つい先日新聞記事に目を通していると、監視社会に顕著な「パノプティコン」が図式化されて紹介されていた。思ったものだ。インターナショナル/グローバルな時代に入って既に何年過ぎだろうかと。なのに、なぜ今頃「パノプティコン」の説明が、しかも極めて不十分な形を取って解説されないといけないなのか。監視社会の装置としてはもう既に最先端ではない。長年に渡る相互的監視によって「内在化」され一般大衆の間で浸透した罪の意識。そしてそこから生じてきた根拠のない罪の意識の「内在化」が問題なのだろうか。誰に命じられなくとも、あらかじめ自分で自分自身の言動をびくびくしながら規制・調整・解体・統制する「内在化」傾向の徹底性。大手マスコミが今も堂々と担っている大手マスコミの役割なしに、「パノプティコン」=「監視装置の内在化」は不可能だったのだが。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
「ある現実的な服従強制が虚構的な(権力)関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段にうったえる必要はない。ベンサムが驚嘆していたが、一望監視の施設はごく軽やかであってよく、鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、(独房の)区分が明瞭で、戸口の窓がきちんと配置されるだけで充分である。城塞建築にもひとしい古い《安全確保(シュルテ)の施設》(つまり牢獄)にかわって、今や《確実性(セイティチュード)の施設》(新しい一望監視の装置)の簡潔で経済的で幾何学的な配置が現われうるわけである。権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へ──権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。それゆえ、外側にある権力のほうでさえも自分の物理的な重さ(施設や装置の重々しさ)を軽くでき、身体不関与を目標にする。しかもその権力がこの境界(精神と身体との)へ接近すれば接近するほど、ますますその効果は恒常的で深いもの、最終的に付与され、たえず導入されるものとなる。つまり、あらゆる物理的(身体的、でもある)な対決を避け、つねに前もって仕組まれる、永続的な勝利」(フーコー「監獄の誕生・P.204~205」新潮社)
「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議はないのである」(フーコー「監獄の誕生・P.227」新潮社)
監視社会の維持費を保っておくために取られた「経済策」とはどういうものか。追って見てみよう。
「監禁的なるものは、徒刑監獄や犯罪者の懲役刑にはじまり雑多で軽微な規制にまで広がる長い濃淡の段階をもっているとはいえ、法律によって正当化され司法が得意な武器として活用する或る型の権力を伝える。規律・訓練ならびにそこで機能する権力が、はたしてどのように恣意的な姿で現われたりしようか、それらが司法そのものの諸機構を、それらの強さをやわらげながらもひたすら活動させているからには。規律・訓練が権力の諸結果を一般化して、自分の最低段階の施設にまで権力を伝達するのは、権力の厳格さを避けるためであるからには。監禁制度のこうした連続性、ならびに《形式としての監獄》のこうした普及の結果、規律・訓練中心の権力の合法化が、いやいずれにせよそれの正当化が可能になり、こうしてその権力は自らに含まれうる過度なもの、もしくは職権濫用的なものを人目につかぬようにするのである」(フーコー「監獄の誕生・P.302」新潮社)
「ところが反対に、ピラミッド状の監禁制度は、法律上の処罰を行使する権力に、その権力があらゆる過度ないしあらゆる暴力からいわば免れた姿をおびるそうした脈略を与える。規律・訓練の装置とそこに含まれる《規制措置》が巧妙なやり方で拡大上昇する諸段階のなかでは、監獄が表明するのは別種の権力の爆発では全然なく、まさしく、すでに最初の段階の制裁以来たえず働いている機構の強さの補足的一段階にすぎないわけである。投獄するまでにいたらず人を閉じ込める《矯正》施設の最低段階のものと、法律違反を特定したのちにその罪人を送りこむ監獄とのあいだでは、差異はほとんど感じられない(しかも感じられてはならない)のである。独特な処罰権力をなるべく秘密にするという結果をみちびく厳重な経済策である。今後はいかなるものもその権力に、かつて身体刑受刑者の身体に権威の報復をおこなっていた時代の、君主権力の古い過激さをもはや思い出させはしない。監獄は他の場所で始められた仕事を、しかも社会全体が多数の規律・訓練上の機構をとおして成員のそれぞれに続ける仕事を、投獄される人々に継続して行なうのである」(フーコー「監獄の誕生・P.302」新潮社)
