日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

何のための修行なのか。

2017-08-25 17:14:52 | 発達応援
 家の中に五匹も猫がいると、色々と観察して、ふーん、ふむふむ、と思うことがあります。

 例えば、エアコン好きな猫とそうでない猫がいること。
暑がりな猫とそうでない猫がいること。
猫は涼しいところが好き、というよりも、冷たいところが好きなんじゃないか、ということ。
遊ぶときにジャンプが多いほうが疲れるのが早そうなこと。

 等々。

 エビデンスはありません。
我が家の猫の観察結果ですので、苦情は一切受け付けませんのであしからず。

 もう何回目だか、読み直した『発達障害、治るが勝ち!」

 

 読みながら、「そうそう、そうなのよ!」と思ったので引用します。

 私は(注:著者の浅見さんのこと)発達障害の人たちが持つ偏りがそれほど嫌いではなかった。
そういう意味で「発達障害を治すべきだ」とは考えていなかった。
交流を重ねながら、その世界観の違いも楽しんでいたりもした。


 ここで、私がそうなんだよなーと思ったのは、
学校で関わった子どもたちにしても、それぞれ、独特の世界観を持っていて、
ああ、そういう視点は私にはなかったよ、というようなものの見方の切取り方や考え方を
関わっていた子どもたちがしていて、それは、その子らしさで面白いなぁ、と感じていたからです。

 だけど、独自の視点や世界観は良いとしても、
その世界観が邪魔をして、約束が守れなかったり、
すぐに疲れてしまって、色々なことが長続きしないのは、不便なことと私は思っていました。

 凸凹っ子のすべてを治すのではなく、本人が前進するために妨げになっているものを
取り除く手伝いができれば良いなぁ、支援員をしていたときにそんなことを思っていました。

 それは、別に担任や教科を受け持つ先生にとって手がかからない子、ではないし、
親にとって御しやすい子どもではありません。

 そこをはき違えると、とんでもないことになってしまいます。

 だからこの本の中の「修行をしないほうがいいケース」というのは、
そうだ、そうだ、そうなんだよねぇ、と自分の中のもやもや〜っとしていたことが言語化されて、
とても、納得しやすかった章でした。

 修行は他の誰かになるためではなく、より自分らしい自分になるためにある。

 そのためのお手伝いができたらいいな、と思うことです。


 
コメント
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