社会は、まさにオカルティストたちが自家薬籠中のものと称している自然の要素を包括的な交換関係によって人目から覆い隠した社会なのである。双子座を見上げる舟人の視線にしても、樹木や泉に生命を見る見方にしても、不可解な現象を前にした心気朦朧の状態にありながら、ともかく行動対象をめぐる人間の経験にその時代なりに適合したところがあった。ところがいろんな等級の見霊者たちの小屋掛けや相談室に甦ったアニミズムは、合理化された社会に対する反動を合理的に利用したものであり、疎外の事実を否認しながらもそれ自体が疎外の証左で、その上それを食い物にしているのであり、存在しない経験の代用品にもなっているのである。オカルティストは商品の物神的性格から極端な結論を引き出してくるわけで、おびただしい悪鬼の面相を呈してさまざまの対象物からオカルティストに襲いかかってくるのはむりやり対象物化された労働にほかならない。生産物の固まりとなった世界にあって当の世界が人間の手で生産されたという事実が一般に忘れられていたわけだが、オカルティストはその事実を遊離・倒錯した形で想起し、即自存在として客体の即自に付け加え、同化するのである。客体が理性の光に照射されて冷却し、生気の仮象を失ったために、生気の源泉となる客体の社会的な質が自然的かつ超自然的な質として独立の扱いを受けるようになり、事物の中の一事物と化すのである」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.378」法政大学出版局)

「おびただしい悪鬼の面相を呈してさまざまの対象物からオカルティストに襲いかかってくるのはむりやり対象物化された労働にほかならない」。日本では幽霊屋敷という出し物がある。江戸時代からずっとある。しかしそこに出没する幽霊とか怪物にはその都度の時代を反映した特徴が見事に投げ掛けられているケースも少なくない。例えば、「部屋中に砕け散った岩盤に背中をぺったり貼り付けて大きな目玉をぎょろりと中空に漂わせたまま暗黒色に固まっている死体」。そのような怪物は江戸時代には存在しなかった。結論から言うと、そのような不自然な死体を暗黒色にべったりと貼り付けたような怪物の出現は明治日本の炭坑労働での爆発事故に端を発しているのである。歪められ、熾烈を極めた、生成期資本主義社会で始めて生じた労働環境の中での大事故。あるいは過労が重なり全身が青黒い痣のように腐り切ってしまった出稼ぎ労働者の死体。欧米では欧米ならではの宗教的伝統があり、近代まではそれに則って、多くはキリスト教の教義関係文書の登場人物の幽霊とかが流行していた。だが欧米もまた近代資本主義社会になると「出た」とか「見た」とか言われる幽霊の姿形は一変する。飛行機墜落現場などがその目撃現場となった。しかし、飛行機墜落現場に幽霊が出るようになったのは近代社会に入ってすぐのことではない。そうではなく、日常的に飛行機がばんばん空を飛んでいるだけでなく、一般大衆が会社の出張とかでごく普通に飛行機を利用し始めるようになって空の事故が激増する一九七〇年代頃から流行した。さらに「ゴールデンウイーク」という言葉が日本に定着してから、今度は「家族連れ」の幽霊の出現が流行するようになる。また、中学生や高校生の描くゾンビの表情は少なからず印象的に思えてこないだろうか。受験と恋愛とマスターベーションと人間関係と長時間アルバイトで疲れ果ててどんより曇り切った虚ろな目とどす黒い表情。身長は大人とさして変わらないのになぜかまだ腰の据わらない不安定な首。その逆に身長や体型は子どもに見えるわけだが、ゾンビの側として仕掛けてくる威嚇の手法は並の大人のほんの思い付きなど遥かに越えた緻密な計画性を発揮する。そんなふうに幽霊とか怪物というものが極めて醜く描かれているだけでなく、その都度その都度の時代背景を背負っている点に、近代資本主義社会定着以降、ずっと信じ込まれてきた「成長神話」とその衝撃的「破綻」の間にただよう余りにも深い落差を読み取らねば一体何のための幽霊屋敷なのか、さっぱりわからなくもなってくるのだ。

