去年頂いていたクリスマステーマの紅茶。
アイスティーが飲みたくなって、近頃、毎日淹れて氷山盛り入れてごくごく飲んでいます。
ちょっとオリエンタルな、チャイっぽくもあるお味です。
湿度と暑さでむせ返る日々にシナモンやクローブ、カルダモンの効いたスパイシーな紅茶は爽快です。あーおいしい!
学校に支援員として勤めている時。
例えば字は覚えているけれど、書くのが全く追いつかない子や勉強ができないわけではないけれど、外の音や声、木々の揺らぎなどに気を取られ授業の内容が掴めなくなり担任の先生に怒られてしまう子などに、「早く書きなさい」とか「集中しなさい」というのは解決策にはならないよねぇ、という思いがあちこちで学んだ知見でありました。
だから、休み時間や放課後などの隙間の時間で、体を動かすことや目を動かすことに子どもと一緒に取り組めたら少しは改善していくのでは、と思い時々、担任の先生を通じてそういう子に声をかけてもらい、一緒に取り組むこともありました。
でも、今思うとそれは、果たして本人のためだったかなぁと感じることがあるのです。
中学生で「どこ見てるのか分からなくなる」と言った子も居ましたが、どちらかと言うと毎回、事あるごとに注意を受け授業が中断する、その中断を避けるために、その子の学習する上で障壁になっているであろう所を改善しようとしていたのではないか、と思ったのです。
そんなことを考えたのは、先日のZoom講座で栗本さんが「困ってるのは誰なの?」と言われたことがきっかけで、ふと、過去の自分の姿が質問された方と重なったからだと思います。
確かに、生活や学習に向き合う上で、できるようになった方が良いし、本人のためにもなることなのだけれど、時を待たなければできないこともあるものです。
それは、自分の細かな状態を言語化できない小さなお子さんならなおさらのことかもしれません。
そういう「待つ」時間を忘れないようにしなくてはなぁと、改めて感じる近頃です。
というのも、父が書き残した1歳3ヶ月〜小学校入学までの私の記録を読み返していることも大きく影響しています。
「自分で」とスプーンで食べていたのも束の間、手掴みで脂の乗った魚の煮付けに手を突っ込みもぐもぐ食べ、満腹になると脂塗れの手や服で食事中の父に寄りかかり辟易とさせたり、「トイレよ」と促され断固拒否して眠りにつき、挙句、あろうことか父の枕に足を乗せた寝相で父の左側頭から肩にかけて大おねしょしたことなどなど、
大いに大迷惑をかけながら日々過ごしている姿がそこにはあります。
たくさんの自立して、一丁前になっている大人も、かつては果てしなくも思えた厄介なことをしでかしながら、大きくなっています。
昔よりも忙しい日々かもしれませんが、子どもの育ちは昔も今も、そんなに変わりがないのでしょう。
待つこと、大切にしたいなぁと思うことです。
愛を感じますね。
ありがたいなぁと思いました。