日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

頭の中の付箋。

2015-03-08 19:10:13 | 発達応援
 久しぶりに市内の温泉へ。
施設が新しくなっていてびっくり。
そして、温泉の入浴料も390円、高くてびっくり。

 私が20代の頃は200円とか250円だった温泉の入浴料が、
いつの間にかこんなに高くなっていたなんて…。
私も「昔は安かった~」なんて、昔を懐かしむお年頃の領域に入って来ているんですね

 このところ、「わからない」という言葉について色々考えて、
ヒントになりそうな本を読んだり、ネットを検索したり、自分でも考えたりしています。

 こういうことを考えているのは、
先週、フォイヤーシュタインの勉強に来ている子と
写し絵をしていた時に子どもが発した「わからない」が発端です。

 コピー用紙に絵カードを挟んで、線をなぞる写し絵で、
写し絵をするには少し紙が厚いものの、きちんと紙を押さえれば写し絵ができます。

 写す絵は、比較的簡単なものであったにも関わらず、
写し絵はうまくいかず、途中、押さえる手伝いをしても効果はなく、
子どもの口からは「わからない。」という言葉が何度か繰り返されました。

 そのときは、止まったものを見ることが苦手な子どもが、
紙の厚さに妨げられての見辛さと集中して見ることの不得意さから発せられた
「わからない。」という言葉であったのだろうと私は理解しました。

 しかし、その後、違う視点が浮かんできました。

 そもそも、写し絵をやった子どもには、
うっすらと見える線をなぞることで、
紙の下の絵と同じような絵が出来上がることがわかっていたのでしょうか。

 このことがわからなければ、なるべく同じ絵になるように!という努力や
線を正確に見ようとする気持ちはうまれないでしょう。
「上手に同じような絵ができたぞ!」という充実感も出てこないでしょう。

 私が写し絵をした意図は、じっくり線を見る練習の一環だったので、
目が見えている子どもに、線を良く見させればできる、との思い込みがありました。

 しかし、子どものほうでは、
線は見えているものの、それを上からなぞったらどうなるかのゴールが見えていなくて、
はみだしたり、うっかり適当なところにも線を引くと、
「違うよ。」と言われる訳で、
「線引けばいいんじゃないの?色々な同じような線を引けばいいんじゃないの?」という?マークで頭がいっぱいで、
しまいには「わからない」とイライラした態度になっていたのではないかなぁと、
いう考え方も出て来たのです。

 本当のことはわかりません。
ただ、こうして、ああかな、こうかな、振り返りと試行錯誤することでしか、
進歩がないのでいつまでも頭の片隅に置いておいて考えます。

 こういうとき、同じように実践をしているのお仲間がほしいなぁ~と思うことですね。



 
コメント
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