「魔術的思考への退行が資本主義末期に行われているために、その思考自体が資本主義末期に特有の諸形態に同化されている。体制の壁の割れ目ごしにその外部をうかがうみじめたらしい企ては、曖昧な反社会性を帯びた体制自体の末端現象であり、壁の外にあるものについては何ひとつ明らかにしないであろうが、それだけでに体制内で進行しつつある退廃のエネルギーについては示唆するところが大きい。もっともらしく水晶球の後に構えて依頼人の心を威圧する小賢者たちは、人類の運命を手中にしている大賢者たちのミニチュアである。心霊研究に携わる蒙昧主義者たちが互いに敵対し陰謀を企んでいる図も、まさしく社会の縮図にほかならない。オカルトがかった事象の及ぼす催眠作用には全体主義の用いる恐喝手段に似たところがあり、事実、昨今の世相では両者は互いに入りまじっている。占者の薄笑いは拡大して社会全体の自嘲と化した観があり、その笑いは人心のあからさまな物的収奪を楽しんでいるのである。星占いにはお役所の一般人への通達を思わせるところがあり、数をめぐる神秘論には官庁の統計やカルテルの価格に対して世人を心構えさせる効果がある。統合ということも種々の権力集団への分裂を偽装するイデオロギーであることが最後に判明するのであって、それらの軍団は互いの撲滅を図っているのである。その渦中に落ちた者はいずれにせよ助からない」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.379」法政大学出版局)

確かに、「占者の薄笑いは拡大して社会全体の自嘲と化した観があ」る。そして「その笑いは人心のあからさまな物的収奪を楽しんでいる」とは、言い得て妙というほかない。さらに、「星占いにはお役所の一般人への通達を思わせるところがあ」る。というのは、市役所でもいいし県庁でもいいが、官公庁から直接出される数字には、或る種の絶大な効果が今なおあると信じている人々はこれまた圧倒的に多いことには目を疑わせるものすら感じさせる。「数をめぐる神秘論には官庁の統計やカルテルの価格に対して世人を心構えさせる効果がある」、とアドルノがいう意味は、「官庁の統計やカルテルの価格」を見せつけられるや否や、一般大衆は襟をただして、まったく疑うということを止めてしまい、思考停止に陥ってしまうという奇怪極まりない近現代人の病いを指摘しているわけだが、それだけでなく、カルト的集団の人心掌握手法として、カルトはいつもその思考停止状態の隙に付け込むという指摘は重要である。この部分の読解は、今の大阪府豊中市の学校法人を巡る諸問題でも妥当するであろう。

「オカルティズムは反ユダヤ主義がその一例となるような思考のパターンによってファシズムと結びついているが、両者の発揮する威力はたんに病的な性質(たち)のものではない。オカルティズムの威力はむしろ、真理に飢えている意識が、いろんな種類の公的な進歩思想によって故意に遠ざけられているにもかかわらず常日頃ぼんやり感じ取っている認識を、いかがわしい万能薬ともいうべきものの力を借り、一種の判じ絵の形で摑むことができると思っているところから来ている。その認識というのは、自発的な転換の可能性を事実上締め出している社会が、そのために全面的な破局にのめり込んでいるという認識だ。星占いは、疎外された自然の要素──事実、星辰ほどに疎遠なものは他に考えられない──の間の模糊とした関連を個人の身の上にかかわる知見として示すわけだが、そうした星占いの気違い沙汰も現実のそれの模写なのである。星座から読み取られる脅威は、没主体の無意識の中に影を落している歴史的現実のそれにほかならない。誰も彼もさきゆき彼ら自身の作り上げた全体の犠牲者になりかねないという事実、彼らとしてはこの事実に耐えるために、当の全体を自身から転嫁して外面的に類似したものに押しつける以外にないのである。根も葉もない恐怖を抱いたり、よしなしごとに現(うつつ)を抜かすことで手に負えない苦しみや死の不安を体よく発散しつつ従前通り抑圧し続けることが可能となるわけで、生き抜くために彼らとしてはそうせざるを得ないのだ。生命線が切れているのは潜伏性の癌のしるしとされているが、そうした見立ての行われる個人の手のひらに即して言えばペテンにすぎない、しかし占い師たちの診断の対象になっていない集団に関してならあながち不当とも言えないだろう。当然のことながら、秘術に凝る連中は自然科学のばかでかい夢物語に魅せられている。彼らは彼ら自身の感化力とウラニウム・アイソトープを混同しているが、惑乱もはなはだしいと言わねばならない。神秘的な光線は技術上のそれのつましい先取りなのである。迷信は、社会の表面にまき散らされている滅亡の符丁を関連づけて解読している点から言えば、一つの認識である。にもかかわらず迷信が愚かしいのは、死の衝動に駆られながらもさまざまの幻想にしがみつき、本来なら現実の社会に直面することによってのみ与えられる回答を天に投影した社会の変形物から期待しているからである」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.380~382」法政大学出版局)

