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名も無きねこに

分銅(薄い板状の)

2007-05-02 07:28:59 | わたし
 連休ということで、ある友人が数年ぶりに訪ねてきた。最後に会ってからずいぶん経つ。四年か五年。それほど久しぶりという感じはしない。

 相変らずというか、わたしがコーヒーを入れている間、友人は本棚を検分していた。人の書棚にある本を見てはああでもないこうでもないと、要らぬコメントをしてくれるのが鬱陶しかったのも、かつて疎遠となった原因のひとつだった。

 近況を聞いてみたところ、勤め先を辞めて自分の会社を興したり、投資活動に精を出したりと、浮世の事情に疎いわたしにしてみれば、随分活発な人物だなと、尊敬の念が湧く。しかし本の話題になると、そりが合わないのは以前と同じだ。

 ポストモダニズム以降、今の時代に合う哲学というべきものが見つからない云々、と話を聞かされても、わたしはポストモダニストの著作は読んだことが無いし、そもそも「時代」ということばで何を指し示したいのか、しっくりこない。
 「ニーチェが言う」とかなんとかいう台詞が多いけれど、読んだことがあると聞いたのは確かツァラトゥストラぐらいだったはずだ。「ニーチェ」とか「超人」でいったい何を指したいのだろう。
 自分のことばでパラフレーズするよう頼んでもできない。相変らず身の丈にあわないコトバを振りかざす。

 それなりに気を使いあい、仲たがいもなく、生温い関係を残して友人は去った。

 翌日、勧められた太宰の『ダス・ゲマイネ』を読んだ。作中に登場する太宰と馬場の問答を見て、なるほどと思わされた。おそらく、格言や引用、アフォリズムを偏重する友人の思考は、こうした当意即妙の問答への憧れから出ている。
 寸言で物事を射止めるように表すのが理想なのだろう。それに魅力を感じるのは、まあ、わからなくはない。
 一方わたしは、精密な秤と分銅を使って慎重に量り、さらに手に取って重さと質感を確かめたことばだけを使っていきたいと思っている。

 再び疎遠になるかどうかは分からないが、ことばの使い方について話しあう機会は、きっと無いだろう。

 いや、そもそも、ことばの使い方なんか、突き詰めて誰かと話すことはあるのか?
コメント
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