年始早々立て続けに起きた二つの災害。「能登地震災害」と「日航機炎上事故」。どちらにも「人災」の要素があるのはひと目でわかる。にもかかわらず痛感せずにおれないのは、特に日本にいて日本の報道に接するたびに思うのは大量の国民が無意識のうちに、それこそ国家を挙げて「情報貧民」とでもいうべき「群居動物」へ置き換えられつつあるということだけではなく、むしろますます「情報貧民大国」へ加速しているということなのではという問いである。
「問題は、(パニックをあおる主張に反対する人たちのいうような)事実の不確実性にあるのではない。この問題に関するデータにもかかわらず、それが実際に起こる可能性をわれわれが信じられない、ということにあるからだ。窓の外をみてごらん、そこには依然として緑の葉と青い空がある、生活は続き、自然のリズムは狂っていないーーーというふうに。チェルノブイリ事故の恐ろしさはここにある。事故現場を訪れると、墓石がある以外、その土地は以前とまったく変わらないようにみえる。すべてを以前の状態のまま残して、人々の生活だけが現場から立ち去ってしまったようにみえる。それにもかかわらず、われわれは何かがとてつもなくおかしいということを意識している。変化は、目に見える現実のレベルにあるのではない。変化はもっと根本的なものであり、それは現実の肌理そのものに影響する。チェルノブイリの現場周辺に昔通り生活を営む農家がぽつんぽつんと数軒存在するのは、不思議ではない。そう、彼らは単に放射能に関するわけのわからない話を無視しているのである。この状況を通じてわれわれが直面するのは、きわめて根源的な形で現れた、現代の『選択社会』の袋小路である。通常の、強いられた選択の状況では、私は、正しい選択をするという条件のもとで自由に選択する。そのため私にできる唯一のことは、押し付けられたことを自由に遂行するようにふるまうという空疎な身振りである。しかし、ここではそれとは逆に、選択は実際に自由《であり》それゆえにいっそう苛立たしいものとして経験される。われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。ーーー問題はむしろ、われわれが、情報に基づく選択を可能にするような知識を持たないまま選択することを強いられる、ということである」(ジジェク「大義を忘れるな・第3部・P.680~681」青土社 二〇一〇年)
ここで慎重になりたいのは「日航機炎上事故」報道に関して。
多分出てくるのではと思っていたら本当に出てきた報道がある。最初に発表されるのは国交省と自衛隊との間で齟齬が見られるというもの。実際にそう発表された。読者視聴者側からすれば予想通りだった。
しかし頭の痛いことに、不慮の事故や大規模災害発生に際して、政府の態度というものはここ十五年ばかりひとつも変わっていない点だろう。今回も変わっていないどころかより一層頑固かつかたくななまでに打ち固められていることがわかってきた。政府の狙いはいつもそうだ。時系列で報道を見ていると「日航機炎上事故」の問題点は「管制官の不注意だと思われる」という文言が盛り込まれてきた。これまた予想通り。
人間は必ず「ミスをする」けれども機械は決して「ミスをしない」ということがひとつ。原発再稼働を日程に入れたがる政府としては譲ることのできない滑稽な論理である。どんな高度テクノロジーであってもまったく故障ひとつしない機械というものはありえない。しかし政府は「まったく故障ひとつしない機械というもの」が《ある》という前提に立つ。そうでなければ、いうまでもなく原発再稼働はできない。「ありえない」と誰しも考えることが政府の中へ入ると「ある」へと変更されてしまう。
もうひとつはこれを機にますます日本全土の全自動機械化を押し進めすべての市民が常にすでに徹底的管理下に置かれていることすらすっかり忘れ去ってしまえるような完璧な管理社会を打ち立てることへの飽くなき政治意志にいささかも変更はないという暗黙の宣言である。
そしてジジェクの言葉はかつてのソ連以上に時間と場所とを置き換えて、今度はほかならぬ日本で、今この時に、遥かに大規模な形で遂行されているというほかない。いっそのことどこかの国家が最初にやり始めなければ社会実験としては無意味であると新自由主義イデオロギー支持者は考えるに違いない。もう手をつけだした実践だ、立ち止まることなくおおっぴらに押し進めてみようではないかと。しかしこの心もとない日本列島諸地域で暮らす人々は今後どんな立場を引き受けざるをえなくなるか。引用の末尾へ戻ろう。
「われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。ーーー問題はむしろ、われわれが、情報に基づく選択を可能にするような知識を持たないまま選択することを強いられる」
どういうことだろう。一億総「情報貧民」への道のりはすでに先取りされている。ではしかし、どこまでいけば終わるのかと問うのは愚問でしかない。新自由主義というのは終わりというものを「知らない」ところが際立って目立つ特徴のひとつなのだ。