さて、脱カルト活動についての報告に戻ろう。

「八十年代に入信した信者たちは、九十年代に至って、こころを病み始めた。バブルによって人間の欲望のたがが外れ、その崩壊によって資金繰りに困ったカルトは、信者からの資金獲得と奉仕活動を強制し、抑圧が強くなった時期でもある。カルトでは、カルト人格と本来の人格の落差が大きい。信者は落ち込みを堕落と勘違いし、自責の念に駆られる。また、カルト人格を演じ続けていると、自己を見失ってしまう。カルトの中では、どんな信者でも、カルトが要求する模範的な信者像を演じる。いずれも明るく、行動的で、絶対服従が共通している。それは、カルトの指導者にとって都合のよい人物像である。カルトの兵士を増産しやすい。しかし、信者が高い緊張状態を長く維持できるわけがない」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.93~94」至文堂)

カルト問題の社会問題化は八〇年代を足がかりとして大きく取り上げられた。が、九〇年代になってバブル崩壊を迎えるとカルト内部の資金繰りも破綻し出した。信者らの活動もそれまでは楽にこなせていた活動であっても資金の行き詰まりとともに活動は苛酷さを増す。カルト人格化された人々は、カルトの教義に浸透された状態のまま、さらに精神的な専門医療を必要とする精神障害を患うという事態が続々と報告されるようになった。しかしその頃のマスコミはまだまだ対応が遅く、カルト団体に対する認識も甘さばかりが目立ち、国内ではオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生するまでは、何か変わったごく一部の人々によるスキャンダルに過ぎないとして、特にテレビなどでは、まるで芸能ニュースに近い扱い方だった。マスコミの対応は決定的に遅れを取っていた。むしろ逆に、芸能ニュースを大々的に取り上げることで、水面下でじわじわ爆発しかかっているカルト団体の破壊的活動を覆い隠してやる役割りを果たしていた。その意味でマスコミはカルトの側に加担していたと十分に言える。

「カルトは、人間の異常行動をしばしば悪魔の仕業と決めつける。そして、対処の仕方は悪魔祓いである。大声で追い出す。身体を棒で叩く。行き過ぎは、信者を死に至らしめる。西洋では、中世から近世初期にかけて、精神病者が魔女狩りの対象として殺されていった。カルトでも、精神病者に対する対応は最悪で、死者が出ている。安静と節制、対人関係の改善、向精神薬による回復の道が、カルトの中では阻まれ、対決と攻撃の方法で信者の病症を悪化させている。また、場合によっては、突然集団から外に放置されたり、劣悪な環境に監禁されたりすることもある。家族や精神科医、時には弁護士、警察の協力も必要になる」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95」至文堂)

「統合失調症の幻聴幻視の症状は、悪魔や悪霊が乗り移っていると誤解されやすく、適切な対応がとられていない。私が扱った事例では長年、悪霊に憑かれていると言われ、際限なく悪霊祓いをされ、本人もそのように思い込んでいた。悩み苦しみで痩せていた。よく話を聞き、状態を聞くと、それは統合失調症であった。精神科医を勧め、ほどなく症状は改善された。家族は地獄のような日々を過ごしていた。対応を誤れば、家族をも苦しめる」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95」至文堂)

