先々週ぐらいから眠りに入るのがやや難しくなってきた。
前は眠りが浅いだけで済んでいたのに。
やっとまともな収入の仕事に就いたとはいえ、まだ給料日にならない。
仕方ないのでひとまず借金をして通勤・生活し始め、そろそろ二ヶ月経つ。
収入の見通しはある程度立つようになったので、ストレス解消がてらイヴ・ボヌフォアの『ありそうもないこと』を頼んで、昨日届いた。
最初の数ページ読んでわたしでも通用しそうな内容であることを確かめ、書棚に置いた。
否定神学のキーワードで調べて見つけた本だったけど、定義ということに疑問をもたざるを得ない姿勢を続けて7~8年、そろそろ何か始める取っ掛かりになるといいが。
インターネットでいろいろ見始めるようになってから、今日初めて「自殺」で検索してWebを見て回った。
最初に出てくるのは自殺しようとする人を思いとどまらせようというサイトが多い。
自殺願望を持つ人同士の交流の場もあるようだ。
わたし自身は特に確たる自殺願望は、意識の上では感じない。
ただ、疲れた感覚はここ数年強まってきている。
ひとしきりWebを見て回った後、無職生活の頃に買ったペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』を数ページ読んだ。
まだ3~4ページ読んだ程度だけれど、さっそく二箇所撃たれた。
「それなのに私は時々、人々に意味もなく母の自殺について語り、彼らがそれについて何か述べようとすると怒るのだ。」
「死ぬことや死んでしまったことについてのジョークは、私にはいっこうに気にならないどころか、それを聞いたり言ったりすると、快い気分になるほどだ。」
2002年、友人が死んでしまったとき葬儀に列席するために集まった知人は、平気で笑い顔を浮かべることができていた。
わたしには、彼らの感覚が理解できない。
死は深刻でなければならない。
そう、信じ込んで生きてきたのは、どこかでそうインプリンティングされたからだったのだろうか。
友人の死に際して笑顔で冗談話のできる人たちとは、漠とした隔たりを感じる。