自分で理解できていないものが、人に理解できるのだろうか?
それとも、それこそ自分を客観視できていないということなのか?
『金閣寺』の主人公は、自分が他人に理解されないことを誇りとしていた。
それにもかかわらず、人生に踏み出そうとした。
試みはことごとく失敗し、美の象徴を破壊するに至って、
ようやく支配と理解に到達できたが。
理解されるか否か、わたしは、それは問題としない。
「私」というものを、確固たる自我を未だ持てず、
理解そのものが可能なのか、それを疑ってしまっている。
自分で自分を理解できていないものが、他人の目から見て、
こうだと言うことができるのか。
まるで、午前の白光が差し込む部屋に閉じ込められ、
時間だけを与えられているようだ。
理解する主体も無い、理解される客体も無い。
独り、変わることの無い、白い光に晒されつづけている。
『金閣寺』のように、美に支配されるのは、それはそれで結構だろう。
すくなくとも葛藤という能動が彼の人生に付随していた。
わたしは、何も無い部屋で、差し込む光の色に目を眩ませている。
この光が何を示すのか、光がなぜ部屋を照らそうとするのか。
闇が呼んだ光なのか。
何かの予感だけはする。
二十年来、予感は予感のままに過ぎてきている。
その先にあるものは、姿を見せない。
金閣の美は、常に完成を予感させながら、
永遠に完成を見ないというのが本質だった。
予感は、一動作の終了と、次に来るものの存在を示す。
人に理解されないことは、わたしにとって、誇りでも何でもない。
誇りなど無い。
理解できない、その事実が、二十年の予感の日々の隙間を、
毎日埋めている。
光の源、本質を理解できれば、誰かに何か伝えられる。
光を突き止めなければ、わたしはわたしを理解できないだろうし、
その先の人生に踏み込んで、立ち回ることも出来ない。
それとも、それこそ自分を客観視できていないということなのか?
『金閣寺』の主人公は、自分が他人に理解されないことを誇りとしていた。
それにもかかわらず、人生に踏み出そうとした。
試みはことごとく失敗し、美の象徴を破壊するに至って、
ようやく支配と理解に到達できたが。
理解されるか否か、わたしは、それは問題としない。
「私」というものを、確固たる自我を未だ持てず、
理解そのものが可能なのか、それを疑ってしまっている。
自分で自分を理解できていないものが、他人の目から見て、
こうだと言うことができるのか。
まるで、午前の白光が差し込む部屋に閉じ込められ、
時間だけを与えられているようだ。
理解する主体も無い、理解される客体も無い。
独り、変わることの無い、白い光に晒されつづけている。
『金閣寺』のように、美に支配されるのは、それはそれで結構だろう。
すくなくとも葛藤という能動が彼の人生に付随していた。
わたしは、何も無い部屋で、差し込む光の色に目を眩ませている。
この光が何を示すのか、光がなぜ部屋を照らそうとするのか。
闇が呼んだ光なのか。
何かの予感だけはする。
二十年来、予感は予感のままに過ぎてきている。
その先にあるものは、姿を見せない。
金閣の美は、常に完成を予感させながら、
永遠に完成を見ないというのが本質だった。
予感は、一動作の終了と、次に来るものの存在を示す。
人に理解されないことは、わたしにとって、誇りでも何でもない。
誇りなど無い。
理解できない、その事実が、二十年の予感の日々の隙間を、
毎日埋めている。
光の源、本質を理解できれば、誰かに何か伝えられる。
光を突き止めなければ、わたしはわたしを理解できないだろうし、
その先の人生に踏み込んで、立ち回ることも出来ない。