一昨日の夕方自分はあるレンタルCD屋で今井美樹のPRIDEを試聴した。若い頃からよく人前でも泣いてしまうのだが、この年になるとさらに涙腺がゆるんでしまうのか、涙が止まらなかった。
そばでは高校生が他のCDを聴いていたがその場で大声を上げてしゃがみこんで泣きたい気分だった。
何度もスタッフルームと店内を往復する店員さんが気づいたかどうかは分からない。
でも、CDを棚に返して店を出るのが精一杯で借りることなどできなかった。
自分で言うのもすごく変だけれどきっと自分は頭がいいんだろうと思う。
特別頭がいいわけではなくて、これでも頭がいい部類に入るという程度でしかないのだろう。
そういうのが自分でも一番困る。
できれば何も考えずに生きてゆきたい。
でもそれは自分には無理なのだ。
若い頃からそうだった。
思春期のころはまさか自分が今の年まで生きるとは思ってもみなかった。
またそんな日が来るというよりも、常にそんなことを思いながら生きてゆくような気もする。
今井美樹の歌の中に好きな人を思っていられることが自分のプライドだというような歌詩があるけれど、自分はそう思えるような人にはなかなか出会えなかった。
きっと一生出会えないかもしれない。
むろん男友達は違う。
でも女性ではそんな人にはなかなか出会うことはできない。
男性の場合には出会った友人の数が多いし、小さいころからの友人が多いので、損得とか無しに付き合えるということもあるけれど、いずれにしろ男性でも女性でもずっといい付き合いをしてゆくのはすごく難しい。
適当なころを見はからって次第次第に離れてゆければいいのだけれど、現実世界がそうであるようにネットの世界もそれがかなり難しいということが最近骨身にしみて分かってきた。
人と付き合えば付き合うほど、親しくなればなるほど別れるときの傷もまた深くなる。
今自分はいろんな意味でそうした意味の傷に直面している。
こんな生き方しかできないけれど、本当にこれでいいのか、生まれて初めて言うけどさびしくてたまらない。
今自分の悩みを聞いてくれる人があればきっと自分は悪魔のもとへもおもむくだろう。
もしかしたらすでにおもむいてしまって、いま自分が話している相手が悪魔だと気づき始めたのかもしれない。
相手にしてみれば自分こそが悪魔だということになるのだろうか。
学歴の高い多くの若者が世間的に非難されている宗教へ走る時の心理状態というのもようするに今の自分のような状態なのだろうか。
幸い、とういべきか、自分はいかなる邪宗にも自分の魂を売り渡さずにすんだ。
それはこれを見ている友人をはじめ、死んだ父親をはじめとする身内などのおかげだ。
そして今も自分のことを気にかけてくれる会ったことのない年の離れた友人もいる。
自分が今悪魔だと気づき始めた人間の魔性には今までも気づきながらもその魔性にあえて目を閉じることで自分を生き延びてきた人もいるであろう。
はっきり言えば自分もそんな人間の中の一人であった。
しかし自分はもはやその魔性から目をそらすことはできない、悪魔と闘いながらお互い血を流して心中するしかないのかもしれないと今、感じている。
もしかしたらそれは自分の中の魔性に気づいた証拠なのかもしれない。