二〇一七年四月二十四日作。
(1)白砂へフルスピードの自死の血しぶく
(2)貨幣かそれとも紙幣がお望み
(3)影の中に影がこっそり
(4)調和を目指して冷めてしまったお味噌汁
(5)正気のようで狂気のようで四十九歳
(6)ぼんやりと飢餓同盟待ち続けている
☞「だからこそヘーゲルは引用節において《死》を『非実在性』すなわち《否定性》ないし『否定的なもの』と呼ぶことができたのだが、《人間》が《行動》であり、《行動》が《死》として『現われる』《否定性》であるならば、《人間》はその人間的ないしは言葉を話す現存在においては《死》でしかない、つまり不定の期間遷延され、それ自身を意識する《死》でしかないことになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.384~385」国文社)
「したがって、《言説》或いは言葉を話す存在としての《人間》を哲学的に説明すること、──これは死の事実を率直に受け容れ、哲学上の三つの次元において、その意義と範囲とを記述することになる。だが、これこそはヘーゲル以前の哲学者たちが怠っていたことであった」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「ヘーゲルはこれに驚いてはいない。なぜならば、死が『最も恐るべきもおんであり』、死の受容は『最も大きな力を要する』ということを彼は知っているからである。《悟性》がおの受容を要求すると述べる。なぜなら、《悟性》はその言説によって実在するものを開示し、己れ自身を己れ自身に開示するからである。このような悟性が有限性から生まれる以上、悟性は死を思惟し死について語ることによって悟性である。──すなわち己れ自身とその根源とを自覚する言説である。だがまたヘーゲルは『力なき美』が《悟性》の要求に応ずることができないことをも知っている。審美家、ロマン主義者、神秘主義者たちは死の観念から逃れ、《無》自体をも何か《存在する》ものとして語る」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「だが、『《精神》の生』は『死の前に脅えその暴威から自己を守る』生ではなく、『死を耐え忍び死の中に自己を保つ』生である、とヘーゲルは述べる。それは、《精神》が言葉により開示された《存在》であり、《精神》の生が《世界》と己れ自身とを自覚する哲学者或いは《賢者》の現存在だからである。ところで、人間が有限であり死すべきもの《である》以上、人間が真に自己を意識するのは、自己の有限性を、したがって自己の死を自己の死を意識することによってである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「加えて、《精神》は『絶対の分裂の中に自己自身を見いだして初めて自己の真理を得る』。なぜならば、再度繰り返すことになるが、《精神》は《言説》によって開示された《実在するもの》だからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
注目しよう。「《精神》は《言説》によって開示された《実在するもの》だからである」、とある。そうであれば人間の精神は言語を伴うばかりか、言語の出現以前に存在することは不可能だったという事実を端的無類の思想で捉えたという宣言にほかならない。ここまで引用してきてようやく明確化されてきたヘーゲル哲学体系の始まり。この始まりの時点で既に人間の精神は常に既に言語を伴ってでしか実在されないし、言語が発生を見ないうちは「絶対的精神」=「神」もまた実在しないということを洩らしている。何とヘーゲルは、「神」は言語を伴う限りで、言語活動によってのみ、実在し得ると語っていることになる。この系譜はニーチェへと受け継がれることになるのだが。
「ところで、《言説》は、《自然》に対立し、自己自身でもある所与としての動物を《闘争》において否定し、所与の自己に与えられた《自然的世界》を《労働》により否定する《人間》の中に生まれる。この《実在するもの》の《人間》と《自然》とへの『分裂』から《悟性》及びその《言説》が生まれ、それらが《実在するもの》を開示し、それによってこの実在するものを《精神》へと変貌せしめる。この《対立》、この《人間》と所与の《実在するもの》との葛藤は、最初は開示する人間の言説の《誤まった》性格を通して顕在化され、《賢者》の言説が実在と《再び合一する》のは時の終わり、《歴史》の終局においてでしかない。そのときに初めて『《精神》は再び自己を見いだす」と述べることができ、精神は、実在を十全に開示する『その真理を得る』と述べることができる。だが、精神が自己を再び見いだすとしても、それは、歴史的過程の中でさまざまな形の誤謬となって顕在化する『分裂』の中で、そしてそれによってであり、この過程自体、互いに継起し、時間の中で次々に生まれては死んで行く世代のそれである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385~386」国文社)