「こうした監禁の連続体のおかげで、判決をくだす審級(裁判中心の)が取締りと変容と矯正と改良にあたるすべての審級(行刑中心の)のなかにしのびこむ。極端な場合には、もはやいかなるものによっても前者の審級は後者の審級から区別されないにちがいない、もしも非行者のとくに《危険有害な》性格、彼らの逸脱のはなはだしさ、祭式(司法の有する)の当然の厳粛さなどが存在しなければ。ところが、この処罰権力は機能の点では、治療もしくは教育の権力と本質的には異なっていない。処罰権力はそれらの権力から、そしていっそう劣った取るにたりぬその職務から、下部からの保証を、ただし技術と合理性を中心とする保証である以上やはり重要な保証を受取る。監禁的なるものは、規律・訓練をおこなう技術的権力を《合法化する》ように、処罰をおこなう法律的権力を《自然なものにする》。このように両者の権力を等質化し、法律的権力のなかに存在しうる暴力的なものと技術的権力のなかに存在しうる恣意的なものを消し去り、両者の権力のせいで起こるかもしれない反抗の影響をやわらげ、したがってそれら権力の激化と執拗さを役立たぬものにし、機械技術的であれ慎ましやかであれ同一の計算された方法を一方の権力から他方の権力へ通いあわせる、以上の方法でもって監禁的なるものは、人間の有益な管理ならびに蓄積の問題があらわれた十八世紀にその方式が探究されてきた、あの権力の大いなる《経済策》の実効化を可能にする」(フーコー「監獄の誕生・P.302~303」新潮社)
さて、ネット社会の達成を見た現在、フーコーのいう次元だけからのみ社会を見守っていることはできなくなった。ドゥルーズからも引用しなくてはいけなくなった。面倒ではあるが、次のような見解によっても同時に見なくてはならない。
「私たちが『管理社会』の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味で規律型とは呼べないものになりました。フーコーはふつう、規律社会と、その中心的な技術である《監禁》(病院と監獄だけでなく、学校、工場、兵舎も含まれる)にいどんだ思想家だと思われています。しかし、じつをいうとフーコーは、規律社会とは私たちにとって過去のものとなりつつある社会であり、もはや私たちの姿を映していないということを明らかにした先駆者のひとりなのです。私たちが管理社会の時代にさしかかると、社会はもはや監禁によって機能するのではなく、恒常的な管理と、瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかすようになる」(ドゥルーズ「記号と事件・P.350」河出文庫)
「これからは教育も閉鎖環境の色合いがうすまり、もうひとつの閉鎖環境である職業の世界との区別も弱まっていくだろうし、やがては教育環境も職業環境も消滅して、あのおぞましい生涯教育が推進され、高校で学ぶ労働者や大学で教鞭をとる会社幹部を管理するために『平常点』のしくみが一般化するにちがいありません。学校改革の推進は見かけ倒しで、実際には学校制度の解体が進んでいる。管理体制のなかでは、何を壊しても壊しすぎにはならないのです。それにあなたも、以前からイタリアにおける労働環境の変化を分析され、臨時雇いや在宅勤務など、新しい労働の形態が生まれたことをつきとめておられますが、同様の傾向はその後ますます顕著になってきた(そして製品の流通と分配でも新しい形態が生まれた)。社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞれの社会に、ひとつひとつタイプの異なる機械を対応させることができます。君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに比べるなら苛酷このうえない監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に見えるかもしれません。『コミュニケーションの普遍相』を追求する執念には慄然とさせられるばかりです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.351~352」河出文庫)
フーコーが重点を置いて観察したのは、「監禁は《鋳型》」である、という等式が有効性を持っていた時期である。ドゥルーズが重点を置いて述べていることは、「管理のほうは《転調》であ」ると十分に言えるネット社会の成立によってだ。
「監禁は《鋳型》であり、個別的な鋳造作業であるわけだが、管理のほうは《転調》であり、刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、あるいはその表面上のどの点をとるかによって網の目が変わる篩(ふるい)に似ている。これは給与の問題に、はっきりとあらわれている。工場というものは、みずからの内的諸力を平衡点にいたらせ、生産の水準を最高に、しかし給与の水準は最低におさえる組織体だった。ところが管理社会になると、今度は企業が工場にとってかわる。そして企業は魂の気息のような、気体のような様相を呈することになる。工場でも、奨励金の制度があるにはあっただろう。しかし企業は、工場よりも深いところで個々人の給与を強制的に変動させ、滑稽きわまりない対抗や競合や討議を駆使する恒常的な準安定状態をつくるのだ。愚劣このうえないテレビのゲーム番組があれほどの成功を収めているのは、それが企業の状況を的確に表現しえているからにほかならない。工場は個人を組織体にまとめあげ、それが、群れにのみこまれた個々の成員を監視する雇用者にとっても、また抵抗者の群れを動員する労働組合にとっても、ともに有利にはたらいたのだった。ところが企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健全な競争心だと主張するのである。しかもこの敵対関係が個人対個人の対立を産み、個々人を貫き、個々人をその内部から分断するための、じつに好都合な動機づけとなっているのだ。『能力給』にあらわれた変動の原則は、文部省にとっては魅力なしとはいえない。じじつ、企業が工場にとってかわったように、《生涯教育》が《学校》にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.359~360」河出文庫)
