あきまさブログ

日々平安なれ

ある明治人の記録

2012-03-04 | 日記
石光真人編著「ある明治人の記録」読了。
この本は誰かの書いたエッセイか何かにチラリと題名が出ていたから借りてみたもの。
中公新書の1971年初版のもので1989年25版だから、もう書店には出ていないんじゃないかと思われる。

驚き入ること、同情したいことが多く、読み続けるのが辛くて、ついつい他の本に逃げるときが多くなり読み終えるのに時間が掛かった。

ある明治人とは「柴五郎」なる御仁。
1859年安政6年生まれ、1945年昭和20年没。
ご本人から記録された文書を石光氏が借り受け、書き写し、刊行したもの。
柴家の家族の眠る菩提寺に納めて門外不出として、肉親の菩提を弔おうと柴五郎氏が考えたもののようだ。

五郎氏は、会津藩の280石で重用された武家の五男五女の五男に生まれた。
そして大変な苦労の末、陸軍大将軍事参議官に上り詰めた。

侍、武士のことが間違って伝えられていることを正している。
引用、「武士といわばすぐ大声を発し、酒飲みて狼藉し、切り棄て御免のごとく伝うるものあるも、甚だしき誤りなり。かかるものは浪人の成れの果てか、やくざに類するものにて、武士一般を語るものにあらず。」

金銭に関しても自ら手にせず、年に一回祭礼のとき銭を使うことを許されたときも、自ら勘定するのではなく、銭入れのまま商人に渡してとらせる。

徳川慶喜が大政奉還を決し、会津藩主松平容保その英断を称揚して率先して賛意を表した。
慶喜、容保は召されて、爾後天下とともに同心尽力し皇国を維持しよ、との詔勅を賜る。
しかし、前日、岩倉具視、西郷吉之助、大久保利通等の謀議により、慶喜公殺害、会津討伐の密勅と錦旗が薩長に下されていた。

何ということか。
私は歴史に疎く、歴史的事件を知らないが会津の白虎隊討ち死になどは知っているが、こんな背景があったとは知らなかった。
後刻出てくるが、
維新のとき、西郷、大久保等は「天下の耳目を惹かざれば大事ならず」として会津を血祭りに挙げた。
何ということか。

会津に薩長等が攻め入り、ご城下は焼き払われる。
その前に家族の女子は母、姉妹皆々自害して果てる。
そのうち、
容保会津藩は弘前に移封されたが、
同行した藩民は新田開拓しなければ食うことも出来ない、三十万石が三万石に減らされたのだ。
住まいは乞食と同じ。
建具あれど畳なく、障子あれど貼る紙なし、板敷きに蓆を敷き障子には米俵をわら縄で縛り、炉に焚き火して寒気を凌ごうとしても風が吹きぬけ炉辺でも氷点下十度十五度、
涙なくして読めない。

やがて江戸に俘虜として送られ、
学僕、下僕、馬丁としてその日暮らしを続け、機会を捉えて陸軍幼年学校に入学する。
その後、西郷が西南戦争を指揮し亡くなり、大久保利通が暗殺される。
不勉強で歴史を十分知らないが知りたくなる本だった。

今日は赤ちゃん来訪。
ご主人が仕事で出勤のため我が家へ来てくれた。
昨日の暖かさが嘘のように肌寒く雨が今にも降りそうな空模様。
天気予報を見ても、三寒四温が始まったようだからまもなく春だろう。

日本橋の上に高速が走っている無粋な画。


向こうの派手なバスはハトバス。