群馬県沼田市こしひかりの物語

旧新治村の田んぼでとれたコシヒカリの物語です。
それから、生活・リハビリについて、徒然なるままに書いています。

老老介護・認認介護

2011-12-16 13:20:38 | Weblog

老老介護・認認介護

これからの10年どう自分をコントロールするか。最後まで自分のことは自分でできるように心身ともに健康でありたいものだ。どう寿命を全うするか?昔からの課題だ。

 「幻の養生書『病家須知』に迸る人間愛」
         中村節子(看護史研究会会員、藤沢市立看護専門学校元校長)
             『致知』2007年6月号 「致知随想」より
 江戸時代後期に、町医・平野重誠(じゅうせい)によって著され、それまでの看護法を集大成した日本初の看護書といわれる『病家須知(びょうかすち)』。
貝原益軒の『養生訓』と並ぶ養生書の二大金字塔とされながら、その存在はほとんど知られていませんでした。
書名が「病人のいる家」+「須く知るべし」から取られているように、内容は養生の心得に始まり、療養、介護、助産、さらには医者の選び方や終末期ケアについてなど多岐に亘ります。
昨年、看護史研究会が発足五十周年を迎えたのを機に「何か看護学生のために役立つものを」と考え、本書の現代語訳に取り組むことになりました。
メンバーは二十代から七十代の専門家十数人です。現代語訳に取りかかる前に、私はまずこれを書いた平野重誠の人となりを知りたいと思い、図書館を訪ねてみました。
しかし詳しい資料は見つかりません。方々を探し回った挙げ句、漢方の専門書に記されてあった名前だけを頼りに、歴史家の先生方七名に手紙を出しました。
そうして、北里研究所東洋医学総合研究所の小曽戸洋先生から返信をいただけたことで、重誠の子孫の方とも連絡を取ることができ、埋もれていた歴史に一条の光が差し込んできました。
著者・平野重誠の生年は一七九〇年。幼い頃から父親に医術を学び、徳川将軍家の主治医だった多紀元簡に師事するなど大変な秀才でしたが、官職には就かず、生涯を町医者として過ごしたといいます。
1713年、『養生訓』の刊行を機に健康指南書が相次いで出されたものの、いつしか「医」は仁術から算術へと堕落し、人々の間にも健康はお金で買うもの、といった風潮が広まっていました。
そうした世の流れに抗い、日本人が伝えてきた日常の心がけを基本に養生や看護の方法をまとめ、1832年に出されたのが『病家須知』でした。(つづく)

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