通院の途上、いつもどおり、駅近くの某大手チェーン古書店に寄った。
文庫で目ぼしいものが無いけれど、そのまま店を出るのはもったいない気がして、
大型辞典の棚を見てみると、広辞苑第4版が300円、
研究社の大型英和辞典第5版(だったか?)が100円だった。
これが帰り道なら即買いだが、大型辞典二冊を携えて電車に乗って行くのは辛い。
後で買おうと思って、病院へ向かった。
病院での待ち時間は、
『自己発見の心理学』(国分康孝 1991 講談社)を読んで過ごした。
精神分析や心理学の本は、これまで読んだことはあったが、
具体的な自己分析について書かれたものや入門書には、
何か触れることがためらわれる気がして、これまで手にとらなかった。
どうして避けてきたのか。
自分自身から目を背けたい心境からだったのかもしれない。
ただ、精神病院通いがこうも続いて、
社会復帰の目途を中々立てられないことに、焦燥感はある。
いろいろと考えて、実社会に戻るにしても、
自分は人生で何がしたいのかを知らないことには、
どうも戦略の立てようがないらしいことに、やっと気づいた。
入院中に受けた心理検査の結果でも、
主観的な思い込みが強い傾向があることも指摘されていた。
これまで自分を知らなさすぎて、
いらない苦労や問題を自分で作っていたのかもしれない。
普通の人なら、学校社会や就職活動を通じて、
それなりに自分というものを知るのかもしれないが、
わたしはそれらをあまり経験せずに、いままで来てしまった。
それで、この年になって自己分析に取り掛かろうというのだ。
国分康孝は冒頭でこう述べる。
自分の人生において、
・ 究極的に存在するもの、
・ 何かを理解した、わかったと言える条件の妥当性、
・ 何をすべきか・すべきでないか
という三大要件を考え、それらに対する回答を、
人生哲学として持っていないと悩みが生ずる。
その人生哲学を自分に問うためのひとつの考え方として、
彼は認知行動療法の一つである論理療法を提示する。
論理療法の骨子は、人の悩みを出来事/事実 (Activating event / fact)・
受け取り方 (Belief)・結果 (Consequence)の三要素に還元し、
事実認識に誤りがあるか論理的な観点から検討を加え、
必要な場合は事実そのものを変容させる努力をする、というものだ。
「神経症」の例の多くは誤った事実認識や
非論理的な推論による歪んだ信念に起因する。
例えば、「~ねばならない」という思考は
事実から帰納されるものではない場合が多い。
それをあたかも真理のように信じ込んでしまうことで、
フラストレーションへの対応がまずくなり病気になる。
だから「~にこしたことはない」という方向に思考を転換することが、
自分の行動や状況を変えるきっかけになる。
しかし、単にそれでは精神論や負け犬の遠吠えにとどまる。
だから困難に直面しても、それに立ち向かう必要があれば、
こじ付けではない必然的な意味を自らそこに創造して、
実際に行動を起こして経験を積んでいく必要もあるのだ。
思い込みの検討方法については、あとがきに要約がある。
旧陸軍学校で教育を受けた人らしく、その口調は多少手厳しい。
若き日の私にアッピールし、
六十歳の今でも私を燃え立たせる論理療法のことばがある。
曰く、神経症者とは愚者のことなり (A neurotic person is a stupid person.)。
愚者とは考えが足りない人間のことである。考えが足りない人間とは、
(1)自分の考えを支える事実はあるか、
(2)自分の考えを支えるだけの論理性はあるか、
(3)ある考え方に固執しているためにかえって自分を不幸にしていないか、
の三点を考えない人間という意味である。
考えもなしにぼんやりと状況に流されるような生き方をしているから
神経症者になるのである。
人生哲学は人それぞれであるので、
論理療法の考え方は好き嫌いが別れるだろうし、
絶対に正しいとは限らないと著者は述べているが、
わたしには性に合いそうだ。
ぼんやりと考え無しに流されるから「神経症」になるとは、
正しくそのとおりだし、客観的な視点を欠きがちで、
出来事への対応が凝り固まっていたと言える経験も思い起こされる。
信念を論理的に吟味していれば、冷静に判断を下して、
多少は行動や感情を変える可能性があったかもしれない。
ただ、それがわかったところで、人はそうもうまく変われるものなのか。
病院からの帰りにあった出来事に、読んだばかりの内容を早速適用してみた。
再び寄った古書店。
例の二冊は棚から見事に消えていた。
かなり目立たない売り場にあっても、
あの値だとさすがにすぐに売れてしまうのかと落胆した。
しかし、悔やんでも売れてしまったものは戻ってこない。
「買わなければならなかった」という文章記述が、
心のどこかにあるから気落ちするのではないか。
実際に買う必要があったか、事実を検討した。
a. 研究社の大辞典は、かなり古い版であれば既に持っている
b. 広辞苑は第5版をPCにインストールしてある(PCの起動の手間はあるが)
そこから、
「両方とも安価で手に入れられればそれに越したことはなかった」
程度の必要性しかなかったという結論が出た。
店を出るまでは多少がっかりした思いが残っていたが、
少し離れたスーパーで缶コーヒーを飲んで一休みするうちに、気も落ち着いた。
家へ向かう道を歩いていると、途中で太陽がビルの陰に隠れた。
建物越しに射す日の光は、盛夏の勢いが無かった。
そう思った瞬間、右手から涼しい風が吹いた。
風の感触を反芻しながら見た空は、澄んだ秋の青になっていた。
なぜだか、自分は変われるのではないかと感じた。
こんなつまらないことからでもいいから、少しずつ、
