白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年四月六日(1)

2017年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年四月六日作。

(1)堕胎して酒盛りしている仕事がない

(2)朝の豆腐がだんだんおいしい

(3)可もなく不可もなく春の落日

(4)毒殺の恍惚骨の髄まで

(5)知り合えないまま霞が埋めてしまった

(6)いじめても自己嫌悪

☞「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房)

エロティックなのは「間歇」である。今なお至言だろう。「二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇」、とある。マスコミではもう何年も女子高生の乱倫を問題にして視聴率を稼いでいる。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。「二つの衣服」、「二つの縁」の「間にちらちら見える肌の間歇」、そこにエロティシズムは発生するとバルトはとうの昔に言っていた。例えば、日本ではいつも問題になる女子高生のスカート丈。スカートとソックスの間に「ちらちら見える肌の間歇」が問題の核心なのであって、衣服を身に付けず素っ裸で町を歩いていてもただ単に露出癖のあるB級ポルノでしかない。過激な誘惑力は素っ裸で町中を歩き回ることではない。それはただ単なる「猥褻物陳列」に過ぎない。そうではなく実動的なエンジンは「二つの衣服」/「二つの縁」の「間」を「肌」が揺れ動いてしまうことだ。性別に関係なく色気のある「うなじ」。うなじはただそれだけでは色っぽくも何ともない。厳格に規則正しく設定された髪型と衣服の襟の「間」で「ちらちら」と揺曳して始めて「エロティックなもの」になるのであって、その逆ではない。例えば、校則で決められたスカート丈は校則の側からあらかじめ決まっているわけではない。スカートとソックスの間で「ちらちら見える肌の間歇」が、見る側にとって「どのような効果を及ぼすか」という観点に立って、スカートの「縁」とソックスの「縁」の「間にちらちら見える肌」の側から、校則としてのスカート丈とソックス丈を決定付けにやって来るのである。

「《争いをひそかに差異に替えること》。差異は争いを覆い隠したり、和らげたりするものではない。争いからかちとられるものだ。争いの《彼方と傍らに》あるものだ。争いは差異の精神的状態以外のものではないだろう。争いが(現状を変えようとする)戦術でないたびに(こうしたことはますます多くなるが)、そこに、楽しみ損いが指摘できる。それはみずからのコードに押しつぶされ、もう工夫の余地のない倒錯の挫折だ。すなわち、争いは常にコードに組まれているし、攻撃は言語活動の中で最も使い古されたものなのである。暴力を拒否する時、私が拒否するのはコードそのものである(サドのテクストは、絶えず自分自身のコード、自分だけのコードを創り出しているため、あらゆるコードの外にあり、争いはない。勝利だけがある)。私がテクストを愛するのは、それが、私にとって、《口論》(家庭内、夫婦間について用いられている意味で)や論争が全く存在しない、珍しい言語活動の空間だからである。テクストは決して《対話》ではない。偽装、攻撃、脅迫の恐れはない。個人言語の対立もない。それは、人間関係──日常的な──の真中に、一種の小島を設け、快楽の非社会的性格(暇だけが社会的だ)を露わにし、顰蹙を買うような悦楽の真実、言葉の想像物がすべて廃されたら、悦楽は《中性》であるかもしれないという真実を垣間見させるのである」(バルト「テクストの快楽・P.28~29」みすず書房)

「ステレオタイプ=常套句」を用いることの罪と、用いる時に気を付けるべき点について。

「ステレオタイプとは、魔力も熱狂もなく繰り返される単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰り返される単語は、その度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣することが、もはや模倣と感じられなくなることがあり得るかのように。図々しい単語だ。凝着性を求めていて、自分の固執性を知らない。ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へ移行させる具体的な過程なのである。(新しい言語学を想像してみるといい。それは、もはや、単語の起源、すなわち、語源論も、それの伝播、すなわち、語彙論さえも研究せず、それらの凝固の過程、歴史的言述に沿ったそれらの厚みの具合を研究することになろう。この学問は、真理の歴史的起源以上のもの、それの修辞的、言語的性格を明らかにして、多分、体制にとって危険なものとなるだろう)。(新しい単語、あるいは、耐えがたい言述の悦楽と結びついた)ステレオタイプに対する警戒が絶対的不安定性の原理である。それは何物も大事にしない(どんな内容も、どんな選択も)。二つの重要な単語の結びつきが《当り前になる》と、すぐに吐き気を催す。あるものが当り前になると、私はすぐ放棄する。それが悦楽だ。空しい苛立ちだろうか。エドガー・ポーの小説の中で、催眠術をかけられた瀕死の病人、ヴァルデマー氏は、繰り返される質問(《ヴァルデマーさん、眠っていますか》)のおかげで、仮死状態のまま生き延びる。しかし、この延命は耐えがたい。偽りの死、残酷な死、それは終りではないものだ。果てることのないものだ(《後生だから──早く──早く──眠らせて下さい──それとも、早く、覚して下さい、早く──私は死んだのですよ》)。ステレオタイプとは、このような、死ぬことのできない状態だ。吐き気を催すような」(バルト「テクストの快楽・P.80~82」みすず書房)

バルトが引用しているニーチェから。この部分は何年かに一度は必ず振り返って吟味してみるに十分値する。

「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである。真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」・「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

「われわれは今までのところではまだ依然と、真理への衝動がどこから由来したのかを知ってはいない。何故なら、これまでのところではわれわれは、ただ、社会が、自らを存続させるために設定するところの、真実的であれという、すなわち、慣用の隠喩を用いよという、義務についてだけ、聞いたにすぎないからである、つまり、道徳的に表現すれば、或る確固とした慣習にしたがって嘘を言えという、万人にとって拘束的なものとなっている様式で以て群居して嘘を言えという、義務についてだけ、聞いたにすぎないからである。ところで人間は、自分に関して事情はそのようになっているということを、もちろん忘れているのである。したがって、彼は、右に示したような仕方で、無意識的に、そして何百年来の習慣に従って、嘘を言っているのであって、──人間が真理の感情に到達するのは、まさしく、《この無意識性によって》、まさしくこの忘却によって、なのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」・「哲学者の書・P.354~355」ちくま学芸文庫)

エドガー・ポオからの引用部分は以下。

「『ヴァルドマアルさん、いまあなたがどんな気持で何を望んでいるか、説明して貰えますか?』ふたたび両頬に、あの消耗性疾患に特有の紅潮がすぐのぼってきた。(両顎と唇は相変らず硬直したままだったが)口のなかで舌がふるえ、というよりも、はげしく回転し、ついに、私がすでに述べた、あの同じものすごい声が叫んだ。『後生だ!──早く!──早く!──眠らせてくれ──でなかったら、早く!──目をさまさせてくれ!──早く!──《俺は死んでるんだぞ!》』」(ポオ「ヴァルドマアル氏の病症の真相」・「ポオ小説全集4・P.235」創元推理文庫)