「規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何ひとつ終えることができない。企業も教育も奉仕活動も、すべて同じひとつの変動が示す準安定の共存状態であり、変動そのものは普遍的な歪曲装置としてはたらくからである。カフカは、はやくもふたつのタイプの社会が接しあう接続点に腰を据え、『審判』でもっとも恐ろしい司法の形態を描いてみせた。規律社会における《見せかけの放免》(これは二度にわたる投獄のあいだにあらわれる状態だ)と、管理社会における《果てしない引き延ばし》(こちらは恒常的変異の状態に置かれている)は、まったく違う司法生活の様態である。そして現在の法律学があやふやで、危機に瀕しているとしたら、それは私たちが見せかけの放免をはなれて、果てしない引き延ばしに足を踏み入れているからだ」(ドゥルーズ「記号と事件・P.360」河出文庫)
「規律社会が《司令の言葉》によって調整されていたのにたいし、管理社会の数字は《合い言葉》として機能する(これは同化の見地からも、抵抗の見地からも成り立つことだ)。管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対比ではない。分割不可能だった個人(individus)は分割によってその性質を変化させる『可分性』(dividuels)となり、群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか『データバンク』に化けてしまう。規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としてもち、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ。旧来の通貨がモグラであり、このモグラが監禁環境の動物だとしたら、管理社会の動物はヘビだろう。私たちは前者から後者へ、モグラからヘビへと移行したわけだが、これは私たちが暮らす体制だけではなく、私たちの生き方や私たちと他者との関係にも当てはまることなのである。規律型人間がエネルギーを産む非連続の生産者だったのにたいし、管理型人間は波状運動をする傾向が強く、軌道を描き、連続性の束の上に身を置いている。いたるところで、《サーフィン》が《スポーツ》にとってかわったからである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.361~362」河出文庫)
「サーフィン」とある。が、スポーツとしてのサーフィンなら大昔からあるわけで、政治的経済的にも何ら問題ではなかった。問題なのは、情報社会でもある資本主義的形態である。日々の生活形態そのものが俗語でいう「ネット・サーフィン」化していることに関し注意深く重視しよう。というのは、ネット・サーフィンには終わりというものがない。ピリオドを打つことができない。資本主義は終わりを知らない。
「現在の資本主義は過剰生産の資本主義である。もはや原料を買いつけたり、完成品を売ったりするのではなく、完成品を買ったり、部品を組み立てたりするのである。いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである。だから現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場が企業に席をあけわたしたのである。家族も学校も軍隊も工場も、それが国家でも民間の有力者でもかまわないなら、とにかくひとりの所有者だけで成り立つ同じひとつの企業が、歪曲と変換を受けつける数字化した形象にあらわれるようになるのだ」(ドゥルーズ「記号と事件・P.363」河出文庫)
「芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった。市場の獲得は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の『魂』になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいし、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度の貧困にあるという状態を、みずからの常数として保存しておいたということも、やはり否定しようのない事実なのである。借金させるには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。管理が直面せざるをえない問題は、境界線の消散ばかりではない。スラム街のゲットーの人口爆発もまた、切迫した問題なのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.363~364」河出文庫)
「不思議なことに大勢の若者が『動機づけてもらう』ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように、とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.366」河出文庫)