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名も無きねこに

『華氏451度』 読了

2008-05-29 00:04:33 | わたし
友人が訪ねてきたことで具合が悪くなってしまい、二三週間図書館から足が遠のいていた。同じ道を久しぶりにあるいたら、体力が落ちているのがわかった。社会復帰のためにも、まずは体力をつけなければならないと思って、先週から再び図書館に通い始めた。

五日目になる今日、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読み終えた。作者の個性なのか、感傷的な詩に近い表現が多く、それにまずい翻訳が合わさって読みにくい個所が多かった。以前『エンダーのゲーム』を読んでとてつもない悪訳だと思ったけど、これも引けを取らない。昔のSFは翻訳のレベルが低かったのかと思ってしまう。「彼自身を横たえた」とか「ほこりっぽいまぶたをまたたいていた」とか、翻訳の教本に悪例として上がってるような直球過ぎる直訳だったし、原文には無かったであろう読点がかなり多く、読んでいて息が詰まった。

ジョージ・オーウェルの『1984年』に似て、舞台は完全に管理・統制された社会になっている。付録の福島正実の解説によれば、あちらは社会主義・共産主義体制の全体主義社会批判だったが、こちらはマッカーシズムによる思想統制への反発がテーマになっているそうだ。福島の見たところ、ブラッドベリにとってはマッカーシズム批判は口実に過ぎず、本当に問題にしたかったのは彼が科学文明に対して抱いていた滑稽なまでの危機感だったとある。けれど、わたしには単なる科学文明批判というより、書物というものが持つ豊かさに力点が置かれているように思える。

話は主人公の焚書係の役人が自分の生活や職務に疑問を持つところから始まって、科学文明を利用し、民衆を愚かにして一方的に支配しようとする現代社会批判にまで発展する。
焚書官としての主人公は、書物をめぐるトラブルで社会から乖離してしまい、次第に社会的に抹殺されそうになる。その緊張した過程の中で、かえって人間性が取り戻されていくさまは逆説的な面白みがある。特に、川の水面を漂いながら夜空に星をみつける情景は印象深い。こうしたところは、なるほど科学文明批判というわけだ。

終盤、とある登場人物が、「破壊と再生(生産と消費も含意しているかもしれない)というプロセスが同じ事の反復でしかないのなら、人間には未来どころか歴史すら無い。新たな社会は過去の単なる反復ではなく、過去との対話によって形作られて欲しい」といったことを語っている。
最後の場面、全てが破壊された後、再び何かが構築されるときに必要な何かを考える主人公は木々の葉を見て何かに気づく。
何かは述べられていないものの、木々の葉が書物のページの比喩であれば、書物こそ、人間が単なる反復から脱却して歴史をもつために必要なのだと言う答えを主人公が見つけたように思える。

さて、明日からはまた別の本を読む。
今度こそ隣の市の図書館まで出かけよう。
コメント (2)
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