「またある事例は、色情の霊が憑いていると言われ悪霊祓いを長年受け続け、なかなか出ないために煩わしがられていた。これも、統合失調症であった。精神科医の処方する薬を飲めば、症状が回復する旨を伝えた。ほどなく改善がみられた。カルトは、自分たちにとって不都合なこと、事故、病気等を簡単に悪霊の働きと結び付ける。宗教的な対応が最善と信じ込み医療否定に走ることもある。そのために、脱会者からの聞き取り調査をして、家族に状態を知らせ、強制的にもカルトから引き離し、適切な医療を施す必要がある」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95」至文堂)

「カルトの被害相談は、本人からよりも親からの方が多い。子どもがカルトに入信したことを知った親は、至る所に助けを求めて電話をかける。多いのは大学の学生相談窓口、新聞社、テレビ局である。最近はインターネットである。回り回って脱会カウンセラーのところへ相談が行き着く。依頼は何とか脱会させてほしい。子どもの人格が変わった。何とか治していただけないだろうか。どれも切実な要望である」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95~96」至文堂)

「私は子どもを変えてほしいと依頼する親に対しては、まず親から変わるように勧めている。重要なのは言葉である。親は子育ての段階で、躾けのために命令と否定を繰り返している。中学生頃から友だちとの交際が多くなり、親との会話が減少する。高校、大学、社会人と成長していく段階で、親子の対話が十分育たずにあるのに、真剣な対話が必要になるのが、子どもの入信に伴う説得である。親から出てくる言葉は、成人に対するような言葉ではない。本来ならば、成長過程の中で親もコミュニケーション能力を上げていなければならないのに、そのようなことを教えてくれるところはない。つい感情的な話し方になったり、世間体を気にする言葉が出たりで、子どもから会話を拒絶されることがある」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.96」至文堂)

「子どもは人格の完成、悟りを求めてカルトに入信しているために、子どもの使用する用語が理解できない。頭がおかしくなったのでは。だれだれが子どもを入信させたからと、子どもを責めたり、自分を責めたり、他人を責めたり、落ち着きを失うのは親である。子どもだけを変えるのは高ぶりであり、親から変わるように提案している。命令と否定が多いことを指摘し、肯定と疑問の使い方を教える。言葉使いは上から下へではなく、また一直線でもなく、弓形に語りかけるように勧めている。親の口癖の変化に気づくのは子どもである。子どもは自ら会話を変えざるをえない。親の自責の念を解き、対話能力を向上させることは、脱会だけでなく、その後の生活にも必要なことである。そして、親子関係だけでなく、対人関係にも大いに役立つものである」(村上密「脱会カウンセラーから」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.96」至文堂)

カルト問題はほかでもなくカルトを生み出した社会自身の問題だ、という点は多いに強調されるべきだろう。

「メンバーになった者は、拉致され連れ去られて、強制的に洗脳されたのではない。勧誘者との相互作用において巧みに騙されてメンバーになることで、それまで未解決なまま抱えていた人生の問題が解消するかのように思わせられたのである。つまり破壊的カルトは、メンバーに一時の癒しや幸福感をもたらすことがあるかもしれない。しかし実際には、そのメンバーとして過ごすほとんどの時間は、厳しい課題達成の活動にあけくれる連続であり、非常に苛酷なものである。俗に言われるマインド・コントロールとは、通常では受け入れがたき非常識な集団活動を受け入れさせるための、手段を選ばぬ体系的な心理操作なのである」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.138~139」至文堂)

「いうなれば、破壊的カルトの集団管理手法にはメンバーに対する心理的虐待が多く含まれている。すでに臨床心理士は、ドメスティック・バイオレンスや児童虐待などの心理的虐待を扱ってきた。したがって破壊的カルトの被害者である元メンバーの抱える問題もそのような経験からアプローチしていくことができると思われる」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.139」至文堂)