二〇二四年一月十九日。次の記事をエントリした。
「『自助』困難な国と自己責任論の断末魔」
さらに二〇二四年一月二十三日。次の記事をエントリした。
「新自由主義は容赦しない」
「新自由主義は容赦しない」では低所得者層がほとんど消滅した後の世界について述べた。低所得者層の消滅は富裕層という概念の消滅でもある。低所得者層がいないのにそれ以上の富裕層が存在しないのは当たり前の事態。ゆえにそれまでの富裕層がただ単なる一般大衆へ降格して新自由主義システムに捕獲されるとともに新自由主義によって搾取される側へただちに移動するほかない自然必然性について述べたわけだ。
そして急いで付け加えておかねばならないが、ただ単なる一般大衆と化した旧富裕層同士のあいだで、今度はあらためてヘーゲル弁証法に則った「主人と奴隷との弁証法」発生の不可避性について引用しておく必要があるだろう。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。
自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。
このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。
だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。
したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。
この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。
自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。
だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない。
だがこのように死によって、真を確かめることは、そこから出てくるはずの真理をも、したがって自己自身の確信そのものをも、同じように廃棄してしまう。というのは、生命が意識の《自然的な》肯定であり、絶対な否定性のない自立性であるように、死は意識の《自然的な》否定であり、自立性のない否定であるからである。だからこの否定は、承認という求められた意味をもたないままである。死によって、両方が自らの生命を賭け、自分でも他者においても、生命を軽んじたという確信が生じているけれども、この確信は、この戦いに堪えた人々にとって生じたのではない。両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見しらぬ本質態のうちに置かれた自分たちの意識を、廃棄する、つまり自らを廃棄する。そこで、自分だけで在ろうとする《極》としては廃棄されてしまう。だが、それとともに、対立した規定態の極に分裂する本質的な契機が、交替のたわむれから消えてしまう。そして媒語〔中間〕は死んだ統一のなかに崩壊してしまい、この統一は死んだ、ただ存在するだけの、対立していない極に分裂している。両方は意識によって互いに与えかえされ、受けかえされることなく、物として互いに無関心なままに放任し合っているだけである。両者の行為は抽象的な否定であって、廃棄されたものを《保存し》、《維持し》、その結果自らが廃棄されることに堪えて生きるような形で、《廃棄を行なう》意識の否定ではない。
以上のような経験において自己意識にとっては、純粋に自己意識と同様に生命も本質的なのだということが、この自己意識に明らかになる。直接的〔無媒介〕な自己意識においては、単一な自我が絶対的な対象である。だが、この対象はわれわれにとっては、言いかえれば、自体的には、絶対的な媒介であり、存立する自立性を本質的な契機としている。前に言った単一な統一が解体するのは、最初の経験の結果である。この解体によって、純粋の自己意識と、純粋に自分だけが有るのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識とが、措定されている。この後の意識は、《存在する》意識もしくは《物態》という形での意識〔僕〕である。両方の契機はともに本質的である。ーーーつまり、両者は、初め等しくなく、対立しており、統一に反照〔省〕することもまだ起こっていないので、意識の二つの対立した形態として在る。一方は独立な意識であって、自分だけでの有〔対自存在〕を本質としており、他方は非独立的な意識であって、生命つまり他者のための存在を本質としている。前者は《主》であり、後者は《僕》である」(ヘーゲル「精神現象学・上・B-自己意識・四-自己意識の確信の真理・A-自己意識の自立性と非自立性 主と僕・P.219~227」平凡社ライブラリー 一九九七年)
現在のところはまだ富裕層の範囲に入っている人々だが、新自由主義の世界化とともに、世界水準の弁証法へ叩き込まれる。新自由主義を支持するということはほかでもない、そういうことだ。そしてその方向を全面的に支持する選挙結果が今の日本では多数派として支持されている。自分たちで自分たち自身のライフスタイルを一変させてしまう恐れを十分にもつ新自由主義。この急進的資本主義をわざわざ選挙を経て選択した以上、ヘーゲルのいう「主人と奴隷との弁証法」が繰り返されるのはもう目に見えている。
低所得者層がほぼいなくなると同時に今度は搾取される側に回されることになる富裕層。今にも増して過酷な生活様式としてのしかかってくることがわかっている選択をなぜ多数の有権者が支持したのかさっぱりわからない。ともかく、ただ単なる一般大衆へ降格することになる今の富裕層にはその覚悟があるのだろう。しかし一方、逆説的にも、低所得者層がまったく消え失せるということになるかといえば、そう単純にはならない。
ただ単なる一般大衆へ降格し、さらに強度を増していく新自由主義システムの中で敗者の続出は加速する。これまでの富裕層から見て低所得者層だった人々の位置へ富裕層が編入されることはわかりきった論理である。
人間というものは低所得者層の多様性を見ていると富裕層はそうではなく「ひとつに見える」という錯覚をいつも起こす。ところが富裕層同士で潰しあうことが至上命題と化すと同時に可視化されることは、富裕層が「ひとつに見える」という錯覚がもはやありえなくなるというリアルな事態にほかならない。
アメリカで新自由主義を加速すればアメリカ全土で渦巻く無数の諸問題を解決できるだろうとした「加速主義」はトランプの四年間であっけなく失敗するほかないことが証明された。しかし新自由主義支持が多数派を占めている日本では、ますます加速することしか知らない新自由主義が、他の国々は別としても、少なくとも日本では失敗しないと本気で信じている人々の側が多いということになっている。
この危険な傾向を押し進めていけばただ単に「ひとつに見えていた」に過ぎなかった富裕層同士のあいだで、歴史の教訓が告げているように富裕層の中で分裂が生じ、二大勢力が「主人と奴隷との弁証法」を大々的に演じるほかない。そして「主人」の位置に立つことができた勢力であってもなお「奴隷」へ編入された勢力が「労働力」として機能することを承認しなければどうなるだろう。労賃は支払われない。支払われなければ市場にどれほど多くの商品が並んでいても貨幣交換されえない。商品は剰余価値を実現しない。剰余価値を実現しない商品を商品と呼ぶことは決してできない。潤沢な労賃がまんべんなく市場に行き渡っていないところではどこへ行っても、どれほど画期的な高度テクノロジーを持ってきたとしてもなおほんのわずかな利潤ひとつ生まれはしない。