自分を変えていけるか、検討してみよう。
文庫で目ぼしいものが無いけれど、そのまま店を出るのはもったいない気がして、
大型辞典の棚を見てみると、広辞苑第4版が300円、
研究社の大型英和辞典第5版(だったか?)が100円だった。
これが帰り道なら即買いだが、大型辞典二冊を携えて電車に乗って行くのは辛い。
後で買おうと思って、病院へ向かった。
病院での待ち時間は、
『自己発見の心理学』(国分康孝 1991 講談社)を読んで過ごした。
精神分析や心理学の本は、これまで読んだことはあったが、
具体的な自己分析について書かれたものや入門書には、
何か触れることがためらわれる気がして、これまで手にとらなかった。
どうして避けてきたのか。
自分自身から目を背けたい心境からだったのかもしれない。
ただ、精神病院通いがこうも続いて、
社会復帰の目途を中々立てられないことに、焦燥感はある。
いろいろと考えて、実社会に戻るにしても、
自分は人生で何がしたいのかを知らないことには、
どうも戦略の立てようがないらしいことに、やっと気づいた。
入院中に受けた心理検査の結果でも、
主観的な思い込みが強い傾向があることも指摘されていた。
これまで自分を知らなさすぎて、
いらない苦労や問題を自分で作っていたのかもしれない。
普通の人なら、学校社会や就職活動を通じて、
それなりに自分というものを知るのかもしれないが、
わたしはそれらをあまり経験せずに、いままで来てしまった。
それで、この年になって自己分析に取り掛かろうというのだ。
国分康孝は冒頭でこう述べる。
自分の人生において、
・ 究極的に存在するもの、
・ 何かを理解した、わかったと言える条件の妥当性、
・ 何をすべきか・すべきでないか
という三大要件を考え、それらに対する回答を、
人生哲学として持っていないと悩みが生ずる。
その人生哲学を自分に問うためのひとつの考え方として、
彼は認知行動療法の一つである論理療法を提示する。
論理療法の骨子は、人の悩みを出来事/事実 (Activating event / fact)・
受け取り方 (Belief)・結果 (Consequence)の三要素に還元し、
事実認識に誤りがあるか論理的な観点から検討を加え、
必要な場合は事実そのものを変容させる努力をする、というものだ。
「神経症」の例の多くは誤った事実認識や
非論理的な推論による歪んだ信念に起因する。
例えば、「~ねばならない」という思考は
事実から帰納されるものではない場合が多い。
それをあたかも真理のように信じ込んでしまうことで、
フラストレーションへの対応がまずくなり病気になる。
だから「~にこしたことはない」という方向に思考を転換することが、
自分の行動や状況を変えるきっかけになる。
しかし、単にそれでは精神論や負け犬の遠吠えにとどまる。
だから困難に直面しても、それに立ち向かう必要があれば、
こじ付けではない必然的な意味を自らそこに創造して、
実際に行動を起こして経験を積んでいく必要もあるのだ。
思い込みの検討方法については、あとがきに要約がある。
旧陸軍学校で教育を受けた人らしく、その口調は多少手厳しい。
若き日の私にアッピールし、
六十歳の今でも私を燃え立たせる論理療法のことばがある。
曰く、神経症者とは愚者のことなり (A neurotic person is a stupid person.)。
愚者とは考えが足りない人間のことである。考えが足りない人間とは、
(1)自分の考えを支える事実はあるか、
(2)自分の考えを支えるだけの論理性はあるか、
(3)ある考え方に固執しているためにかえって自分を不幸にしていないか、
の三点を考えない人間という意味である。
考えもなしにぼんやりと状況に流されるような生き方をしているから
神経症者になるのである。
人生哲学は人それぞれであるので、
論理療法の考え方は好き嫌いが別れるだろうし、
絶対に正しいとは限らないと著者は述べているが、
わたしには性に合いそうだ。
ぼんやりと考え無しに流されるから「神経症」になるとは、
正しくそのとおりだし、客観的な視点を欠きがちで、
出来事への対応が凝り固まっていたと言える経験も思い起こされる。
信念を論理的に吟味していれば、冷静に判断を下して、
多少は行動や感情を変える可能性があったかもしれない。
ただ、それがわかったところで、人はそうもうまく変われるものなのか。
病院からの帰りにあった出来事に、読んだばかりの内容を早速適用してみた。
再び寄った古書店。
例の二冊は棚から見事に消えていた。
かなり目立たない売り場にあっても、
あの値だとさすがにすぐに売れてしまうのかと落胆した。
しかし、悔やんでも売れてしまったものは戻ってこない。
「買わなければならなかった」という文章記述が、
心のどこかにあるから気落ちするのではないか。
実際に買う必要があったか、事実を検討した。
a. 研究社の大辞典は、かなり古い版であれば既に持っている
b. 広辞苑は第5版をPCにインストールしてある(PCの起動の手間はあるが)
そこから、
「両方とも安価で手に入れられればそれに越したことはなかった」
程度の必要性しかなかったという結論が出た。
店を出るまでは多少がっかりした思いが残っていたが、
少し離れたスーパーで缶コーヒーを飲んで一休みするうちに、気も落ち着いた。
家へ向かう道を歩いていると、途中で太陽がビルの陰に隠れた。
建物越しに射す日の光は、盛夏の勢いが無かった。
そう思った瞬間、右手から涼しい風が吹いた。
風の感触を反芻しながら見た空は、澄んだ秋の青になっていた。
なぜだか、自分は変われるのではないかと感じた。
こんなつまらないことからでもいいから、少しずつ、
自分を変えていけるか、検討してみよう。