ここ何日か、
素人の小説書きが集まるサイトをながめていた。
理解してくれる相手を求めて自分の作品の読み手を探す者もあれば、
プロの物書きとして身を立てるため、読者や他の作者の意見を広く求める者もいる。
大体、利用者はその二手に分かれる。
投稿された作品には、批評という形で感想文をつけられるのだが、
それを読んでいて、「趣味志向」に対する「プロ志向」の攻撃的な姿勢が目に付いた。
プロの作家が書いたものでさえ、一般の読者から批判の雨を受けるのだから、
そのような場所で作品を発表する以上、
プロが甘んじて受ける以上の酷評に耐えるのが「当然」だという立場から、
あくまでも趣味としてひっそり物を書いて読み手との親密な交流を願う
書き手達を、容赦なく攻撃して排除すべきぐらい考えているようだ。
そこには、「自分がこう思うから」と「当然」という言葉の勘違いがある。
批評を依頼してもいない見も知らぬ相手に、一方的に物差しを振り回されて、
何人かの書き手が追放されてしてしまったようだ。
無論、酷評する連中の言も全く的外れということも無く、
いくつか読んでみた作品には読むに耐えないものもあった。
しかし自称プロ志向の連中の批評も、良くない作品に対しては、
感情に任せに「駄文」と一言で切り捨てて、
大した論理構成も無い感想文を並べているだけで、
その点自覚が無い分始末に悪い。
何がどうして駄文となって、それをどう改善すればよい作品につながるか、
そんな議論も出来ないようでは、誰にとっても得るところが無い。
むしろ、趣味でやっていきたい人々にとっては、
そんな余計な批判をする書き手など、神経質で攻撃的な闖入者にすぎない。
また、そうしたプロ志向の人々が書いたものも、
二千字程度の短編なのに誤字脱字があったり、
ひどいものは一人称の統一ができていないという、
小説では初歩的なミスを犯しているものもある。
それで、どうして、人様を非難する気になるのか。
「自分はこれだけ懸命に書いているのに、
こんなちゃらちゃらした奴らなんか物を書く資格なんか無い」と、
大方そんな程度の根性で批評をしているのだろう。
中には自前の小説論を得々として連載している輩もいる。
持論の展開はそれはそれで結構。
だが、さまざまな前提に矛盾があり、
論として構成が行き届いていないにもかかわらず、
「プロ」の作家による『文章読本』で相当の紙数を
割り当てているような話題に対しても、
わずか一千字程度で話を終わらせて次々と主題を変え、
単に「ボクはこうおもいます」という小文が重ねられているだけで、
新しい読み方のひとつも提案できないでいる。
これまでにさまざまな『文章読本』が書かれてきて、
その上で、いまさら屋上屋を架すような小説論を展開する狙いがわからない。
そして、そういった書き手に限って、趣味の書き手を攻撃する急先鋒だったりする。
書くという行為は自己表現であり、
表現されるものが自己である以上、
そこには読み手とのずれが生じる。
そのずれている部分を、
正しい・正しくないという議論に持っていってしまうあたりに、
攻撃的な書き手の思考の未熟さがある。
ずれていると感じる部分に対して提示できるのは、
可能性の問題であり、正・誤の問題ではない。
自分の感覚とずれているから「誤り」という一言で
片を付けてしまえると思い込んでしまっているのだとすれば、
それはあまりにオメデタイ話だ。